前編
最悪だ。すごく最悪だ。
「なんで俺が……」
もはや打ちひしがれることしかできない。手違いだと言っても無意味だったし。
そういうとこ融通が利かないからな……。
木藤亮介、十六歳。今年の春に親の勧めで入った南方高校に通う高校生だが、猛烈に学校辞めたい。いや、ほんとうに辞めるかと言われれば辞めないんだけども。
『――三、二、一……スタート!!』
女子特有の甲高いアナウンスで戦いの火蓋は切って落とされた。天気は快晴、絶好の体育大会日和である。スタート地点に立たされた俺は走る気力もない。
ああ、始まってしまった……もうなるようになればいいさ……。
徒競走やリレーならどれだけよかっただろう。足の速さには自信があるから、優勝間違いなしだ。
しかし学科対抗争奪戦――俺に勝ち目はない。
何が問題なのか。そう思った人もいるだろう。しかしコレはただの学科対抗争奪戦ではない。ハチマキやら木の棒やらを取ればいい話じゃないのだ。
簡単に言えば頭のよさと応用力を競うテスト。残念ながら俺にはどちらも備わっていない。生物科だし。
名誉のために言っておくが、生物科がバカクラスだとか俺が底辺とかそういう訳ではない。他の三学科の成績が飛び出ているだけだ。
俺はゆっくりと静かな校舎を歩き始めた。スタートしたはいいものの、あたりに人の気配はない。
なにかしらイベントが発生するまで学科について説明しておこう。この学校は4学科ある。俺の所属する生物科、理系の化学科、文系寄りなエリート志向の集まる進学科、最近新設された美術科。なぜ勉強メインの学校に美術科を作ったのかは謎だが、広く新しい校内は美大に入るためにはうってつけのアトリエらしい。
見た目で分かるように、化学科も進学科も天才の集まりだ。生物科なんて他の高校の普通科と変わらない。確かに専門は詳しくやるが、普通に就職希望の俺にとっては無縁な気もする。そこまで考えるとなぜ自分で進路を選ばなかったのか、という苦い後悔を覚えるのであまり考えておかないでおく。
ゆっくり物音にビクビクしながら進んでいく。我ながら情けない。
人に会うとしたら広い教室か――狭い場所かのどちらかだな。周りを見回すと黒いギョロっとした監視カメラと目があった。グラウンドの巨大モニターで全校生徒のさらし者にされているんだろう。――こうなったのもアイツのせいだ。今思い返すだけでも怒りが収まらない。
ことの始まりは今日の朝のことである。
◇ ◇ ◇
「あ、亮介。そういえば言っとかなきゃいけないことがあるんだけどさー」
「……なに」
めずらしく早起きした兄貴が寝巻のまま俺に話しかけてきた。どうせ今日の学校も休むに違いない。引きこもりめ。
朝ごはんを美味しくいただいていた俺はめんどくさくて目もあわせず咀嚼しながら会話することにした。
「今日さ、学科対抗争奪戦あるじゃん」
「おう。なんでも大目玉競技なんだろ?……っていうか、体育大会で授業がないのをいいことにまた休むつもりか」
「あれさー、」
あ、無視された。なんか嫌な予感がする。
めんどくさいことになりそうで、気持ちを落ち着けるようにコーヒーに口をつけ――
「ホントは俺がでるはずだったんだけど、代わりにお前の名前書いといた」
「ブッ!!」
「うわ、きたな」
「は!?ちょ、オマエ今なんつった!?」
「代わりにお前の名前書いといた」
「何してんだああ!!」
訳が分からない。あれは本来三年生の各学科から代表が選ばれる花形競技だ。知識の少ない一年がでしゃばるようなものではない。一年代表だなんてシャレにならない。
「いや、ホラさ、出たくないじゃん?それでお前と俺の名前似てるから、書類を書き換えて出したら通っちゃってー」
「ダメでしょ!!俺一年生じゃん!!絶対ムリじゃん!!」
「ルール上は何年生でもオッケーだしー、生物科は勝てた試しがないからどうせ負けて恥さらすくらいならサボろうと思ってー。もともと俺もクラスのやつらに押しつけられたタチだしー」
「どうしようもなくクズだな!!」
ほんとどうしよう……棄権するとペナルティがあるし……事情を説明しないと!全校生徒どころか本人でさえ知らされてないんだ、始まるまでに先生に話せばなんとかわかってもらえるかもしれない……!
「お、もう学校行くの?やる気湧いてきた?」
「ちげーよ、事情を説明すんだよ!!」
「気を付けろよー!斎藤によろしく言っといてー!」
兄貴のパソコン、帰ってきたらリカバリーしてやる……!
◇ ◇ ◇
ダメでした。
そして冒頭にいたる。学校としては大目玉のこの競技、俺の代理もいないし書類の変更はみとめない、だと。やっぱ入る学校間違えたかな……。
少しワクワクはするが、他の学科が全員先輩――三年生ということが気持ちを降下させていく。三年生が三人、ひよっこの一年生が一人。
「はぁあああ……」
俺は深くため息を吐いた。
歩みを止めるつもりはない。全校生徒がモニターでどこからしか見ているのだ。下手に独り言も言えないし、だれがどこにいるかもわからない。
争奪戦というと聞こえは物騒だが、ルールは単純だ。違う学科のピンバッジを奪い、誰よりも早くゴールすればいい。それだけ。それだけなのに出来る気がしない。
範囲はグラウンドと校舎内。出たらもちろん失格だ。そういう意味では逃げ道が限られるので、常に脱出ルートも考えておかないといけないな。屋上なんかは戦闘するしか助かる道はない。でも屋上にずっといる人はいないだろう。なんせ不利になりやすいからだ。
スタート地点はバラバラで、全員離されているらしくしばらく歩いていても問題はない。例えばそこの曲がり角を目を瞑ってまがったところで見つかってしまうなどというフラグはありえな――イタッ。
「曲がり角は目を閉じて歩けって教えられたのか?」
「うわあああああああすみません!まさか先輩がいるとは思わなくて!」
「フン、おおかた目を閉じて歩いても誰にも合わないって調子に乗ってたんだろ?」
「うっ……」
「噂通りか。最初聞いたときは驚いたけど、兄の身代わりで一年が参加するなんてな。生物科らしい。例年通り無様に負けたくなかったらピンバッジをよこせ」
うわぁ……やな先輩にぶつかってしまった。誰だっけ、えっと……。
まいったな、参加者の名前見とけばよかった。
「おい、はやくよこせって」
「おちついてください、えっと、つ、釣り目の先輩」
「余計なお世話だ!……俺は榎本 陽気だ」
「あはは、名前と全然イメージ違いますね」
「余計なお世話だっつってんだろ!いいからピンバッジをよこせよ!」
どうやら冗談が通じないみたいだ。笑顔でピンバッジ交渉作戦、失敗!
「えー、せいせい堂々と戦いましょうよ~」
「それでもいいけど、どうせ負けるだろ」
確かに生物科はよく進学科にフルボッコされることでも有名だ。呑気なイメージが気に食わないのか、受験戦争でピリピリしてるのか知らないがネチネチといたぶってくる。一番弱いのを知ってて陰湿に狙ってくるあたり、この人も進学科の典型的な人だな。
さて、どうするか。無様に負けるのだけはご免だ。かといって戦っても勝ち目がないのは先述の通り。
「おい、聞いてんのか?」
――なぜ戦うと負けるのか?
ここで言う戦うは暴力ではない。いわばバーチャルゲームでの勝負だ。もう一度言うが、この障害物競争は頭の良さと応用力を競うテスト。実は今回嫌々参加した俺が唯一楽しみにしてた要素が勝敗を決める。
「おいってば」
その名もGTフィールド――それが今日に限り有効化される。某フィールドを連想した方には申し訳ないが、文句なら開発者に言って欲しい。俺も最初聞いたときは「それはないだろ(笑)」って思ったもん。
要するに、学習内容を呟くだけでバーチャルで再現してくれるらしい。呟くと言ってもちゃんと定型の文章にして言わないといけないんだけども。「○○、○○より××を召喚せよ」というふうに――○○は関係するキーワード、××はその召喚したい人物、物事。キーワードが多ければ多いほど強かったり、利点がつく。
すごいよな、最近の科学って。習ったことをバーチャルで試すんだってよ。
「おい!」
例えば「一四二八年、オルレアン奪還よりジャンヌ・ダルクを召喚せよ」と言えばバーチャルで再現されたジャンヌ・ダルクが戦ってくれる。なぜジャンヌ・ダルクを引き合いにだしたかというと俺が単にジャンヌ・ダルクが好きだからだ。闘う女の人ってカッコいいよね。
「くっそー!もうキレた、さんざん無視しやがって!」
あ、キレた。煽るつもりじゃなかったんだけど、怒らせてしまったか。説明の間くらい大人しくしてくれてたっていいじゃない……とか思ったけど、聞いてくれなさそうだから結局一緒か。
うーん、どうしよう。さっきからどうしようしか言ってない自分にどうしようだよホント。何も作戦考えてなかったからすごく困ったことになった。
「あー、ちょっと待っていただけないっすかね」
「今更何言ってんだ!俺はお前なんかに割く時間はない!」
「先輩短気っすね」
「誰のせいだと……!」
ここで二つは説明しておかねばなるまい。
まず一つ。バーチャルによる攻撃は俺たちにはハッキリ言うとまったくもって無害だ。槍で突れようが鉄砲で撃たれようがまったく効かない――というのを朝に聞かされたときはマジでよかったと思った。向こうが火縄銃とか出して来たらどうしようかとほんと焦った。
考えれば当たり前か。
それと、そういった武器や道具は持ったり使ったりできる。感触はしないらしい。やはり触感までは再現できなかったようだ。再現できたとしてもさっき述べた人体には無効化するにはといった問題が残るのだろう。
「もういい、勝手に奪わせてもらう!――太宰治、ギリシャ神話よりメロスを召喚せよ!」
補足だがピンバッジも実はバーチャルでできている。だから召喚した人物に頼んで取ってもらうなんてことも可能だ。化学科なら磁石を精製してくっつけさせるなんて芸当もできるかもしれない。
ここでバーチャルに触れられるのなら――触感はないが――直接とればいいのでは?と思う人がいるかもしれない。しかし残念ながら、襟から取る場合のみ、ピンバッジに人体が干渉することはできないということになっている。なぜかというともうお分かりだろうが、肉体戦に強い人が有利になってしまう上に、召還をしないで戦う人が出てきてしまう。
「あいつのピンバッジを取ってこい!」
ああそうだ、もう一つを説明し忘れていた。一般教科――国語や社会、数学なんかはどの学科も自由に使える。もちろん、専門教科はその学科しか使えない――なんてこともないが向こうがこっちよりキーワードをたくさん重ねてきたらもちろん負ける。進学科は一般教科を充実させる学科だ。いくら俺が偉人や武将に詳しくても向こうの方が詳しい恐れがある。下手に一般教科は使えない。
「……ッ!」
俺は身をひるがえして廊下を駆け出した。何も対策を練っていなかったために、とりあえず逃げるしかない。足には自信があるが、さすがに逃げ切れても向こうは物語の英雄、俺が疲れている間も走り続けられるに違いない。鬼ごっこの果てにピンバッジを奪われるのがオチだ。
後ろから馬鹿にしたような笑いが聞こえる。
くそっ、先輩だからって下手に出れば調子乗りやがって。受験戦争だかなんだかでイライラしてるのか知らないが、俺を追い詰めるのは楽しいことの部類に入るらしい。
あんなやつに負けてたまるか。
生物科で使えるのはなんだ。最近習ったのは。考えろ俺、考えろ……!
GTフィールドを見たことすらない、なにもかも初めてでどうすればいいのにか分からない。アイディアが浮かんでは消えていく。
ああ、なんでこんなところで頭使ってるんだろうな。勉強嫌いなのに。どうせ負けるのに。
息も上がってきた。ここの先は――階段か。一気に駆け下りて少し息を整える。ぼーっとした頭に新鮮な酸素が送り込まれて、ネガティブなことを頭から無理やり追い払う余裕はあった。
いいさ、やってやる。反撃だ。先代が無様に負けた歴史を塗り返してやる。
俺は近くの空き教室にすべりこんだ。幸いたくさんの机と椅子で隠れることができそうだ。
「っは、っ……。もう、きんるい、っ、タカ目タカ科よ、り……オオタカを、召喚せよ」
俺は息も絶え絶えにキーワード二つで召喚をした。目の前でブゥンと青白く光り、キョロっとしたオオタカと目が合う。かわいい。
初めてのGTフィールドだが、うまくいったみたいだ。今更ながらに感動してきた――なんだこれ。すごい、すごすぎる!すごいな科学!
「……やってくれるか?」
目を合わせて、アイツらに見つからないよう出来るだけ小さな声で語りかける。オオタカは少し喉を鳴らしてケーン、と控えめに鳴いた。
「おい、隠れてるのは分かってる。さっさとでてこい」
さっきより乗り気になった先輩が教室にログインしたみたいだ。お帰りください。
いつの間にか距離が開いたと思ったらそういうことか。走らずとも、とメロスとここまで歩いてきたに違いない。あとは追い詰めるだけだとか思ったんだろう。油断するととんでもないことになるって走れメロスを読まなかったのか、あの先輩。
だが好都合だ。勝負は一瞬。先にメロスが来てしらみつぶしに探されてなくてよかった。そしたら勝算はとても低かったのではないかと思う。
俺は聴こえないような声でオオタカにささやいた。
「いいか、あいつめがけて一直線、だぞ」
今のが聴こえていたのかいないのか、ニヤリと笑った気配がした。先輩が自信ありげに教室を見渡しているのが想像できる。
「ふん、生物科にしては粘った方だな。今までの先輩方もGTフィールドを活かせないんだから、お前みたいにがむしゃらに逃げればよかったのにな」
先輩とメロスは机を一つ一つ確認しながら近づいてくる。まだ、まだダメだ。もう少しひきつけてから。
あと五歩は。五、四、三、二……一――今だ!!
俺はとっさに反対方向に駆け出した。
「あっちだ!追いかけろ――ってわぁ!!えぇ!?」
そこには既にピンバッジを咥えたオオタカが誇らしげに舞っていた。
オオタカの速度は時速八○キロメートル。急降下なら余裕で一○○キロメートルを超える。メロスが俺のピンバッジを奪おうとしてる間に、オオタカが先輩の襟のピンバッジを奪ってなおかつ俺の肩に止まる――なんて造作もないことだ。
俺がありがとう、とバーチャルのピンバッジを握りしめた途端――と言っても感触はないが――目の前にいたメロスはあっという間に消えてしまった。なるほど、負けるとバーチャルも消えるのか。
『――三年進学科、榎本 陽気、失格!』
ガチャガチャとなったかと思えば実況アナウンスか。他の二人の先輩にも聴こえているんだろう。少し外が騒がしいのはモニター中継を見ていた生物科がいきり立ってるからに違いない。なんせ初の一学科突破だ。
「バカも捨てたものじゃないですよ」
何が起きたのか分からない、と言いたげな先輩にそう言い残して次の先輩に挑むべく空き教室を後にした。
◇ ◇ ◇
どうしてこうなった。
ピンバッジ1個を手に入れたあの後、俺は作戦を立てるべく監視カメラの設置されていない屋上へ向かった。思っていたよりもずっと中継――という名の監視をされているのは精神的にくる。雄大な空でも眺めてたら気分も晴れるだろうと思ってたんだけど。
「先輩、そろそろ動いていいっすかね……」
「ダメ。それと黙って」
なんてこったい、喋ることさえも許されないというのか……!
いかにも自由の二文字がピッタリな彼女の名前は堂本くるみ。三年芸術科、今回で唯一の女子である。今俺が動けないのは目先の欲がからんだ結果でもあるが――別にやましいことではない――けっこうきつい。かれこれ三十分くらいは同じ体制をキープしている。
『ピンバッジ欲しいの?いいよ、あげる』
『ホントですか!?』
『絵のモデルになってくれたらね』
というわけだ。なるほど、それなりの対価ってわけか……!まるで舞踏会のワンシーンを切り取ったかのようなポーズをこの歳で再現するとは思わなかった。さっきから空気の音と、鳥が鳴く声、鉛筆らしきものでデッサンする音しか聞こえない。ときどき手が止まり考えるように間をおいてから、またシャッシャッと再開される。
あーいい天気だなー。俺何しにここにきたんだっけ……えーっと。
「そうだよ!のんびりしてる場合じゃねぇ!!」
「ピンバッジいらないの?」
「すみませんいります、すっごく欲しいです」
危ない危ない、やると言った以上は最後までやり通さなくては。暇で暇でしょうがないんだけど、美人に見つめられてると思って耐えるんだ!
それにしても、このあとはどうするか。先輩のデッサンが終わったらピンバッジをもらえると仮定して、残るは化学科かー。化学科は去年の優勝学科だ。ちなみに一昨年が芸術科。
化学科の代表は嫌でも分かる。兄貴の友達、斉藤さんだろう。去年の優勝も斉藤さんが最年少で勝ち取ったからだ。二年生で、ってすごくないか。俺は一年で出ることになったけどそのことからは目を背ける。それに生物科にしては今回のは快挙なはず、うん。
「……」
「……」
しばらく会話した後から、その後ずっとお互い沈黙で精神的に辛い。が、顔を描いてるのか喋ると怒られるので耐えるしかない。向こうはそこまで気にしてないみたいだけど。
「……」
「……できた」
おお、やっと解放される……!
彼女は俺に崩していいよ、と伝えるとさっさと道具を片付け始めた。
「……あのう」
芸術感性はゼロだと自負してるが、自分がどう描かれてるかは気になる。
先輩はこっちを向くと首をかしげた。こうして見るとなかなか可愛い。
「絵、見せてもらえないですか……?」
絵のモデルになったんだからこれくらいは許されてもいいはず。
そう控えめに聞くと、合点がいったように画用紙を見せてくれた。よかった。
「おお……!」
先輩がぺらりと渡されたのは白い、ところどころ煤けた画用紙だ。顔をよーく近づけて眺める。
どんな絵か聞かれてもなんて答えればいいんだろう。カッコいい、しか言えない気がする。もはや俺ってこんな神々しかったっけという域である。すごいな、画家って。線の一本一本がそこにあるべきだって思えてくるから不思議だ。
「どう?」
「カッコいい、です」
「そう」
しみじみと浸っていると片付け終わった先輩がこっちに近づいてきた。
「レオナルド・ダ・ヴィンチよりモナ・リザを召喚せよ」
そう呟くとモナ・リザが現れ、先輩の意思を分かってるかのように先輩の襟元に手を伸ばしてピンバッジをとる。おお、さすが芸術科。ここにきてやっと専門教科っぽい召喚を見た気がする。
すると先輩はおもむろに俺の手を取り――んんんん!?
「――ッ!」
耐えろ!俺!耐えるんだ!すごく恥ずかしいとか照れるとかそんな邪念は捨てるんだ!
先輩はまったく気にすることなく、お、俺の手をとって両手で包み込む。もしかして噂の天然なんだろうか。
「約束だからピンバッジあげる」
「せ、先輩はいいんですか」
「なにが?」
仮にも学科代表だ。生物科ならまだしも、他の学科はそれなりの期待を背負ってるはず。俺はずっと疑問に思ってたことを口にした。
「学科の人に恨まれるんじゃ……」
ああ、と納得したように先輩は喋りだした。
「芸術科はそんなにペナルティは苦じゃない。むしろ絵を描く時間が増えるだけ。皆も分かってて私に託してくれたから、どうするかは私の自由」
先輩がここまで喋ったのは会ってから初めてじゃないだろうかって思ったのはしょうがない。正直俺もびっくりだ。
最初に述べたとおり、棄権したり敗北したりするとペナルティが課せられる。要は補習が増えるということだ。学科によって補習の考え方は違うのか。へぇ、知らなかった。生物科じゃ恨まれるもんな……。たぶん進学科も化学科も恨まれるとは思うけど。芸術科は普段の授業も絵を描いたり、だから補習も普段の延長なのかもしれない。
「それともう一ついいですか……」
「?」
「手、離してもらっていいですか……」
平常をよそおうとしたんだけど難しかった。思春期の高校生男子をなめないでもらいたい――すごく恥ずかしい!耳とか赤くなってないことを祈る。
先輩はそれでも気にせず、手のひらが上になるように俺の手を広げてモナ・リザを見た。モナ・リザは頷きピンバッジを俺の手の上にそっと置く。さすが芸術作品なだけに動きが流れるようで美しい。
手のひらにおさまったピンバッジを俺が軽く握ると同時にモナ・リザは消え、先輩もそっと手を離した。すこし残念とか断じて思ってない――ほんとに思ってない!
「次は斉藤君か。がんばって」
「……はい!」
「ここでのことは秘密ね」
そういって先輩はふわりと笑った。さっきから不思議な人だと思ってたけど、笑うと普通の女の子だ。不覚にもときめいちまった。チクショウ。
『――何があったのか不明ですが芸術科のピンバッジが消失しました!三年芸術科、堂本 くるみ失格!』
ああそうだ、そろそろ監視カメラのあるところに戻らないと。見えないところで勝負がついてたとかギャラリーとしては不満だろう。なにがあったか問い詰められても答えてやらないけど。俺と先輩の秘密だ。俺はにやけそうになる顔を必死で隠した。
無理やりすることになった争奪戦だけど、案外いいこともあるもんだな、とか思ってみたり。出会いってやっぱりいいなぁ。