12月(4)
「ごちそうさまでした」
860円のお金を払って、レシートをしまい込む。
彼には、また会えたらと、あいまいな別れの挨拶をした。約束もしないで、3度も会えたんだから、またここに来たら会える気がしていた。
店の外に出ると、まだ外は小雨が続いていた。
空気が刺すように冷たいけど、なんとか傘を差さないで大丈夫そうだ。
家を出る時には降っていなかったら、あたしは傘を持ってなかった。家にたくさんあるビニール傘をこれ以上増やしたくないから、コンビニで買おうとは思わない。
リサイクルショップで2000円で買った上着のフードをかぶって、襟元にマフラーの裾を入れ込んで、あたしは歩き出す。
手袋を持っていないから手が寒い。ポケットに手を入れる。
12月の雨は、体を芯まで冷やす。
朝はこれが凍り付いて、さらに足元から冷気が襲ってくるんだろう。明日もあたしの朝は早い。また一週間が始まる。
大股で、少し走るようにしてコインランドリーに急ぐ。ちんたら、歩いていると体がどんどん固くなっていきそうだ。
口元から、濃い湯気のような白い息が見える。さっきまでラーメンを食べていたから、あたしの体の中は、まだ温かかった。
車の通りが激しい大通り沿いにあるコインランドリーはいつも通り、暖かいだろう。
後ろから来た車が、頬を切るような冷たい風を走らせる。瞬時に冷えた鼻の頭を暖めるように手の甲を添える。
クラクションが一つ鳴った。
夜の闇を照らし出すように光を返す、真っ白なスポーツカーは、雨に濡れても、雫をきらきらと反射させていた。
普段ならこんな車、自分に関係ないと思うだろう。だけど今日、あたしはその車が似合いそうな人を知っていた。
灰がかった透明のウィンドウが開いて、サングラスが顔を出す。
「傘ないの?」
真っ赤な髪は、白いスポーツカーに似合っていた。
「……まあ」
「乗ってく?」
いくら印象が少し変わったとはいえ、さすがにあたしも、ラーメン屋で3回会っただけの名前も知らない男の子の車に乗る勇気はなかった。
「家、近くなんで。気にしないでください」
彼はしばらくあたしの顔を見てたけど、やがて窓から頭を引っ込めた。
「ちょっと、これ持ってて」
窓からにょきっと飛び出したのは、木製の取っ手だ。
にょき、にょきとだんだん出てきて、姿を現したのは、傘だった。
ペンキで塗りかためたような、真っ白な傘の生地に、優美なレタリングのアルファベットがプリントされている。
取っ手があたしの胸のあたりに近づいた時、傘の石突を掴んでいただろう彼が手を離して、その傘は危うく雨に濡れたアスファルトに落ちそうになった。
「わっ」
その時になってようやく、あたしはその傘をキャッチした。
ビニール傘とは比べものにならない。あたしがこれまでの人生で買ったどの傘よりも、重厚で、取っ手の手触りがよかった。
「これっ」
こんな高価なものを、借りるわけにはいかない。
あの、ゴミ溜めみたいな家に、置いておくのにふさわしいものじゃない。
返そうとしたけど、その時にはもう車の窓は閉まりかけていて、運転席で彼はにやりと笑った。
「気を付けて」
雨の中に消えていくように、あっという間にその車は去っていく。
あたしは、しばらくぼんやりとそれを見ていたけど、体がぶるりと震えて、我に返った。
傘を持つ手が震えているのは、寒さだけのせいじゃない。
傘を開く。
白い世界が広がる。
外灯の光を受けて、傘はそれ自体が光っているかのように、白くあたしの目に焼き付いた。
取っ手はまるで杖のように重厚だけど、内側に向かって中棒が細くなっていて、予想よりもずっと軽かった。
傘の白い生地に書いている言葉は、英語ではないみたいだ。アルファベットは、文字の大きさが様々で、意味は分からないけれど、何かの映像をみているみたいに、面白い。
(きれい……)
傘そのもののデザインがきれいで、心に光が灯るようだった。
雨の中を歩き始めて、素敵な傘を差すと雨の日も楽しいんだと、子どものようなことを思った。
彼とさっきまで話していた会話を思い出す。
あたしは、自分を大事にしていない。生活も着ている服も。自分の家のことも。
だけど。
『気を付けて』
自分がいま、大切にされた、と思った。
次話でラストです◎