箱舟
どういう訳か高等学校に通っている私はクラスメイトや先生から「箱舟さん」と呼ばれていた。加えて私は自分自身に関する情報をほとんど持っていなかった。私の本当の名前は何なのか、私は何が好きなのか、私はどこから生まれたのか、私に親はいるのか。それだけならまだしも、私は今現在自分がどこに住んでいるのか、自分が男か女なのかもわからなかった。住んでいる場所に関しては、私は気づけば教室にいて、自分の座席に座っており、授業が終了してしばらく時間が経ち、夜になったと思ったらいつの間にか次の日の朝の始業時間になっている。性別に関しては、体育など着替えが必要な場面では私が着替える間もなくいつの間にか衣服が変わっている。トイレに関してもまず便意や尿意が私には発生しなかった。また、私は自分自身が何者かを調べる事が許されていなかった。服を脱いで自らの性別を確認しようとしても、服を手にかけた瞬間、それをやろうという意志が完全に削がれる。街中を探し回り自分の住んでいる場所を探そうとしても、またいつの間にか教室に戻っている。
ともかく普段の私はこの教室に存在していて、他の学生と同じく高等教育を受けている、そんな存在なだけであった。私が持っている情報といえば、私のクラスに所属している人たちの人間関係、私は一般水準からしたらやや美形で中性的な顔をしているという事と、
「私は必ず面倒な事に巻き込まれる必要性があり、尚且つ私は必然的に面倒事に巻き込まれていき、さらにその面倒事を解決しなければならない」という事だった。
今日の授業も終わり、いつの間にか日は落ちていた。電灯は付いておらず、私以外の誰もいない教室を照らすのは夕焼けの光だけで、誰もいない教室の机も椅子も、私が今読んでいる本でさえも全て空と同じように茜色に染められていた。多少本は読み辛くはあったが、私一人の為にわざわざ電灯を点ける必要性を感じなかったし、それ以上に電灯を点けるという行動自体が私にとってはとっても億劫だった。教室の一番奥の窓際の席という、基本的に疎外感を感じる私の座席は酷く汚れていた。文としての形態を保っていない罵詈雑言がシャープペンシルや彫刻刀で刻み込まれている。私がこの座席に座って授業を受けて、今このように他人を待ちながら座って読書するということに対して、全くの邪魔にならないその行為の無駄さをいい加減理解して欲しかった。読んでいる小説が一区切り付き、次の章の最初の数ページを読んでいる所で、教室の沈黙はドアの開く音によって崩された。
「お待たせしました」
澄んだ声がドアの開く音に被せる様にして聞こえ、一組の男女が教室に入ってきた。二人とも一見すれば美男美女であった。他の生徒同様、学校規定の制服を着ているはずなのに、こうも他の生徒と見栄えが違うとやはり顔という物は社会にとって非常に重要な物のように思える。男子の方が教室の電灯のスイッチを押しながら、私の座席にその一組の男女は近づいた。電灯を点けた事自体も少々気に食わなかったが、もう一つ気に食わないことがあった。
「貴方は一人で来ると手紙に書いていたはずですが」
「その通りなのだけど、ちょっとどうしても賀人くんがついてきたいって言ってね」
女子の方は口調の軽さの割には私に対して丁寧に深く頭を下げた。
「出来れば約束は守って欲しい物です」
私は眉根を上げながら少し語勢を強くしてそう言った。
「違うんだ、箱舟さん。俺がついてきたいって言ったんだ。だから勝手な事をしたのは俺だ。椿を責めないでやってくれ。悪かった」
すると賀人と呼ばれた男の方も同じように頭を深く下げてきた。マニュアル通りの爽やかな謝罪だった。私はため息を一つついた。どうやらこのまま面倒な事が起きそうだった。
「それで、どうして私の下駄箱に手紙なんかを入れたんですか。椿さん」
私がここにいる理由はそれだった。教室に入ってきた女子、乙女椿は、私の机の中に手紙を入れていた。内容は至って簡潔で、「今日の放課後、教室に残っていてください」という物だった。勿論、私はこんな手紙を貰っていてもいなくても教室に残っている気でいた。どうせ遠くまで行けないのだ。学校の図書館から借り貯めした本をすべて消化してやろうと思っている所だった。
椿と共にいる男、篠原賀人は椿とは恋仲だった。学校内でもそこそこ有名なカップルだと記憶している。そんなカップルが放課後に残っていったい私に対して一体何の用があるのだろう。
「さらっと本題を言うわ。箱舟さん」
タイミングを合わせたかのように椿と羽刈は息を吸った。音を立てるものが何もない教室ではその呼吸の音が私の耳に良く届いた。
「「私達と付き合ってください」」
言葉はすぐに教室の無音に吸い込まれたが、その言葉はしっかりと私の耳に届き、私は理解に苦しんでいた。男女の告白のシーンという物はもっと感動的で官能的な物だと思っていたが、このような告白は見たこともないし、恐らくちゃんとした告白でもそれほど気持ちの昂ぶりを感じないのだろうと、今のやりとりで私は思った。
そもそも告白というのは男女がお互いの仲をより親密にするために、どちらか片方、または両方がその心に秘めた好きだという思いを相手に伝える行為である。今の状況を顧みてみると、性別すら不確かな私に一組の男女が付き合ってくださいと伝えていた。問題点しか感じられない、異様な状況だった。
「ある日、私は思ったのです」
椿が私に思案をさせる暇もなく言葉をつなげる。
「私は賀人くんとずっと付き合っていた。賀人くんは少しぶっきら棒な所もあるけれど、正義感がしっかりある、とっても誠実な人だったの。私は賀人くんと付き合えている事をずっと光栄に思っていたわ。ただ、私は最近になって箱舟さんの事がとても気になったの。いつも教室で静かに本を読んでいる箱舟さんに、深く喋ったことはないけれど、とても心が惹かれるものがあったの。一目惚れとも言うのかもしれない。運命の出会いだとも思ったし、今でも箱舟さんの事を神様の生まれ変わりだと思っているわ。それくらいの衝動が私の中で走ったの。私はそれをずっと抑えてきた。ただもう限界が来ていたの。私はその事を賀人くんに相談したの。誠実な彼を騙してなんてとても付き合えないので私は自分から別れを切り出そうとしたの。」
「椿の発言は最もだ。何せ俺もそうだったからだ。俺も椿と付き合えている事を光栄に思っていた。椿は俺としっかり向き合ってくれて何よりも俺の事を第一に考えてくれた。だから椿から箱舟さんの事が好きになった、と相談された時に嬉しかった。俺もそうだったからだ。俺も箱舟さんの事が好きだったからだ。俺から見た箱舟さんは天使だった。ずっと一緒に居たい、尽くしたいと誠実に思えた。俺は彼女と好きになった相手が一緒だったことに感動を覚えたし、彼女と箱舟さんが好きになったタイミングも同じで、俺も丁度その話を切り出そうとしたところだったんだ。だから俺と彼女は話し合った結果、結論を出した。俺達と付き合ってほしいと箱舟さんに言おう、と。」
二人は流れるようにその言葉を言い放った。私はもう一度ため息をついた。そして試験的に一つの言葉を言い放ってみた。
「私は一人しか愛す気はありません。どちらかにしてください。」
すると二人は口をポカンと開けて呆然と立ち尽くしていた。
「…え…嘘だろ…」
「…そんな、何かの間違いじゃないんですか?」
「いえ、私は一人しか愛しません。それは人として当然のことです。」
人かどうかも怪しい私が人について語るのはどうかとも思ったが、私はとりあえず言った。
「…私に譲りなさいよ」
「…は?」
椿は睨みながら賀人にそう言った。
「あなた私の事が本当に好きなんでしょう?本当に好きなんだったら私に箱舟さんを渡すべきよ。私の幸せをあなたは願うんでしょう?」
「…ふざけるなよ。お前だって俺の事が好きなんだろう?今までだっていろいろなものをお前に譲ってきた。箱舟さんはお前が俺に譲るべきだろう。そうじゃないと釣り合わないし、俺が報われない」
「私が好きって言っていたのは嘘だったのね!?」
「そんな訳ないだろ!?今だって好きだ!それとは関係なくお前の言っていることはおかしい!」
二人はそうして喧嘩を始めてしまった。いつお互いが手を上げてもおかしくない空気だった。ひどく滑稽な二人を見ながら私は読書を再開した。
「…こんなのってやっぱりおかしいですよ箱舟さん!」
賀人が声を荒げた。
「どうして僕等二人の邪魔をするんですか!何を考えているんですか!?」
「そうよ、私たちはこんなにも愛し合っているのに、どうして箱舟さんはそれを引き裂こうとするの!?」
そして二人は同時に私に詰め寄ってくる。二人は確実に私が悪いと信じ切っているようだった。それは酷く理解しがたいことだったし、理解しようと到底思えない物だった。
「先程、あなた達は私の事を神だの天使だの言っていましたよね」
私は本を閉じながら二人に向き合った。
「どうして仲違いした事を私に押し付けるのですか?道理が通っていないことを言っているのはそちらの方ですよね?それかどちらかが譲ればいいだけですよね。それなのに何故、私が悪いことになるのですか?」
「箱舟さんが受け入れてくれればそれで解決するからよ」
悪びれもせず、椿はそう言った。
「ああ、そうですか。あなた方にとっての神様っていうのはそういう存在なのですね」
私の中でじんわりと何かが湧き出てくるのを感じた。それは明確な殺意でもあったし、柔らかい慈愛でもあったし、深い失望でもあった。そんな不明瞭な思いと共に私は自分が何をすべきかを思い出した。
「あなた方も流されるべき存在だったんですね」
私は徐に手を賀人の方にかざした。賀人がその事を認識する前に、賀人はその場から消えていた。
「え――」
椿が驚きの表情を作り終える前に、私は流れるように椿に手をかざし、椿も同じように消してしまった。
「神はあなた方を許すために作られたわけではありません。通りの通らないことを許容するためにいる便利な存在ではありません。信じる者だけが救われるわけでもありません」
私は本をまた本を開く。今の私には私が何者かが全てわかっていた。ただそれを覚えることも、書き留めておこうとも思わなかった。そんなことをしても無意味で、無価値な事を知っていたからだ。私には今日という日が終わった時に、この記憶が無くなるという事も分かっていたからだ。
「とっくに『箱舟』なんていないのですよ。人はもう見限られているのです。今ここにいる私はただの『大洪水』です」
誰に言う訳でもなくぼやいた言葉は再び私以外の誰もいなくなった教室の無音に吸い込まれていった。私は本を読み終えた。読み終えたと同時に意識は闇に吸い込まれていった。
どういう訳か高等学校に通っている私はクラスメイトや先生から「箱舟さん」と呼ばれていた。加えて私は自分自身に関する情報をほとんど持っていなかった。私の本当の名前は何なのか、私は何が好きなのか、私はどこから生まれたのか、私に親はいるのか。それだけならまだしも、私は自分がどこに住んでいるのか、自分が男か女なのかもわからなかった。
私は誰もいない教室で一人、本を読んでいた。遠くの空にはまだ鴉が飛んでいた。
終
2014年度漫画研究会合同誌学祭号に提出した作品です。
テーマは「宗教」「解釈」。漫研で一番初めの活動となった作品です。
人間が人間たる為に一番必要な物は「宗教」と聞いたことがありますが、
興味が無いと言ってもドアを勝手に開けて無理やり勧誘してくる人の、
どこが「人間」なのでしょうか?