はじまりの序章
番外編ですが、番外編・本編どちらから読んでも大丈夫です。
――たった一度の出逢いが人生を変える?
――そんなことが現実に起こりうるのだろうか?
時は平安時代中期。第66代天皇一条様の時代。和泉の国(現在の大阪)の山奥に1人の男がいた。男の名は伊左衛門。現在この廃村で暮らす唯一の人間である。数年ほど前にこの廃村を見つけ、それ以来寝床に使っている。年のころは20代前半。腰まであろうかとゆう漆黒の髪に、どんぐりのように大きな目。光に透けるような白く美しい肌だが、その表面には無数の傷が刻まれている。
現在彼は、この廃村で拳法(武術)に打ち込んでいる。昔は師匠がいたが、1年程前にふらりといなくなってしまったため、しかたなく1人で修行に打ち込んでいるのである。
とある春の一日、いつもと同じように日の出と共に起床。布団替わりの着物の上でむくりと体を起こす。手早く着物をたたみ胴着に着替え、顔を洗うため水瓶まで移動する。日中は暖かな日差しにまどろんだりもするのだが、まだまだ朝晩の冷え込みは厳しく霜の降りる朝も珍しくない。
水瓶の前で腕を組み精神を集中させる。水面に映る自分にニッと笑いかけ、意を決し両手を突っ込む。身を切るような冷たさを無視し、バシャバシャと顔に水をかける。まとわりつく眠気が断ち切られ、込み上げる爽快感と共に完全に目を覚ます。
「ふうー。朝の水はまだ冷たいなー。今日も一日頑張るで!」
毎朝ほぼ同じことを言って手近にある手ぬぐいで顔を拭う。日課の独り言を言い終え、近くの川に水を汲みに行く。これも日課の一つだ。この廃村の便利なところは、近くに大きな川が流れているところにある。川幅は5メートル前後しかないが水深は結構な深さになり、中央部分になると2メートルから3メートルの深さになる。流れが早いこともあり、大の大人でも向こう岸に渡るのは容易ではない。――まあ特に用事もないので渡ったことはないんだが・・・・・・。
「よっしゃ!今日もええ天気や」
天秤棒を担ぎ両端に手桶をひっかけ――ふと空を見上げる。川のほうから大勢の鳥がこちらに向かい飛んで来ている。
(猪かなんか出たんかな?)と呑気に構えていたが、ドン!というかなり大きな音を聞き血相を変える。(・・・・・・まさか熊やないやろな?)天秤棒を地面に放り出し、建物内へと踵を返す。
食べ物が乏しい山では熊は貴重な食料だ。だが、この山は食料に困ることはない。山には宝庫と呼んでいいほどの種類と量の山菜。川には岩魚・ヤマメ・海老などが豊富で、運がよければ大型のウナギも見かける。そんな理由で、危険な熊と遭遇するのは正直勘弁してほしい・・・・・・。しかし、熊が人間の都合など知るはずもない。実際に何度か遭遇し肝を冷やしたこともある。
玄関から鍔のない脇差を掴み外に出る。くすんだ色の帯に乱暴に差し、川の方角へ―嫌々ながら―足を向ける。熊がいるのが対岸なら問題ないが、こちら側だと厄介なことになる。川から廃村までは歩いて5分ほどの距離しかない。廃村に勝手に住んでいるとはいえ、自分の寝床を壊されては堪ったものではない。
伊左衛門は重くなる一方の足に渇を入れ、警戒しながら川の方角に向かった。




