3-11.恐怖の行き場
洞の中は手入れが行き届いているのか、カインとデューが全速力で走っても砂煙が少し立ちこめるだけでかび臭い匂いはしない。むき出しのまま複雑な模様を描いている岩盤には、硝子に閉じこめられた蝋燭がつけられ、模様を明るく周囲の暗闇へ浮かび上がらせている。きっとここにきた誰か、ないし管理人がいつも取り替えているのだろう。蝋燭の長さからしてまだ時間はそう経っているものでもなく、もしかしたらキュトスス家に仕える誰かが率先して用意をしていたのだとまで推測したノーラは、横脇に抱えられながら額に浮かぶ汗をそっと拭った。周囲を見渡す余裕はまだあるけれど、さすがは星霊湖の主というところか、押し返してくる波動が強く、熱い。これが赤ならきっと負けていたことに舌打ちしそうになってやめた。
二人の足は名の表すとおりに疾風で、風の音と共に混じって聞こえた滝の落ちる音が急速に近付いてきている。滝壺の先が湖と繋がっているのだろう、洞も滝の裏にあった。今まで数本、道は分かれていたけれど、奥に続いているだろう確実な道をデューは知っているみたいで迷いはなかった。少しずつ、段々と暗がりが周囲を包みこみはじめているのを確認し、でもどこかから漏れている陽の明かりが目に入った瞬間だった。開けた広間みたいな場所に出る。新鮮な水が溜まっていて、一番奥には落下を続ける小さな滝。三角に尖っている天から射しこむ陽光は少し心許ないが、決して戦うのに不利なほどではない。周りの岩も十分硬そうで、これなら足場に使えるだろう。まだ大王亀は姿を現しておらず、二人が術を解いたと同時にノーラも固い地面に足をつけた。
「いねえな」
「おびき出せばいいのよ」
吐き捨てるように呟くデューの顔を見て、私情が含まれていないかノーラは内心心配したが、真顔のそれは傭兵のもので我を忘れたときとは打って変わっている。多分長年の経験か、彼も知っているのだろう。戦いで私情を挟めば死ぬということを。滝の音だけが反響する空間の中、ノーラは殺気があるかを確認しつつ、張りつくように涌き出る汗を何度もこすりながら武具を構える二人を横目で見た。
「呼び出す前の注意だけど、特にあの髭には注意してちょうだい。粘着質だから動きを封じられる。カイン、あなたならわかるだろうけど」
「あれを断ち切る術はないということか」
「燃やす、かどうにかする」
「いけそうか? 青の波動、結構強いんだろ、アイツ」
ノーラは無言で頷く。青で防がれる危険性もあるが、それでも大王亀の髭は真っ先に叩いておくべきものの一つだ。
「大人しい<妖種>がどうして、こんな事を起こした?」
「知らない。ただ……」
言いかけてノーラは頭を振った。歪んだ虹が出るとか、強力な<妖種>が現れる、<妖種>が変な行動を起こすなどといった物事は『詞亡王』の出現時に噂されている物事の一つで、でもしっかりした確証はない。怖気を超えて気力すら吸い取られそうになる『詞亡王』の気配はまだない。来たら一発でわかるくらいに強力な気配と波動を持ったものがもし現れていたなら、例え戦うことを知らない幼子でもわめくだろうし、町人だって気付ける。でも、それは今、口にする話題ではないだろう。
「カイン、光を湖に落として。そのあと爆発させてちょうだい」
「わかった」
ノーラは戦斧の刃を外し、道の端に置くと穂先があらわになった槍を両手で構えてカインの行動を待つ。波動はまだ身体の中で溶岩が押し合うように、熱を帯びて身体に火照りを与えてきている。手に汗をかくことが少ない体質に感謝しながらも、集中は怠らない。カインが数歩歩み出て、閃光の下位術を宣言する。手に浮かんだ光の球をそのままに、こちらへ首だけを向けた。デューはうなずく。ノーラも同じく。それを見て、カインはためらうことなく水中へ光球を落とした。透き通った水の中にある花や苔、そんなものが光に照らされて落ちていく。数回またたきをする程度の長さで、カインが落とした光球は閃光となり、天上から降り注ぐ陽光よりもなお強く周囲を暴き出した。
そして、待つこと半刻も経たぬうちに、地響きがノーラたちの身体を揺らす。波動が強くなってきているのが分かる、そして殺気も。身体の中の臓腑を揺さぶる震動がどんどんこちらに近付いてくることが分かると、デューをそのままにカインとノーラが後ろに下がった、そのときであった。
フィージィを捕獲したまま、怯えと殺気とを含ませて、大王亀が水面から姿を現す。水飛沫が小雨となる。絞首台に吊されるときみたいに体中を捕縛されたフィージィは動かない。しかし首元に髭が絡まっている様子はなく、青い光で体中をともらせながら黙って宙吊りにされているがままだ。術が消えず、まだ残って彼女の身を守っているというのなら、とノーラはカインと反対方向に駆け出しながら思う。フィージィは決して死んでいない。ノーラの目標は自由に動く一本の髭で、それさえどうにかすれば殊魂術を自在に使う余裕も出てくる。散開したおかげで三本の髭は敵をそれぞれに定め、まとまった様子を見せない。風の術で速度を速めたデューの動きはまさに旋風であり、髭を躱してなお果敢に攻めはじめようとしている。
「揃えて生誕、風裕!」
水辺にデューが足をつけた瞬間、カインの言葉が空気を切り裂く。デューに放たれた翠の光はまごうことなく彼の足に光を灯し、刹那デューは宙に飛んだ。天上近くの岩盤を足場に髭の追求をかいくぐり、甲羅の上に乗る。ぐるりと首を回してデューをにらみつけた大王亀の注意が逸れた瞬間、波動に押し勝つ手応えがノーラの身体を駆け巡る。その身体を抉るように髭が伸びてくる。鞭のようにしなやかな髭の勢いはとっさに避けたノーラの脇腹をかすめ、白い甲冑に痕をつける。影よ、とノーラはささやく。ノーラの近くにあった岩の影から射出された鋼糸が数本、巻き戻るようにして再び踊り狂う髭をすんでのところで貫き、動きを止めた。槍を両手で構え、跳んで体重を重みへと変えて地面へとくくりつける。保護する粘液を撒き散らし、髭の一本は串刺しになった。まだ動いてはいたけれど、時間稼ぎくらいにはなるだろう。
「宴と供物在りて成るは風! 風牙っ」
カインの声が、術の威力が光と音になって周囲に響く。風をまとった短刀を飛ばし、髭を岩盤側へ押し返していく手腕は見事なものだ。だが重さが足りない。影に仕込んである鋼糸を繰り出そうとしたそのとき、不意にフィージィの身体が投げ出される。落下するフィージィを風の術を行使して受け止めたカインを狙い、短刀をつけたままの髭と自由になったままの髭二本が二人を狙う。駆け出していたノーラは背後に跳びながら指を矢印のように向け、二本の髭が交差する場所を示し、叫ぶ。
「宴と供物在りて成るは炎、火弾!」
放たれた火の玉はしかし、焼き焦がすまでには至らない。炎から飛び出した二本のうちの一本がノーラの頬を打つ。衝撃と共に口の中が切れ、鉄を舐めたような味が広がる。後ろに下がり、勢いを殺しておいて正解だった。下手をすれば首ごと持って行かれていただろう。唾液と共に血を吐き出して、閃光が走る頭の片隅でもう一度、影にささやく。飛び出す鋼糸を一本が躱した。悲鳴にも聞こえる美しい咆哮を上げる大王亀は、髭と首へと攻撃を繰り出し続けているデューに狙いをつけ、二本目の髭を繰り出した。デューの攻撃が止まろうとした瞬間、カインの援護が術となってデューの足と手首に翠の棘を生み出した。そのままデューは凶悪な、でも冷静さを併せ持った不気味な顔で髭の一本を風の威力を借り、切り落とす。水の中に髭の半分が落ちて飛沫を上げる。短く切られた一本は亀の甲羅の上にいるデューまで届かない。
デューの動きは凄惨を極めた。回転し、跳ね返り、ときに岩盤に戻って勢いのまま拳と足とで首の分厚い皮膚を切り裂いていく。それでも全力を出すには、とノーラはふらつく足でデューの攻防を見ながらその場に膝を突き、自身の影の中に手を入れる。狙いはデューが持ってきていた橄欖油の瓶。少し遠くでも影場にあれば掴める目的の小瓶は、無事な姿で手に収まる。
「カインっ、土!」
フィージィを背後に彼女を守るカインへノーラは叫んだ。カインはうなずく間も見せず髭の周囲にある土埃を浮き上がらせた。ノーラは痛む頬と首を無視して浮いたそれらへ叩きつけるようにして油をかけると、火弾の術を放つ。燃え上がる。波動を超えて着火した火の勢いは強く、一本が意思を持つかのように炎の中で悶え、くねっている。直後、その勢いが増す。カインの手から放たれたそよ風が炎を煽り、その大きさを増している。火の勢いが強まった今なら中級の赤でも、象徴媒体があれば十分すぎる。しかし交術は使えない。デューを巻きこむことになる。できることは一つ、デューを追いかける最後の髭を燃やすこと。
「揃えて生誕、炎撃!」
踊る火炎の吊布が宣言と共に現れ、デューを追うのに夢中になっていた髭の鼻先を焦がし上げる。デューは炎に包まれた髭の一撃を避け、宙で反転し蹴りを二発、首に食らわす。棘はまだ生きている。風の棘に切り裂かれた亀の首からはじめて血飛沫が飛び散る。首を振り回して落とそうとする亀に、デューは鉤爪を傷跡に引っかけてこらえる。足首についた棘を強めるため、カインの術が再度飛び交う。カインへ向かって忌々しげに首を戻した亀の瞳は充血しきっていて、理性はもはや存在しないことをノーラは直感で理解した。その中に誰に対してか、あるいは自分たちに対しての恐怖があることも。痛む胸は隠す。隙を見せれば優位な状況が崩れる。そんなものは心のどこかにある小箱にしまっておけばいい。
狂乱した亀が弱点を隠すかのように、首を引っこめる仕草を見せた。逃さない。水中と岩盤に浮かぶ影を使い、そこから残りの鋼糸を顎部分に向かって集中させ、動きを封じる。同時にカインが放った短刀が瞳を貫く。片目を完全に潰され、甲羅に戻ることも叶わない亀はあえぐように天を仰ぐ。首の付け根にあった銀色をした印みたいな文様が薄暗闇の中、陽に照らされて輝く。デューはそこが核だと理解したのだろう、糸を掴み跳んだ。怒号。糸で手を切ることも厭わず、デューは鉄棒で回転する容量で一回転、遠心力を拳に預けるようにして鉤爪でその、唯一柔らかい部分を抉るようにして突っこむ。皮膚を破り、肉を裂いて文様が切り開かれていく。体中、噴き出した血にまみれながら、デューはもう片方の拳も突き出した。悲痛な叫び声を上げる亀が、まばゆいほどの青い光を周囲にまき散らす。デューの身体が半分以上、首の付け根に隠れたとき、その光は最大となって刹那、勢いが薄れて甲羅や足の輪郭が光の粒となって天へと舞い上がっていく。
髪の毛から顔まで、全て血に濡らしたデューは水中に向かって綺麗な弧を描き、飛びこんだ。歌のように聞こえていた鳴き声が止み、大王亀が光となって消えていく。青い発光は辺りに色彩を残し、でもそれも儚く一瞬のことだ。髭ももう消えていたし、残されたのは無事な数本の鋼糸に槍、そして痛む頬と首だけだ。ノーラはいつの間にか止めていた呼気を、勢いよく吐き出す。けれどまだ仕事は終わりではない。こちらに顔を出して泳いでくるデューが無事だと目視したあと、カインを確認する。カインの手に残されていた短刀は一本。水に落ちたりした短刀の回収を試みるのは、まだ先でいい。惚けたような顔をしているカインの側に近付く。
「お疲れ様、カイン」
「……ああ」
「また変な光、見たの?」
「見た」
「お前らさあ、オレには労い、ないわけ?」
水から上がる音がして、びしょ濡れになったデューが疲れた顔でぼやいてくる。手からは赤い雫が垂れ、岩場に水滴と違った染みを作っている。ノーラは一旦話を切り替え、近付いてくるデューへ苦笑を浮かべて見せた。
「あなたがいて助かったわ。無事で何よりよ」
「おう。援護ありがとな。カインも」
「いや……」
「さて、お嬢様は大丈夫かしら。カイン、そこ、どいてちょうだい」
傷を癒やしたり、短刀や鋼糸を回収するより先にすべきことがまだある。カインを立たせて横に寄せたノーラは、横たわるフィージィを確認していく。
フィージィは気を失っているだけだった。ノーラが放った救水の効果で、水中にいても水と酸素の間に作られた層が彼女を守り、服をすら濡らしていない。粘液も幼く見える彼女の顔を汚してはおらず、取り立てて異常はないように見えた。穏やかな呼気をしていて、顔色の悪さを除けばまるで眠っているだけのようだ。それでも絡め取られたからには一応の確認をするのはノーラの仕事であり、義務だ。しゃがみ、首布へ手をかけたところで、背後を振り返る。カインとデューがそれぞれ、心配と真摯な顔つきでこちらを見つめている。
「男子禁制」
「あ、わりぃ」
すぐに理解したのか、デューはくるりと後ろを向いた。カインは言われて小首を傾げてから、ようやく慌ててデューに倣った。ノーラはカインの不審な挙動を無視し、首に巻かれた絹布を外し、丁寧な所作で腕やあばら、腹部に異常がないかゆっくりと押したりさすっていく。痛みや違和感を覚えていないみたいで、唇から漏れる呼吸も安定している。そんなことを繰り返し、服の中央に着いている釦の一つを外した、そのときだ。呻きを上げ、フィージィの身体が動いた。指先の微細な動きを見て、ノーラは穏やかに声をかけた。
「大丈夫? 怪我はしてない?」
「……デュ」
「何?」
「シェデュは」
紫の、菫みたいな双眸がわずかに開かれ、小さな声がそれでも大きく空間に響く。目には涙がたまっていて、今にもこぼれて頬を濡らしそうだ。手が震えたと思えば、フィージィの全身ががくがくと大きく揺れ出した。ノーラは安心させるように片手を両手で包みこみ、デューの方を振り返る。首だけを動かしこちらを見ていたデューと目が合う。彼は困ったような、苦い草を食べたときみたいな顔をして、眉を寄せている。デュー、と小声で彼の名をノーラも呼ぶ。デューは頭を大げさにも見える所作で掻いて、視線を逸らした。意図的な無視だと傍目にもわかった。ノーラはため息をつきそうになってやめ、フィージィの背中に手を回して上体を起き上がらせる。
「立てる? 肩につかまって」
今、フィージィに必要なのは自分ではない。肩だけを貸し、ようやくフィージィが生まれたての馬みたいな足取りでその場に立ち上がったとき、こらえていたであろう涙が振動でこぼれる。ぎゅっと唇を噛みしめて耐えた彼女はノーラを突き飛ばすような勢いで駆け出すと、明後日の方向を向いているデューへしがみついた。シェデュ、と何度も弟の名前を呼んで涙を隠すように胸へ顔をこすりつけている。でも、デューは抱き留めることもせず、背中をさする真似をもしなかった。鉤爪がついている両手を後ろに回し、ただされるがままになっている。血に塗れた手を、姉に見せまいとするかのように。
気丈にも嗚咽を漏らすことを許さないフィージィの、それでも恐れに満ちた声が小さく、ノーラの耳に入ってくる。泣けばいい、とノーラは困った、けれど真剣なまなざしでフィージィを見下ろすデューのおもてを見て思う。泣くことが許されるときは決まっている。とりわけ、立場がある人間ならばなおさらに。涙を見せる相手と場所が存在するのなら、泣いて心を晴れやかにすればいい。いつかそんな簡単なことすら忘れ、あるいはできなくなる日が来るときまで。




