3-14.月が笑う夜
元気ないっすね、とどこか他人事のように、それでもおずおずと後ろをついてくる隻腕の男に、デューは頭を無造作に掻いた。そんなことねえよ、それだけ答えて色あせた石畳を進んでいく。カインから助けてやって以来、もちろんデューにはそんなつもりなんて毛頭なかったのだけれど、隻腕の男は自分を慕う雛みたいでほっとけなく、煩わしくは感じない。
カインと別れてすぐ、男がデューを見つけて共に夕飯を取り、今は私設の娼館に向かっている。人気も少なく、ごろつきがたむろする貧民街近くの娼館は、デューの行きつけだ。娼館は古びていて見た目は悪いが女の質は極上で、デューは好んでそこを利用していた。石でできた娼館は薄汚れた灰色と橙に塗られていて、明かりもぼんやりとした獣脂の角灯が並ぶ程度だ。入り口先で呼び込みをしていた女たちが、デューを見て愛想笑いを浮かべてくる。隻腕の男は嬉しそうに舌なめずりをし、きっと今から品定めをしているのだろう、前からわかる程度には興奮している。
「お前、いい加減馴染みの子つけろよ」
「でもですね、親分、みんないい子ばっかだ。目移りしちまうんですわ」
「支払いが俺だからって簡単に言いやがって。あと、親分呼びはいい加減やめてくれ」
「親分は親分だ。命の恩人を呼び捨てにしたりできませんわ」
そういうもんかな、と頭の中で首を傾げながら、二人で娼館の中に入る。馴染みのデューが来たことで、女たちは嬉しそうに黄色い声を上げた。財布程度にしか思われてないのだろうけれど、こっちもそれは似たようなものだ。割り切った関係が一番楽で、とりわけ今のデューは刹那的な、気軽に話せる相手を望んでいた。ソズムたちはだめだ、と心の中で思いながら、女たちを引き連れて広間につく。
広間は、橙色の綴織りが踏みにじられたせいか毛先を立たせている程度で、他に目立った金目のものは見当たらない。ここに来る傭兵で一番腕がいいのは、デューだ。他にも剣士や騎士がたまに来るらしいけれど、強盗の真似のようなことをされた際、すぐに動けたのはデューでそれ以来、なにかと支配人には便宜を図ってもらっている。例えば、三十路以上の緑の髪の女はだめだとか、豊満すぎる体つきの女性はだめだとか、デューの過去を想起させてしまう女性をつけないことなど。初物や、激しく求めてくる女も、デューは受けつけない。幼いとき、家庭教師に性的な虐待を受けたときのことを思い出してしまうから。
それでもデューが女を欲するのはなぜだろう、自分でも不思議に思いながら、木でできた椅子に座る。これが高級な娼館なら、寝そべられるほどの安楽椅子などが置かれているものだが、ここにそんなものは求めていない。隻腕の男はいつものように落ち着きがなく、そこいらを歩く薄着の女性に目が釘付けになっている。しばらく値踏みしたあと、男はどこかこわごわとした様子で口を開いた。
「そういや親分、傭兵でもう一人二つ名持ちが出るとかで」
「ああ」
「それって、奴のことですかい?」
ちょっと怯えを孕んだ声に、デューは頭を掻いた。
「奴、ってのは、カインのことだな」
「そうそう、そんな名前ですわ。もう町中の噂でさぁ。おいらの腕をこんなんにした奴なのに、ひでぇや。あんな奴より親分の方が強いですよね?」
「本気でやったことないからな、わかんねぇよ」
そう苦笑を浮かべておきながら、デューの思考はめまぐるしく動いた。経験は自分の方が上だな、そう思う。殊魂術は確実にカインの方が上で、使い方もこなれてきている感じがした。本気でぶつかったら、と思い描こうとしてやめた。不毛に過ぎる。
案内人の男が出てきて、デューににこやかな笑みを返してきた。デューもよく知る、年嵩のいった年配の男だ。馴染みの子をつけてもらい、部屋を用意してもらう。自分を慕う男は未だ迷っているのだろう、先に金銭を払い、適当な女性をつけてもらうよう頼んだ。
「あとは勝手にしな。俺は先にいってるぜ」
「わかりやした、ゆっくりして下さいね、親分」
「だからそれ、やめろって」
やりとりを無視して、黄色い瞳と短い髪をした女がデューの腕をとる。細身で胸も尻も小ぶりだが、色香だけは一丁前だ。歳は確か二十歳前で、名前も聞いていない。でも、その程度の相手と一夜を共にするのは、数少ないデューの心の慰めだ。もちろん同業者たちと酒を飲み交わす、そういったことも好むけれど、今はただ、欲求に溺れたかった。粗末な部屋、寝台と綴織り、そして角灯の明かりだけがまぶしい部屋の中で、デューは束の間の快楽をむさぼった。自分の心に赴くまま、忠実に。
女を抱きながら、でもデューの頭は冷え冷えとしており、どこかで冷静な自分が自分を嘲笑っている気がした。体を律動させ、女の嬌声を聞きながら、体の全てが溶け落ちていくような感覚を味わう。自分は、一体なにをしているのだろう。熱中しようと再度女の腰を引き寄せ、滑らかな肌へ唇を落としていくけれど、それに熱中してゆくたび、頭の中は澄んでいく。姉のこと、父のこと、伯爵のこと、競馬会のこと。全部忘れてこの一瞬に夢中になりたいのに、理性がそうさせてくれない。
女の悲鳴にも似たあだのある声が響き、デューは我に返る。気をやった女から体を離し、そこいらにあった布をかけてやる。窓からは月が弧を描いていて、まるで自分を馬鹿にしている笑みのように見えた。嘆息し、寝台の端で頭を振る。汗が数滴、体を伝って落ちていった。熱気が充満する部屋の中で、デューは惚けたように、角灯の明かりを見つめた。
磨かれている角灯の硝子に、自分の顔が歪んで映っている。ひどい顔だ。生気に満ちたいつもの、明るく気のいい男といった自分は一体、どこに行ったのだろう。
競馬会に出るなら、とデューは仕方なく、頭から離れない思考をまとめることにした。ノーラのように変装をしなければならないだろう。声を変える術は自分にはない。少し喉を痛ませるが、術具店で声変わりのできる薬草でも煎じてもらおう、そうも思う。荒い息を立てつつ眠りについている女の臀部に触れながら、パードレウの家で見せてもらった黄金色をした見事な馬のことを思い描く。足についた筋肉も、ちょっと戯れた程度だが、気質も穏やかでとてもいい馬だった。あれに乗れる、そう考えるだけで高揚感に満ちるけれど、姉であるフィージィの顔が硬くなっていたことを思い出し、陰惨とした気分になる。
断れば良かったのかもしれない、むしろ、それを姉であるフィージィは望んでいたのではないだろうか。けれどそう思う一方で、父に秘密で動くから、そう必死さすら漂わせてパードレウと共に競馬会に自分を誘う姉の様子は、いささかちぐはぐにも思う。ふんぎりがつかないフィージィの態度はデューを苛つかせ、心の中にもやを作る。結局、彼女はどうしたかったのだろう、それがまったく見えてこなくてデューは頭を掻いた。パードレウはもちろん熱心に、最後の競馬会ということもあってか、デューの走りを期待していた、それにつきるのだけれど。
デューはただ座っていることに飽き、部屋の奥にあった小部屋に行くためそっと立った。女が起きる様子はない。大変だよな、とあどけなさを残した寝姿を見ながら苦笑する。
小部屋の中には従業員が汲んできたお湯が用意されており、泡を立てる薬草も準備されていたから、それで体を洗っていく。これは普通、娼婦の仕事なのだけれど、デューはそれをさせない。寝られるときに寝させてやりたい、デューの意図はともかくそのやり方をありがたく思う女は多く、だからどの娼館でもデューは娼婦たちから支持を得ている。泡で一日の汚れを落とし、お湯を頭からかぶってその感触に震えた。木のすのこでできた床から、下水に水が流れていく様をデューはじっと見つめていた。
パードレウのこと、姉のこと、父のこと。全部こんなふうに、泡に流れて消えてしまえばいいのに。そう願いながらパードレウには恩義もある、そんなふうに考えてしまう自分の矛盾に腹が立ち、デューはその場に突っ立っていた。隙間から入るのは紛れもなく秋風で、湯冷めをしてしまうかもしれないけれど、そんなことは構いやしなかった。ともかく今は、と澄み渡った思考の中で考える。競馬会に出ると決めたなら、それを貫き通すだけだ。どんな思惑が他のものにあろうとも。
競馬会まで大体半月程度はある。ソズムに事情を話し、少しの間乗馬の練習に明け暮れた方がいいかもしれない。野をただ駆ける荒馬とは勝手が違い、競馬会では用意された妨害物を、どれだけ美しく飛ぶかも基準に入っている。近くには神殿祭もあるし、近辺の護衛や警護となれば騎士団が出てくるだろう。あとは強い<妖種>が出てこないことを祈るだけ。そこまで考え、デューはくぐもった笑いを漏らした。一度だって神に祈ったことなんてないから。
ひとしきり笑うと、さすがに鳥肌が立つほど寒くなってきたから小部屋から出る。女はずいぶん疲れているのだろう、まだ眠っていて寝台の上で寝返りをしたのが見えた。デューは服に着替える前、女の私物として転がっていた香水の香りを嗅いだ。爽やかで目が覚めるような、少し薬草を煎じた感じの安物の香水。それを首元へふんだんに吹きかける。今度、香水を新しく買って持ってきてやろう、そう思う。娼人には優しくできるのに、ここ最近、その優しさを周りに上手く表せない自分がいて、無性に苛立たしい。
でもきっと、とデューは思う。もしかしたらそれが自分の本質なのではないか。気のいい自分なんて、どこにもいないんじゃあないか。仮面みたく後からつけたものとして作り上げた、偽物の自分ばかりが先行していただけのことで。
服を着て爽やかな香りに浸る。床に座りながら、デューは月をもう一度見た。自分を嘲笑う月を。ソズムの、カインの、フィージィの、父の唇を月の形に重ねて頭を一人、振る。本当に自分を嘲笑しているのは、きっと自分自身だ。




