1-20.契約、そして旅立ち
黄色の石畳を埋め尽くす人混みの中、カインは目当ての店に向かって一人で歩いていた。朝の領都は相変わらずにぎやかでせわしない。あちこちから商人の呼び声やかけ合いの声が渦巻いて、でも混沌とした活気は嫌ではない。一人で何かをするということに最初はとても不安を抱いたのだけれど、吹いてくる潮風やほの明るい雰囲気がカインを自然と慣れさせた。見知った顔がなく、また、己に話しかけてくるものが誰もいないことだけが気がかりだったが。朝市に並ぶ露店にはいろんなものがあって、それは食べ物から小物と幅が広い。ちらほらと魚も見かけるようになり、一瞬買ってみようかという気持ちになったが、調理の仕方がわからないので止めておく。
ノーラが毒を受けて気を失った夜、ハンブレが紹介してくれた医者は意外に若く、仏頂面で、毒を抜くのに苦労した、と言っていて、後は本人の体力次第だとも告げられたことを思い返し眉をひそめる。長いまつげを閉じたまま、微動だにしないノーラの顔を見ていると、その奥にある瞳をのぞきこみたくてたまらなくなった。それでもつきっきりで彼女の様子を看ているカインには、青白かったおもてが少しずつ色味を取り戻してきているのがわかっている。ノーラが眠り続けて五日目の朝も、何事もなく過ぎていきそうだ。
いつもの露天商は相変わらず繁盛しており、食材を求める客がたくさんいた。その隙間をなんとかかいくぐって声を張り上げる。
「すまないが、果実をいつものように適当に見つくろってくれないか」
「おお、傭兵の兄ちゃんか。あいよ、果物ね」
最初はハンブレと一緒に来た。その後はミルスィニ――戦闘商業士の受付係をしている女と。適当に買って値切りも何もしないハンブレとは違い、ミルスィニと行くのは少し疲れた。どこまでも値切りを続け、衆人から歓声が上がったくらいの激しいやり取りは到底真似はできそうにない。ノーラだったら、と甘く、爽やかな果実の香りをかぎながら思う。ミルスィニのようにやはり、ここでも応酬をはじめるのだろうか。
「ほらよ、こんなもんだろう」
あらかじめ、ノーラが眠り、今カインが寝泊まりしているあばら屋にあった網籠を出すと、その中に色とりどりの果実が入れられる。しっかりと受け取って百ペク渡し、返ってきた紙幣はいつもと同じだけれど昨日より多少籠が重い気がした。小首を傾げると店主は人好きのする笑みを浮かべてささやいた。
「いつも買ってくれるからな。おまけだ、持ってけ」
「そうか、ありがとう」
「またどうぞ!」
贔屓されたことに気付かれぬよう、カインは少し早足でその場から離れる。同じ店で買うと、こういうこともたまにあると記憶の欠片がいう。実際の記憶は淀のように沈んだままで、たまに人と話したり、ハンブレが毎日借りてきてくれる本を読んだりすると水滴のように落ちてくる断片もあるが、肝心な部分は思い出せないままだ。通りは未だ雑踏に満ちていて、百を超える人間がいるというのに彼らの世界にカインはいない。組合に顔も出していないからデューとも会っていないし、フィージィとは距離ができてしまった気がする。それでも以前のように気落ちすることなく、自然と地を踏む足に力が入る。心の中を潮風が通り抜けていく気持ちを寂しさと呼ぶのなら、それは確かにあるけれど。
かじった野桃林檎の甘酸っぱさと通い慣れた道筋は、ノーラと一緒にいたときを思い出させる。買った果実は一日分のもので、大抵が顔を出すハンブレに食べられてしまう。籠に残ったもう一つは目覚めた彼女にあげたい。昨日の店主の話では、野桃林檎の時期はもう過ぎてしまうみたいだから。でも、いつ彼女は目を開けてくれるだろうか。籠に入っているザクロの赤さはノーラが流した血を連想させて、嫌なもやがカインの心を覆っていく。このまま『精死神』の月が過ぎて『時騒神』の月に入るようになるなら、カインもいい加減本格的に働かなくてはならない。彼女のためではなく己が生きていくために、それは必要なことだ。
焦りはカインを早足にさせて、中央通りから数少ない路地裏を通り、貧民区近くまで意外と早く着いた。石でできた建物と木製の家が混じって建ち並ぶここは、あまり治安は良くないけれど医者がすぐ駆けつけられる場所にある。ハンブレと医者の判断で一角にあるあばら屋を借りた。色々と面倒を見てくれるハンブレは、ノーラの貯蓄を切り崩しているらしいことも思い出し、彼女が知ったときの反応を考えてみる。想像がつかずに野桃林檎を食べきり、目的である粗末な家をわざと一周した。ミルスィニ曰く、後をつけられている可能性も考えてそうした方がいいらしい。気配を研ぎ澄ましてみても人がまばらにいることはわかるが、今のところ己に注目が向けられている感じはしない。
建物の隙間から裏口を通り、あばら屋に入る。三回叩いて間を置き、四回扉を叩いたあとで。安全に対する配慮の合図だとミルスィニは言う。受付係をする前は彼女も戦闘商業士として腕を振るっていたらしく、ノーラの世話だけでなく小さな豆知識なども教えてくれることがありがたい。陽が射さない一室は普段は暗いのだけれど、今は蝋燭の仄かな明るさが揺れていて誰かがいるのがわかった。
「やあ、買い出しお疲れ様」
机と数個の椅子、そして寝台が一つだけある一室にハンブレがいた。野桃林檎を隠すのを忘れていたことに気付いたが、カインはうなずいて大人しく床に籠を置いた。机にはいろんな種類の本が積み重ねられており、この数日で増えたり減ったりを繰り返している。遠くから子供たちのはしゃぎ声が聞こえているけれど、寝台でそれこそ死んだように眠るノーラは動かないままで、カインは小さなため息をついた。
「毎日くだものだけで飽きない?」
「料理ができないから」
「ミルスィニに頼んだらいいのに」
「……今度そうしてみる」
確かに腹ごたえのなさをカインも感じていて、はじめて食べた馬肉や野菜の盛り合わせなどを思い出し唾が溜まる。それを無理やり喉の奥に流し込んで寝台へ近付いた。ノーラの呼吸は安定している。微かに持ち上がる胸元のかけ布が、彼女が間違いなく生きていることを示していた。それでも閉じられた瞳は開く気配がなく、カインは少しだけがっかりする。
「馬鹿だよねえ、本当」
本をつまらなさそうにめくっていたハンブレが急にそんなことを言うものだから、カインはノーラから視線をそちらにやる。ハンブレの声に楽しげな様子はなく、どじをした子供を叱るときの親みたいな顔付きをしていた。
「君が、じゃないよ。ノーラのことさ。この程度の事態、考えておくべきことだったんだ」
「どうしてそんなことを言う?」
「だって実際そうでしょう? キュトススに来てまずやるべきことは、名前を知られる前に万全の準備をすることだもの。それくらいにはノーラは恨まれてる」
「六年も前の話を引きずる人間が多いのか」
「六年しか、だよ。君だって昔のことを思い出して嫌になったりすることがあるんじゃないの?」
そんなものはない、と小さく頭を振った。カインの記憶はまさしく強固な檻に囚われていて、どこから来て、己が一体誰なのか、何をしようとしていたのかわからないままだ。ハンブレはカインが感じる寂しさのような何かをよそに、床に置かれた籠から野桃林檎を勝手に取って食べはじめた。やっぱり抜いておけば良かったと後悔したが、遅い。それができる隠しの術をはじめ、本に載っていた基本の殊魂術はカインの新しい記憶となってしっかり染みついている。
「妬み、怒り、そんな思いは良いことよりも遥かに強く刻まれる。人の心だけにじゃなく、とりわけ場所がそのまま残ってるならなおさらにね」
「そんなにひどかったのか、昔は」
「僕が知ってる限りはね。救護院は満杯。待ってる人が死んで、そこから伝染病が流行ったりして。ともかくめちゃくちゃだったし、家も職もなくした人が大勢いた。今でも盗みで生活してる人は多いんじゃあないかな」
そういえば、確かに貧民区で出会った男はみすぼらしい格好をしていた。彼ももしかしたら被害者の一人で、そんな人間を我欲のままに傷つけてしまった事実がカインの気持ちを落ち込ませる。
「なんにせよ、ここでの悪評はノーラが越えるべきことだからね。どうするかは知らないけどさ。君もノーラの名前、ここでは出さない方がいいよ。下手したら食べ物も売ってもらえなくなるから」
小さな舌先で果実のついた指を舐め、目を細めるハンブレは蛇のようだとカインはぼんやり思った。越えるべきこととはどういう意味なのか、ハンブレの言い方はノーラをまるきり試しているようにも聞こえる。そもそもハンブレとノーラの間に何があるのか知らないカインにとって、彼がノーラをどう思い、なんの期待をしているのかまるきり想像ができない。
「君に、心当たりはあるのか? 彼女を襲った連中の」
「さあね。傭兵、騎士、もしくは一般人。やっぱり多すぎてわからないよ、僕には」
「君はなんでも知っているように見えた」
「褒めてくれてありがとう。でもね、それは買いかぶり。僕にだって知らないことはたくさんあるよ。例えばノーラが……」
「ノーラが?」
「……あ、そういや酒場に呼ばれてたんだ、僕」
唐突にハンブレは立ち上がった。会話をいきなり断ち切られてカインは拍子抜けする。でも、ハンブレは続きをまるで言う気がないようにも感じて、置いていかれた迷い子のような戸惑いを抱いた。ノーラと会話するときもこんな感じなのだろうか、誰にでもそう振る舞うようにも見えるハンブレには、やはり掴み所がない。ハンブレは短くなった蝋燭を火打ち石で長いものに取り替えてから、静かに木製の扉を開いた。
「ノーラはもっと苛烈に、孤高を行くべきだと僕は思ってる」
「どういう意味だ」
「君はついていけるのかな、彼女に。そもそもついていく道理なんてないんだろうけど」
カインの言葉をまるきり無視して、ハンブレはいつもの、狐に似た独特な微笑みを浮かべた。何を言うべきかで口ごもったカインへ見せつけるように笑みを向けてから、軽い口調で別れを告げて立ち去っていく。残された蝋燭の火が風に揺れ、薄暗い部屋に影を作る。残されたカインは呆然としながら、それでもハンブレの言葉を心の中で繰り返した。ついていく道理。それすらないことがゆっくりと己の心をむしばんでいく。
カインは軋みを上げる床の上で身じろぎし、もう一度ノーラを見つめた。静かに眠る彼女は人形のようでもあり、鎧などを外しているためか小さく頼りなさげだ。確かにカインはノーラに借りもあるし、借金もまだ残っている。でも、逃げだそうと思えば逃げられる。今が絶好の機会だ。彼女へ尽くす義理は、医者にノーラを届けたときに終わっているようにも感じる。いっそハンブレの言ったようにもっと激しく、あるいは氷土のような冷たさを持って拒絶してくれれば踏ん切りがつくのに、答えを持つノーラは未だ目覚めない。ここで寝泊まりする分だけはカインが自腹で払っているけれど、金は水妖馬を討伐したときから確実に減り始めていて、そろそろ次の仕事をしないといけないのに、なぜか体は現実と反して動かず、ただ知識だけが増えていく。
静かな呼気だけを友にし、投げ出していた勉強用の羊皮紙に今日の日付を書き記す。それでもどうにも本へ手を伸ばせない己へ気怠さと苛立ちを感じたとき、裏口の扉を軽くこづく音が聞こえた。
瞬時に反応し、足音を殺して壁に張りつく。合図が守られていないことにカインの緊張が高まり、剣へそっと手を伸ばしたときだ。
「あれ、誰もいねぇの?」
聞き覚えのある声が聞こえた。瞳だけで木の扉にある隙間を見やれば、困ったような顔をしているデューが手に荷物を持って辺りを見回しているのがわかった。慌てることなく戸を開けると、思った以上に耳障りな音が立つ。
「よう、カイン。お前は元気そうだな」
「デュー。中へ」
挨拶するならあとでもできる。カインは素早く周囲を確認し、誰もこちらを見ていないことを確認してからデューにうなずいて見せた。怪訝な顔を強めるデューは、しかし何も言わず身軽な動作で中に入った。扉を閉める手が、なぜか強張っているのがわかる。緊張しているのかもしれない。彼に会うことをどこかで避けていた己のずるさが針のように胸を突く。でもデューは変わることなく朗らかな様子で、あばら屋の中を見て肩をすくめた。
「ずいぶん厳重なんだな」
「どうしてここがわかった?」
「組合のおばさんに聞いた。ノーラの姉ちゃん、狩りのときに怪我したんだって?」
「……ああ」
どうやらミルスィニは、正しいことをデューには伝えていないようだ。傭兵、騎士、一般人。怪しいと思われるものは後を絶たないとハンブレが言っていた通りに、彼女もそう感じたのかもしれない。机の隅に持っていた包みを置いて、デューは寝台で眠るノーラを見る。その緑の目は何かを思い出すように細められている。
「どんな<妖種>と戦ったらこうなるんだろうな」
「わからない。俺もミルスィニから聞いて驚いた。デューは、見舞いというやつか?」
「そんなもん」
いつの間に嘘をつくことを覚えたのだろう、口から出る言葉はあまりに軽く真実を逸らし、カインは包みに目をやった。芳ばしい、腹をつく香りが部屋に漂っている。
「何か持ってきてくれたのか?」
「肉焼き。精力つけるなら魚より肉かなってさ。あと、お前がどうしてるかって気になって」
「心配をかけた……のだろうか」
「なんで疑問系なんだよ」
伏せたノーラへのためか、笑い声は小さい。己のことを気にしてくれていることは素直に嬉しいのだけれど、破った約束の重みが増してカインを縛る。それでも言わなくてはならないことをカインは持っているし、話すのに丁度いい機会なのだろう。
「デュー。話がある」
「ん?」
「少し、外に出ないか」
デューは数回、目をまたたかせてからカインの表情にある暗さを読み取ったのだろう、真剣な面持ちでうなずいた。
「……ここで話すことじゃなさそうって顔だな。いいぜ、まだ仕事の時間じゃねぇし」
「ありがとう」
心臓の鼓動が速まり、頭はめまぐるしく回転している。思考を投げ出したいという気持ちを抑えて、カインは扉を開けた。外の空気は冷たい。ノーラを一人にしておくことに若干戸惑い、少しだけ離れた場所で話そうと決めた。あとからついてくるデューは、戸をゆっくりすぎるほどの遅さで閉める。優しい手つきだった。気遣いができる彼に対する後ろめたさがカインの足取りを緩くさせる。それでも選んだ場所にはすぐについてしまう。あばら屋の裏口が目視できる程度の距離だ。
「で、話ってのは?」
広場と呼ぶのには狭すぎる、むき出しの土の上にばらまかれる木材が目を引く場所でデューが話を急かす。ここなら、とカインは大きく息を吸った。殴られても問題ない。呼気を吐き出す勢いに任せ、カインは覚悟を決めた。
「キュトスス公の前で、お前の名前を出してしまった」
「おっと」
「約束を守れなくて、すまない。どうしても……その、耐えられなかったから」
「そうかい」
くくった腹の紐をほどくほど軽い返答だった。手応えが全くなくて、思わずデューの表情をうかがう。平然として極まる顔をしているデューには慌てた様子はない。
「……それだけ、なのか?」
「だってよ、出しちまったモンは仕方ねえだろ。それにさ、どうせなんの反応もなかったろ?」
「なかった……わけでは」
「姉貴も親父もオレのこと、いないように扱ってただろ」
同意すればいいのかそれとも否定すればいいのか、カインにはわからない。だからただ頭を振ったのだけれど、それを見たデューが心の奥の迷いを得たかのように腕を組む。
「別にいいのさ、それで。堅苦しい肩書きやら背負わなくてすむからさ」
「だが、それでは」
「お前にも言えないことがあるように」
デューはまるで会話を叩き折る勢いで声を強めた。
「オレにも言えないことがある。それだけのことなんだよ」
デューは微笑む。全てをあきらめたかのような笑いだ。何もかもを捨てたものだけが浮かべられるであろう、消失の笑み。吹っ切れている、そんな爽やかさはなくて、代わりにあるのは虚ろだった。それでももう一歩、怒らせることを覚悟の上で踏みいるべきなのか悩んだ。答えはすぐに出そうにない。会話の糸口が見つからなくて、居心地の悪い空気が漂いはじめたのを感じたのだろう、デューは頭を掻きむしる。
「話ってのはそれだけか?」
「……ああ」
「大したことじゃねぇな。それよかお前、組合に顔出しとけよ。けっこう仕事入ってきてるぜ?」
はぐらかされている、とカインは気付いた。でも、どうしたら風のように流れていく話を戻せるのかわからなくて、返事もできない。
「ソズムもお前のこと気にしてたぜ。早く戻ってこいよな」
「……わかった」
「オレはこれから仕事だけど、お前は?」
「調べたいことがあるんだ」
「ん。じゃ、そろそろオレは行くぜ。ノーラの姉ちゃんによろしく言っといてくれ」
カインの嘘に気付くことなく、あるいは気付かないふりをしたまま、デューが己の横を通り過ぎる。一瞬引きとめようとした手が宙に浮く。カインの中で浮かんだいくつもの疑問は行き場所を失い、彼の姿が消えてもなお強烈に心を揺さぶる。けれど残されたカインは、ただ潮風に吹かれるしかなかった。
これで良かったのか、と誰かが言う。脳裏から響いた声に答えることができず、カインは太陽を隠してそのままの薄雲を見上げた。まるで今の己の心を模したかのような天気は、いつ晴れるのだろう。
何もないという答えだけを持て余して、カインは家に戻る。誰も入っていないはずの部屋に、しかし確かな人影があって思わず目を見開いた。
寝台の近くにノーラが立っていた。扉の音に反応し、彼女がこちらを見る。濃淡を描く青の両目は確かに開けられていて、でも視線はどこか遠い。
「……ノーラ」
思わず名前をつぶやく声が、どうしてか震えていた。ノーラがまるで幼子みたいな顔で部屋の中を見渡し、それからようやく困惑を顔に出す。
「ここ、どこ?」
「あばら屋」
「それは見てわかるんだけど」
混乱しているような彼女は腕をさすり、昨夜取り替えたばかりの包帯に初めて気付いたように己の肩と二の腕を確認する。まだ意識がしっかりしていないのだろうか、その瞳も動作も重たげで、見ているこちらが不安になる。
「……あ、そっか。私、毒受けたんだ」
「五日も眠っていた。いや、今日が五日目の朝だから、四日間か」
「うわ、かなり休んじゃったのね……私の武具はどこ?」
「すぐに動くな。危なかったんだぞ」
うん、と意外と素直な返事が返ってきて、いささかカインは驚いた。医者に連絡しようか悩むが、首と肩を回すノーラは少しずついつもの顔に戻りつつあり、その色も良い。デューが置いていった包みの匂いにも気付いたのだろう、寝台に座りつつも双眸はそこから離れない。
「あれ、肉よね」
「さっきデューが持ってきてくれた」
「食べていい? お腹空いてるの」
病み上がりに食べさせていいのか判断がつかないが、食欲があるのは良い兆候だと本に書いてあったことを思い出す。カインはうなずいて包みを開け、串刺しにされていた一本をノーラに渡した。カインも椅子を動かし、ノーラと向かい合わせに座る。
腹が減ったと言ってはいるが、がっつくような真似をせず、彼女は緩慢な動きで肉を食べ始めた。緩やかで落ち着いた所作はいつものノーラと変わりなく、どうしてかほっとする。
「ずっとついててくれたの?」
「ああ。ハンブレやミルスィニと一緒に」
「そう」
肉を一片食べ終えて、はじめてノーラはカインをはっきりと見つめた。視線はようやく強まり、眼には光が灯っている。
「ありがとう」
微かにノーラは笑った。透明な硝子みたいに澄んだ笑い方に、肉に伸ばした手が止まる。礼の言葉を投げられて胸のどこかが引き締まる。逃げようと、ほんの少しでも考えていたことが恥ずかしくなった。何も返せないから黙って串肉を食べる。久しぶりに味わう肉は臭みがなくて、純粋に美味しいと思った。緊張のない、心地よい沈黙が少し降りた。
ノーラが肉を食べ終えたところを確認してから、買ってきたぶどうを渡す。肉はまだ二本残っていたが、他のものも食べさせた方がいいだろう。手渡したとき指が彼女の手に触れて、その暖かさにやはり安心する。
「……傷は大丈夫なのか?」
「おかげでね。痺れもないし、痛みも引いたわ」
「そうか」
「この家、どうしたの?」
「ハンブレが用意した」
「借りができたわね。迂闊だわ」
己に腹が立ったのか、ぶどうを食べるノーラの顔が少しばかり歪む。拗ねてるみたいなおもては彼女を幼く見せる。数粒食べ終えたノーラは手を置き、こちらをじっと見た。
「どうかしたのか?」
「借りで思い出したの。あなたの借金、これで充分だわ」
「充分、とは?」
「もういいってこと。医者にまで運んでくれて、つきっきりで看てくれてたんでしょう? だから、それでなしね」
ノーラの言葉がすんなり入ってこず、肉を食べる手が止まる。借金が、ない。それはすなわち彼女への貸りがなくなって、自由になれるということだ。傭兵をしなくてもいいし、どこに行くのも己次第という事実を確認して、でもそこにあるのは冬が近い秋の空気にも似た寂寥だ。
「ノーラの命は、十万ペクなのか?」
「なかなか難しい質問してくるわね、あなた」
「そう言っているように聞こえた」
それ以上話すなと誰かが言う。だがその台詞をはね除けるようにカインは頭を振る。
「こないだの奴ら」
ノーラは大きなため息をついて天をあおいだ。天井にあるのは薄暗い影だけだと知っているから、カインはノーラから目を離さない。
「あれはきっと、誰かに雇われたんじゃないかしら。いくらでかは知らないけどね。ちょっと厄介な奴も、ほら、いたでしょ。毒ぶつけてきたの。あいつは手練れだったから、けっこう雇うのに値が張ったとは思うわ。その分が私の価値かしらね」
「人の命に値段があるとは知らなかったな」
彼女の言葉に皮肉を返す己が信じられず、同時にいささか腹立たしさも覚える。皮肉の中にある怒気を感じたのかノーラは苦笑し、軽く手を振った。
「商売柄考えてるだけよ……うん、でも本当に私、いくらで命狙われてるのかしら」
「そこを考えている場合なのか?」
「そうね。私らしくないわ。どうだろうと私は私のやり方で動くべきなのよね」
彼女の声には張りがあり、傷を負った自棄で言っているわけではなさそうだ。ノーラの思考は安定していて、それも顔に出ている。いつもの自信にあふれた瞳も凛として揺らがない。なのに、カインの心にあるのはなぜか不安だけだ。
「実はね、少しここから離れようと思ってるの」
「離れる?」
「確か、まだ手が付いてない仕事があるのよね。けっこう大きなやつで」
「逃げるのか」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。仕事しないと貯金は減る一方だもの。ハンブレのことだから、私のお金でこの家を借りてるはずよ」
「それは……確かにそうだが」
「身体が鈍るのはいやなの。戦わないと勘もなくなる」
言い切るノーラは頑なで、何か隠しているようにも感じた。それは、とカインは思う。もしかしたら、あの刺客たちに関係しているのかもしれない。でも口から出たのは別の言葉だ。
「仕事はどんなものなんだ?」
「この都を出たところに、ちょっとした町があってね。そこに大物の<妖種>が住み着いちゃったらしいの。採取と討伐、両方かしら」
「一人で行く気か?」
「領都じゃ傭兵は期待できないし、安心もできない。途中で現地の同業者を雇うことになると思うわ。エナオンやデューなら信用できると思うんだけど、迷惑かけたくないし」
「なら、俺が行く」
「……はい?」
屑籠に食べ切ったぶどうを投げ入れるノーラが間抜けな声を上げた。馬鹿なことを、とまた誰かが吐き捨てる。でもこれは、己の意思で決めたことなのだ。
「気持ちは嬉しいけど、それだけ受け取っておくわ。医者に運んでくれただけで充分よ。これ以上あなたを巻きこむことはできないわ」
困ったように微笑むノーラへ、それでもカインはうなずくことをしなかった。
「巻きこむ、と言ったが、もう俺は巻きこまれていると考えていいと思う」
「あなたが進んで巻きこまれに来たんじゃないの」
「同業者を雇うと言ったが、多分それは嘘だ」
「へえ? どうしてそう思うの?」
「ノーラは自分の都合を、人に押しつけない」
返事がなかったことが答えだと判断し、カインは薄く唇を吊り上げた。
「だから、もう巻きこまれている俺が行った方が早い」
すがめられたノーラの瞳から、視線をそらすようなことはしなかった。考えるように顔をしかめる彼女を説得する一押しは、まだある。
「それに、俺だって狙われる可能性が大きい」
「もうつけられてたりして」
「そこに関しては気を遣っているから大丈夫だ」
「冗談よ。殺気なら寝てても気付く」
「重傷の身でも?」
「当然。うん、でもそうよね、あなたを巻きこんだ責任が私にはあるわね」
己へ言い聞かせるよう繰り返すノーラとは、どこかまだ一枚壁があるように感じて、目を閉じた彼女を観察する。
ノーラの回りには一見、いろんなものがあるように感じる。けれどそれらへ薄い膜を張っていて、己の領域に踏み入れさせないようにしており、それがハンブレの言う孤高なのだろうとカインは思った。そしてその膜という名目で存在する空気が、己が抱く空虚に似ているのかもしれないとも。人とのやり取りも知識も戦い方も、そして多分に信念とやらも違うのだろうが、カインが未だ定めることができないままの己の道というものをノーラはしっかりと歩いている。ノーラを見ていると落ちつくのは、地面に足がついているからだ。過去という嵐の中、巨大な樹木が地中深くに根を埋めているように揺るがぬ彼女を見習いたい、だから。
そこまで考えたとき、ノーラが再び目を開けた。決意をあらわにした双眸は普段よりもどこか煌めいていた。
「いいわ、あなたを雇う。一緒に<妖種>を退治、というよりかは、護衛としてね」
「護衛か。悪くない話だ」
肯定の言葉に緊張がほぐれ、カインは自然と口元を緩ませた。殺すより守る方が多分性に合っている。それでも刺客が来たなら、覚悟は決めなくてはならないだろう。それまではノーラの手伝いと支援だ。殺していくらの世界より、よっぽどわかりやすくて不思議としっくりくる感じがした。
「ノーラは俺をいくらの価値で雇う気だ?」
「一週が六日で一日雑費込みとすると……滞在費と、それを分けて考えて……」
つい浮かれて放った軽口に、しかしノーラは真剣だ。指折り数えてから腕を組み、大きな息を吐く。
「……知り合い価格でまけてくれる?」
子供のようなふくれっ面をしながら唸るノーラを見て、カインは笑った。声を上げて笑ったのは、これが初めてだなと考えながら。
※ ※ ※
地平の底から出はじめた太陽は明るさを増し、領都出入り口から微かに見える海を鮮やかな色に染め上げた。
乾燥させた野菜や干肉に麦酒、その他買った薬軟膏などを隠しの術で地面に埋めれば、カインが持つのは大剣だけで、それでも不思議と不安はない。むしろ心が弾み、どことなく体が浮かれているのが己でもわかった。
組合には昨日のうちに顔を出しておいた。ソズムはノーラと共に行動することへ納得がいっていない様子だったけれど、丁度仕事は他の傭兵たちが取ってしまっていたから仕方ない、そんな風に言い聞かせるかのように気をつけろ、とだけ言ってくれた。デューは宴会だとはしゃいでいたが、互いに出立が重なっていたので見送ることになった。返ってきたらまた、その約束をして別れた。今度こそ守れたらいいとカインは心の底から思う。
「おはよう、カイン」
「ああ。おはよう、ノーラ」
軽やかな甲靴の音を立て、ノーラが隣にやってくる。医者から体調の良さの保証を受け取り、自由になった彼女がまず行ったのは、ハンブレへ立て替えてもらっていた治療費を一括で支払ったことだった。ハンブレとどんな会話をしたのかは知らないけれど、昨夜カインと出会った彼はやけに楽しげにしていたのを覚えている。ハンブレもいつものノーラが見られて嬉しかったのだろうか、そこまでは推測できない。
いつもの白い鎧に身を固め、やわらな風に髪をなびかせるノーラは生き生きとしていて、どこか堂々とした風格すら漂わせている。
「期限は今日から一ヶ月。目標はエペーサの町。<妖種>を討伐の後にここに戻って報告、いい?」
「わかっている。支払いはそのときだな」
「ええ。辻馬車は使わないで徒歩で行くわ。海岸沿いの森を途中で通るから、そこで何が出るかお楽しみね」
「何事もなければいいんだが」
「そう期待しましょう」
潮風の中、ノーラから漂う清涼な、仄かに甘い香りを嗅ぎ取ってカインは大きく息を吸う。キュトススから出るのは記憶にある限りこれが初めてで、何があるのか、どんなことが起こるのか全くわからない。でも、カインの胸を占めて止まないのは恐怖より高揚で、旅をするときは皆、こんな気持ちを抱くのかと考える。
「じゃあ、行きましょうか」
「そうだな」
ノーラと共にゆく一歩をしかと大地につけながら、カインは太陽に挑むような面持ちで歩き出した。




