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春への約束

 傘に刻まれたブランド名を検索すると、イタリアブランドだということがわかった。

 ホームページに、お手入れ方法も載っていて、あたしは初めてお風呂に傘を持ち込んで、シャワーをあてて洗うということをやってみた。そうすると、雨の埃が落ちるらしい。だけど、家に置きっぱなしだと、普通にこの白い傘に家の埃が付きそうだったから、乾かした傘は早めに返すことにした。

 週末まで傘を置いて、そわそわするのもいやだったから、会社に持って行って、仕事帰りに、あのラーメン屋さんに置いてくることに決めた。

 幸いあそこは深夜までやっているから。終電ぎりぎりの電車に乗っても、返すことができる。……と、思ったら。


『水・木定休日』



(うそー)


 扉の前で呆然としてしまった。

 せっかく、平日の疲れを押してやって来たのに。

 いつも日曜日の夜にふらっと来ていたものだから、定休日とかを見たことがなかった。

 手紙をつけて傘を置いていこうとも一瞬思ったけど、高価なものだし、そういうわけにもいかないだろう。

 途方にくれていると、ガラス戸の向こう、店の奥の方で影が動いたのが見えた。

 灯りは点いているから、誰かはいるみたいだ。

 恐る恐る、手を触れると鍵のかかっていない扉はあっさり開いた。


「あ、すみません。今日はお休みなんですよ」


 カウンターから、なじみの声が聞こえて、あたしはホッとする。

 いつも厨房にいる店長さんは、お客さん側のイスに腰かけて雑誌を読んでいた。普段は野球中継を流している店のテレビは、今日は民放のニュースを流している。

 ひとりでこの店を切り盛りしている店長さんは、普段は黒い無地のTシャツに、灰色の前掛け。頭には白いタオル、という「ラーメン屋スタイル」だったけど、今日はお休みのせいだろう。いつもの恰好が違っていた。


「夜分にすみません。ちょっとお願いがあって」

「どうされました?」


 ロング丈のTシャツは、下が白くて首筋にかけて黒くなっていくグラデーション。黒いパンツに、黒に近い濃灰色のミリタリーブルゾン。シックなモノトーンのコーディネートに、デートの帰りかしら、と思う。この人も意外にお洒落さんだ。


「よく、お店に来ている真っ赤な髪のお客さんに傘を返したいんです。預かってもらえませんか?」

「あいつの知り合いで?」


 そう言って、店長さんはあたしの前に立つ。

 しばらくじっとあたしを見つめて、首をひねり、やがて合点がいったようにぽん、と手を打った。


「もしかして。去年ぐらいから、何度かご利用いただいてます?」

「あ。はい。いつもごちそうさまです」

「いやー。きれいな恰好してたから、気づかなかった」


 言われて初めて、あたしは自分の恰好がいつもと違うことを思い出した。

 べつになんてことはない。シンプルに髪をまとめて、何年か前に買ったシャツとスーツを着て、雑な化粧をしているだけだ。


(まあ、いつもここに来る時は、それすらしていないんだけど)


 そういえばあたしは、「あの休日の姿」を友達にも職場の同僚にも決して見せたことはない。だけど彼とこの店長さんには逆にその姿しか見せていなかった。それは本当の、素の自分の姿しか。


「ちょっと待っててください」


 店長さんは、店の奥へ向かった。

 店内に残されたあたしは、何気なく店長さんが読んでいた雑誌を見た。

 食べ物系の雑誌と思いきや、意外にもそれはファッション誌だった。


『人気急上昇中! トレッド系ブランド、Coquillage(コキア―ジュ)。アートディレクター甲斐マコト。レディースファッションに進出』


 ファッション誌の記者と、対談形式で笑っているのは、この前までラーメン屋で。非常識なまでの辛いラーメンをすすっていた彼だった。

 あたしは、思わず両手で雑誌をとって、そのプロフィール欄を穴が開くほど凝視した。


 甲斐マコト。27歳。

 15歳で、東京トラディショナル研究学院 服飾デザイン学科へ入学。在学中、ベルギーの服飾専門学校のインダストリアル・デザイン学科へ留学。20歳で日本に戻り、自分の工房を立ち上げた。

 自分の苗字をもじった“かい”をロゴのモチーフにしたブランド、Coquillage(コキア―ジュ)は、世界のバイヤーが買い付けにくるほどの、人気だ。


(あの、駅前の広告のブランドのーー)


 ということは、あの上着は。まさしく彼がデザインしたものだったんだ。


『メンズウェアの業界に彗星のように現れたCoquillage(コキア―ジュ)ですが、どうしてレディースファッションへの進出を決意されたんですか?』


 雑誌の中では、モデルさんがインタビューアーとなって、赤い髪のデザイナーにインタビューしている。彼は、この店で会っている彼よりも少しだけ上品そうに笑っている。


『ファッションの世界はいつだって女性がけん引してきました。時代に敏感な女性たちの肌はいつだって、あたらしい服を求めています。僕の感性が今の時代に通用するか試すには、やっぱり女性服への挑戦が必要だと思ったんだ』


 様々な角度から彼の写真が撮られている。まるでモデルさんみたいに。

 あるページでは、あの広告とまったく同じポーズをしていた。

 いままさに、黒いジャケットを羽織ったばかり、という姿。

 カメラを真っ向からにらむ、挑戦的なまなざし。

 彼のデザインするメンズウェアは、どこかいつも鎧のようにとんがっている。


『憧れのパリでのショーは3月ですね』

『はい、12月には現地入りして、向こうのスタッフと準備に取り掛かります。K&Gデパートのイベントに招かれるなんて夢のようです』


 12月にはフランスへ。

 そこの部分に、はっとする。

 ああ。そうか。じゃあ、彼はしばらくここには来ないんだ、と頭で理解する。

 でも、この雑誌に映っている彼と、この店で会った彼が果たして同一人物だったのか、もはやよくわからない。

 夢でもみていたような気さえするけど。でもあたしの手元にはまだ、あの時借りた傘が残ってる。


「ぜんぜん、キャラ違うだろ?」


 奥のスペースから戻ってきた店長さんが、笑いを含みながらカウンター越しに雑誌をのぞき込む。


「こんな、有名な人だって、知らなくて」


 20歳そこそこの男の子だと思ってた。

 27歳。あたしの1個下。

 その若さで起業して、成功して、今度はパリに?


「俺が頼むのもなんだけど。あんまり、あいつを遠い世界の人だって思わないでやって」


 店長さんは苦笑して、ポケットから煙草を取りだした。


「俺はあいつと同じ中学で、幼なじみ。つってもしばらく音沙汰なかったんだけどね。同じ年代で起業している奴らも少ないから、なんかここにいついてんだよ」

「ああ、だからあの、辛いラーメンも」


 は、と店長さんは煙を吐きながら笑った。


「負けず嫌いだろう? うちの担々麺じゃ辛さが足りねえっつって。仕方ないからこっちもどんどん唐辛子増量して。でも、下手にやりすぎると“料理としてうまくなきゃ認めない”とか言い出すし。そっから意地の張り合いだよ」


 彼だけの特別メニューなんだろう。

 この店で、あれを食べている人を、彼以外に知らない。


「あいつが、ここであれ食べてる時は、いつもなんかうまくいかないことがあって、“負けるか”って思ってる時なんだってさ。そんなこと言われると、俺もさすがに“手間かかるから今日はだせねえ”って言えないんだよね」


 彼は、トントンって雑誌を叩いた。


「澄ました顔してても、あいつはあいつだから」


 ちゃんと見てやって、と言う。

 そう言われて、改めて雑誌の中の彼を見る。


(……同じだ)


 澄ましていても。とんがってても。

 彼の言っていることはいつもぶれずに、「服が好きだ」ってことだ。

 次は大きな舞台だろうけど、きっと楽しむんだろう。

 特集のインタビュー記事は8ページあった。

 最後のページには、一着のドレスが、首のないトルソーマネキンに着せられている。

 色は、赤。

 デザインはシンプルで、余計なものが一切ない。

 デコルテが綺麗に見えるように開いた襟ぐり。花が開くようにふんわりと広がるシフォン素材のスカートは、膝たけで短い。

 着心地がよさそうで、だけど鮮烈で。そして、走り出したくなるくらいのパワーを感じる。


(かわいいけど、強い)


 着たくなる。着たら元気になる。そんなドレスだ。


『この社会の中で戦っている女性たちが、生き抜いていけるような。そんな服を作ります』


 ああ、彼だ。

 じんわりと、納得する。

 生き残ったら、あたしの勝ちだ。

 そう言った、あの時のあたしに、彼が答えてくれている。


「お姉さんは、日曜休みだっけ?」


 あたしが最後のページを見終えて顔を上げた時、店長さんが足元から薄い箱を取りだした。ぱかり、と目の前で開いてから、あたしに差し出す。


「あいつは、それだけ気にしていたから」


 それは、あたしのクローゼットには絶対ない。

 まるで世間に喧嘩を売るように、挑戦的に赤い厚手のショールだった。


「傘を返しに来たら、渡してくれってさ」


 ショールの上には、カードが入っていた。

 それは、川沿いの小さな喫茶店のカードで、4月の最初の日曜日の日付と、14時という時間が、ボールペンで走り書きをしてある。


『なんか、着て来いよ』


 カードをひっくり返すと、一言そう、書いてあった。

 あたしは、あたしの体温が、じわじわと上がっていくのがわかった。


(だって、こんな……)


「どうするか、考えてやって」


 店長さんはそう言うと、にやって笑って、奥に引っ込んでいった。

 あたしは、その真っ赤なショールと向き合う。

 手で触れるとやわらか指が沈み込むように柔らかだった。

 恐る恐る両手で広げてみる。

 軽い。

 そのまま、畳んで、受け取らないで帰ろうとしたのに。


(1回だけ……)


 店長も見てないし。少しだけ。と、あたしの心は好奇心に負けた。

 羽織ろうとして、ショールを背中に回すあたしの腕はロボットみたいにぎしぎしとぎこちなかった。何かいけないことをしているみたいだ。

 ショールが肩に触れて、びくっとあたしの体は震える。

 だけど、すぐに体から力が抜けた。

 魔法みたいに。


(あったかい……)


 全身を包み込むように大判で、肌にしみいるように柔らかショールはあたしの体から一瞬で緊張をさらっていった。


(これ、好きだ)


 羽のように軽くて、動きやすい。いつも使う黒や茶色と違って赤はどこか心をワクワクもさせた。余計な力が抜けて、なんだか自然に顔が笑ってくる。冬の寒さを跳ね返すように温かそうだ。

 きっと普通に売っていても、あたしはこのショールが好きになっただろう。

 ショールの端をギュッと掴んで、あたしはまだ数回言葉を交わしただけの、彼のことを想った。

 カウンターの上には、さっきもらった喫茶店のカードがある。

 その喫茶店には一度行ったことがあった。予約制で個室の席もある。

 その時期は、きっと桜がきれいだろう。

 目を閉じて、あたしは考える。

 想像する。期待する。ドキドキする。

 どこかで、「馬鹿なことを考えるんじゃない」とストップをかけるあたしを、このショールの赤が、振り切るように追い立てる。

 彼のあの髪のような。食べていた唐辛子のような。あのかわいいドレスのような。この赤いショールが。





 さあ、あたしは何を着て、彼に会いに行こうか。








最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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