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玻璃の娘 黒の王~カイン、あるいは殊魂の話~  作者: 実緒屋おみ@忌み子の姫は〜発売中
第Ⅲ幕:過去と現に流れる記憶

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3-5.愛と自由


 やわらな音楽に耳を傾け、絹繻子張りの大きな椅子に背を預けてもフィージィの脳裏には無数の思案が眠ることなくうごめいており、完全な休息にはほど遠い。救護院の運営を任せていた貴族が金銭を着服していた事実が発覚してその対処に追われているし、『栄護神えいごしんメターデ』の神殿祭や競馬会も間近に迫っている。キュトスス家令嬢としても一神官としても安息を許されぬ日々を過ごし、目にできた隈を隠すようにそっとなぞったときと同じくして、音が広い私室へ溶け消えていく。秋を思わせる寂寥の混じった音楽はとても素晴らしいものだと思ったが、フィージィの手は体中の気怠さを一手に引き受けたように重く、緩慢な拍手しか送ることができなかった。


「お見事です、『銀伯ぎんぱくのハンブレ』。良いものを聞かせて頂きました」

「恐れ入ります、イル・フィージィ」


 床の絨毯に直接あぐらをかいていた男、ハンブレは膝を突きなおし、うやうやしく頭を下げてくる。礼儀作法の一挙にも美しさを残したままで、でもそれすら当然だといわんばかりの自負にあふれていて物怖じもなく、とても客人側だとは思えない。机と本棚、最低限のものしかなく簡素だが、それでも他の貴族の屋敷より値の張る絵画や吊布コフィンで飾られた部屋の中、彼の存在感は負けてはいない。彼の爪先ほどでも作法の才があれば弟は何か違ったのではないか、そんな余計なことを考える自分がいて、フィージィは小さく疲れた吐息を漏らした。


「イル・フィージィ、少しお疲れとお見受けしましたが」

「ええ、あまり休んでおりませんの」

「せっかくの美貌が台無しですよ」

「……あなたにそう言われると、むずがゆい気がしますわね」


 神の奇跡の、と形容される顔を持つ琴弾きの歯の浮くような甘い言葉に、しかしフィージィはなびかなかった。ささくれているな、と胸の微かな疼きに自分の年齢を思い出しそうになり、苦笑を浮かべて窓の外を見る。外は見事な秋晴れで、霧のような薄く白い雲が羊のように群れを成して空をゆったりと横切っていく。赤みはじめた紅葉が瞳に入り、今年の冬時期は少し寒いかもしれないとぼんやり思う。さすがに雪が降るまでの異常気象にはならないだろうけど。


「もう一曲、披露しましょうか?」

「そうですわね、おすすめのものがあれば、それを」

「では『小春のさえずり』を。疲れているときはこれがいい」


 緩やかな曲線を描く吟琴リタラを調節するように、ハンブレが弦を何度か鳴らす。甲高い音階も耳障りなものとは鳴らぬ巧みさは、さすが二つ名持ちの琴弾きといったところだろうか。出で立ちは大道芸人の装いよりも奇抜だが、衣にまとわれている感じはせず調和が取れており、フィージィの気に入った。父が慰めとして彼を呼んでくれたことに感謝しながら、毛皮でできている肩掛けをそっと直す。


 静寂に包まれていた空間に、弦がぴんと音の囲いを作る。たった一音だけで少しぎこちなかった空気を変える手腕は見事なものだ。流れる、落ち着きの中に暖かさをにじませた静かな曲は、死んだ母が好んで良く聞いていたもので、フィージィの馴染みでもある。木漏れ日を思わせる音律に耳を傾けながら、自然と膝掛けに頬杖を突いた。まぶたがまるで見えない指に誘われるようにして、ゆっくりと落ちていく。まさしく淑女だった優しい母の姿を脳裏に起こしながら、母の墓を見に行く暇も作っていないことを思い出し、時間が欲しいと切に願う。父も最近伏せがちで、墓守に任せっぱなしだったことを今更ながら後悔しながら片手は自然と、胸を飾る形見の紫水晶アメテュスをいじっていた。ひんやりと、冷たさを保ったままの飾りに触れながら曲に耳を傾けつつ、それでも脳裏に浮かぶのは仕事のことだ。


 公爵家令嬢として正しくあらねばならない、その思いだけでフィージィは生きている。救護院を任せていた貴族は父と古い親交もあったけれど、不正があるとなれば相応の処分は覚悟してもらおう。財産の半分を没収、その程度でいいだろうか、それとも爵位を剥奪するか。関係しているのは一人の貴族だけではないところが悩みの種で、根は大分深く、掘りすぎれば諸家から反発を食らうだろう。まったく、と音に隠してまたフィージィはため息をついた。腐敗している。この国の根の部分は大半が腐りきっていて、見えない部分で土台が緩みきっている。それでも賢猛王けんもうおうアーセルジは詞亡王しむおうをはじめとした『詞亡くし者(いじん)』退治に没頭しているためか、議会である双頭蛇の卓は今や滅多に開かれない。キュトススでもかなりの数の汚職に目をつぶっている状態なのだから、王都はもっとひどいことになっているかもしれない。この国が嫌いじゃない、そう言ったノーラの言葉を思い出し、胸飾りを握りしめた。自分だって、嫌いになんかなれない。


 不意に、音が途切れた。閉じていた目を開けると、狐のような蛇みたいな、不可思議な、それでも美貌を際立たせる笑みを浮かべたハンブレが、ほんの少し困ったように微苦笑を浮かべてこちらを見ている。


「やはりお疲れですね、無理は良くありませんよ」

「あら……気を遣わせましたわね」

「いえ、音に染み入らせることができないのはこちらの不出来、まだ腕を磨く必要がありそうです」


 言って、ハンブレは吟琴を床に置き、多少大げさと思う程度の動きで両腕を広げてみせた。


「では、少し小話でもいかがでしょう。面白い話を耳にしたのです」

「面白い話?」

「ええ。確かイル・フィージィは殊魂アシュムの学者だとか。それに関してのことなのですが」

「殊魂についてですの? なんでしょう、あたくしに答えられるものであればいいのですけれど」

「それがですね……」


 置いた弦を弾く音に紛らせて、まるで部屋の外に待機している女中たちに聞かれないようにするようなごく小さな声で話された話題は、フィージィの頭を一気に令嬢のものから学者のそれに変えた。


「黒い、光」

「はい。イル・フィージィはそんな話を聞いたことはございませんか?」

「いいえ……いいえ、そんなものはついぞ知りませんでしたわ。あなたはどこでそんな話を」

「友人から聞いたのです。そういう彼も当事者ではないので、あやふやな部分があるとは思いますが」

「とても興味深いですわね。その方から、ぜひお話しを聞いてみたいものです」

「では今日すぐに、とは申しませんが、会ってはみませんか? イル・フィージィもご存じの男のはず」

「あたくしの?」

「カインという傭兵です」


 笑みを深めるハンブレの単語で目が覚めた。頭の中にさえざえと男の、カインの寂しそうな笑顔が浮かんで心の奥がチクリと痛む。無駄な言い合いをして、結局それきりだ。エペーサでは彼に会えずじまいだったし、組合に連絡は入れているが彼がフィージィの元に来る様子は微塵もなく、何より琴弾きから彼の名前が出るなんて思わなくてフィージィは少し、身じろぎをして姿勢を正した。彼の殊魂を知りたいという欲求は未だに耐えることなく胸をざわつかせ、しかし時間が取れるものか決めあぐね、ほんの少しの沈黙が訪れる。でも奇妙な静けさは部屋の扉を叩く音で壊れ、フィージィが答えると一人の女中が茶を運んできた。


 蒸した麦の香りが室内に広がり、唐突な出来事に混乱する頭を抑えてくれる。茶は大麦を低温で焙煎したもので、受け取って口に運ぶと、まろやかな爽やかさとほんの少しの甘みが喉を潤し、ほどよい暖かさに気持ちが幾分か安らいだ。ハンブレは茶を一口飲んでから近くの棚に茶器を置き、変わらずの笑みをフィージィに投げかけている。


「会いたい、とは思うのですけれど……ここに呼ぶのは、少し」


 女中が礼をして部屋から出て行くのを見計らってから、フィージィはこわごわと、潤った口を開いた。彼は、デューと仲がいい。少なくとも自分より弟の方がカインのことを知っているはずで、フィージィ自身にもわからぬ怯えとためらいがもう一度、カインを家に招くことを拒んだ。父の前で禁句の名を出した男を女中たちは警戒するだろうし、何よりフィージィにも気後れみたいな根が胸の内にはある。それに、いずれフィージィが拒んでも父が彼を屋敷に呼ぶだろう。二つ名を授けるために。


「それでは、外で会うというのはいかがですか?」

「外……あたくしも連絡は入れているのですけれど、組合や神殿に来てくれるかどうか」

「イル・フィージィは競馬会の下見をなされるとか。わたくしめがこのような提案をするのも失礼でしょうが、星霊湖リム・テルシュケへの護衛を彼に任せるというのはどうでしょう」

「そ、それなら頼もしいですわね。話をするにもちょうどいいですわ」


 茶器を膝に置きながら、フィージィはハンブレの言葉に大きくうなずいた。星霊湖の周りで<妖種ようしゅ>が出ることはほとんどなく、道もキュトスス家の敷地内にあり、安全といえば安全だ。ただ、最近<妖種>の動向がおかしいという報告は耳にしている。普通は万が一に備え、公爵家直下の騎士を連れて行くのだが、傭兵などを護衛につけた例もないわけではないから彼らの反感を買わずにすみそうだ。実に冴えた提案をしてくれる、とハンブレを見直したとき、彼の笑みが少し、また深まったように感じた。


「気晴らしも兼ねてです。先程の話を知るものを他に、数人こちらで呼びたいと思うのですが」

「あなた以外に、件の話を知っている方がおりますの?」

「『蒼全そうぜんのプラセオ』です」


 無意識に、茶器の取っ手を握る指に力が入った。自然と眉が寄っていたのだろう、慌てたように手を振るハンブレはまるで道化じみている。


「もちろん彼女の悪名はわたくしめも知るところ、もしお嫌でしたら彼女には内密にしておきますよ」


 ふん、と鼻を鳴らしてフィージィは動揺を悟られぬよう、あくまで落ち着いた所作で茶を口にし、もう一度窓から覗く空を見つめた。空の色はプラセオことノーラの瞳を彷彿とさせ、ちょっと嫌な気持ちになる。彼女が黒い光の話を知っているということは、カインと共にエペーサで見聞きしたことなのだろうか。正直、カインと殊魂について話したいとは思っていたが、それは教えられる、フィージィが立てた推測を伝えるということくらいで、深く込み入った話をするならノーラの方がすんなり通じるものがあるかもしれない。彼女のことは好いてはいないが、頭の回転の速さや知識の豊富さだけは認めている自分がいてフィージィの心は揺れ動く。揺れ動いた心は打算に傾き、私人としての嫌悪を押しとどめて彼女をうなずかせた。


「よろしいでしょう。『蒼全のプラセオ』に思うところも正直ありますが、話を聞いているというならば別です。彼女からも話を聞いた方がよさげですわね」

「さすがはイル・フィージィ。『キュトススの支柱』と呼ばれるだけのことはありますね、懐が広くてらっしゃる」


 二つ名持ちの琴弾きにそこまで言われれば悪い気はせず、でも少し面映ゆい感じがしてフィージィはハンブレからそっと視線を外し、扉の側にかかっている春の風景を描いた綴織りを見つめる。優しい色柄で彩られたそれは、エペーサで一瞬垣間見た甘いまぼろしのようなものにも似ていて、もしかしたら、と暖かな幻想を抱かせる。カインとも、ノーラとも、これを機にもっと親しくなれるかもしれない。親の七光りで神官になったと揶揄されることもある彼女に、取り立てて親しい友人はいない。少ない知人ももう母親や妻になっていて、行き遅れである自分の生き様を省みる。色恋沙汰に今も興味はないが、私人としては若干寂しい路を歩んできたかもしれない。でも、今更それを嘆くことなんてしたくないし、新しい路を開拓するには自らの立場というものがあまりに強固すぎ、枷が多すぎた。浮かんでは消える感傷的な思いを飲み干すように目を閉じて茶をすすり、それからもう一度ハンブレと向き合い、父の真似をして寛容な笑みを浮かべてみせる。


「人選はあなたにお任せします、こちらから騎士団を連れていくことはしませんから」

「感謝します、イル・フィージィ。それでは日取りの方を」


 いつの日がいいかとあれこれ話すハンブレの声をよそに、フィージィの心は少しずつ暗がりに落ちていくように沈み始めた。シェデュ、と弟の顔を思い出してそれは顕著になる。あなたの自由が、あたくしには少し、羨ましい。例えそれが父の手のひらの上での自由であっても。寵愛を得た姉と自由を得た弟の相容れない距離は決して詰めていけないことを感じながらも、目の端に入る綴織りの柔らかさが都合の良い幻惑を生み出しそうになって、フィージィは何度目かにわからないため息をついた。

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