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2.秘密 (現代物)

 彼女が立つ中庭から、音楽室にいる少年の細い指が鍵盤の上を滑るように動く様はよく見えた。

 きちんと切りそろえられた爪と、少し骨ばった手。

 同じ年の男の子たちと比べて華奢な手が、繊細で正確な音を紡いでいく。

 夕暮れの校舎に流れる静かな曲には聞き覚えがあるのだが、題名まで思い出せない。

 彼女は、その曲が嫌いだった。

 不安を呼び起こす音だと思う。

 例えば、空に細く白い月を見ているような気分だ。

 不安定で、身の内にある、心もとない感覚を呼び覚まされるような気がする。

 意識の底にある欲望を解き放ってしまうのではないかと、畏れを抱かせる音の羅列だ。

 それなのに、気がつくと、ここに来てしまうのは何故なのだろう。

 理由が上手く見つけられない。



 放課後の、この時間。

 クラスメートの少年が、音楽室でピアノを弾いていることに気がついたのは、そんなに前のことではない。

 教室での彼は、いつも無口で大人しい。

 でしゃばらず、誰かのくだらない話でも、笑顔で相槌を返している。

 一見すると、優しく良い人だ。

 怒った姿など見たことはないし、声を荒げたり、誰かの悪口を言うのも聞いたことがない。

 彼女自身も、いるのかいないのかわからないような存在の彼を意識したことはなかった。

 話したこともなかったし、彼もこちらのことなど目に入っていなかったのだろう。

 そういう関係だった。つい数日前までは。



 あの日。

 偶然通りかかった中庭で、聞こえてきたピアノの音に足を止めたのは、夕暮れも近い時刻だったはずだ。

 そこが音楽室だということは、開いた窓から覗いてわかった。

 こちらに背を向けて、少年がピアノの前に座っているのが見えたが、誰かはわからない。

 物珍しくはあったが、確かめようなどとは考えなかった。

 興味もなかったし、人と深く関わることが苦手な彼女は、そのまま通り過ぎるつもりだった。

 誰が、どこで何をしようが彼女の知ったことではない。

 だが、彼女がそのまま窓から離れようとした時に、ふいに曲が途切れた。

 唐突に終わったことに、違和感を覚える。

 曲を間違えたわけでもない、誰かが入ってきたわけでもない。

 なのに何故?

 疑問に思い、再び足を止めてしまったのは、今でも不思議に思う。

 そのまま行ってしまうことは可能だったはずなのだから。

 けれども、彼女は結局視線を戻し、窓の向こうで、ピアノの前にいた少年が振り返ったのを見ることになる、

 クラスメートの少年だと気付いたのは、その時だ。

「何か用?」

 笑いを含んだ声音で、呼びかけられる。

 初めて、お互いの顔をまともにまっすぐ見たのだと思う。

 目が印象的だった。

 人を惑わす眼差し。

 人を魅入る視線。

 彼女の知らない『彼』がそこにいた。



 今日もまた、あの時と同じように曲が途切れ、少年が立ち上がった。

 彼女の気配に気がついたのだろう。

 振り返って彼女の姿を認めると、薄い笑みを浮かべながら、こちらに近づいてくる。

 開いた窓から身を乗り出すようにして、彼女を見下ろしてきた。

「覗き見か?」

 からかうように言われて、彼女は笑った。

「違うわ」

 彼がピアノを弾いている姿を見ようと思って、ここに来るわけではない。

 音が。

 彼が、あまりに不愉快な音を彼女に聞かせるから、ここに来てしまうのだ。

 同時に、ここでしか見せない、あの冷めた眼差しが気になるだけなのだ。

 もちろん、彼にそんなことを言ったりはしない。

「どんな理由でも、君がここに来てくれるのは嬉しいけれど」

 涼しい顔でさらりと言われ、彼女は不愉快そうに眉をひそめた。

「だって君は綺麗だから」

「嘘ばかり」

「嘘じゃない。君は綺麗だ」

 彼が、同じ言葉を幾人にも繰り返していることを知ったのもごく最近だ。

 人を信じず、受け入れず、物事に無関心なくせに、自分に近づいてくる人間に対しては、翻弄するような態度を見せる。

 その甘い囁きで。

 その冷たい眼差しで。

 彼がその手に絡め取った人間は、いったいどのくらいいるのだろう。

 深みにはまり、抜け出せなくなってしまった相手は、どれだけ存在する?

 自分だけが彼を理解できるかもしれないという錯覚を抱かされて辛い思いをした人の数は?

 そうなりたくない。

 そうなるのはいやだ。

 けれど。

 そうなってもいいかもしれないという思いもある。

 不思議な感覚だ。

 そのまったく矛盾した感情は、時には彼を疎ましく感じ、次の瞬間には、無意識に彼の側でその体に触れてみたいと、異なる思いを生み出すのだ。

「嘘つきは嫌いよ」

 彼女の言葉に、彼は笑うと、手を伸ばす。

 白い指が、彼女の頬に触れ、唇に触れ、髪に触れた。

「君も嘘つきだ」

 囁き声は、彼が奏でる音色のように、不安定で繊細で心もとない。

「そうだろ? いつも取り澄ましていてるけれど、中身は僕と同じ」

 人に心をゆるさない彼。

 他人と一線を置いて接する彼女。

 確かに、どこか似た部分があるのかもしれない。

 認めたくはないが。

「乱れて獣のようになった君が見てみたい」

「私もよ。あなたが取り乱す姿って、どんなだろうと思う」

 まだ、お互いの本心は明かせない。

 まだ、互いの距離は遠い。

 それでも、いつか。

 遠くない未来に、もし彼女が彼を好きだと思える日がきたら。

 彼に本当の自分を見せてもいい。

 醜く、汚く、矛盾だらけの心の内をさらけ出してもかまわない。

 だが、今はまだ早い。

 今の彼の言葉は、真実とは遠く、彼女の心には届かない。

 彼女の声も、同じだろう。

 心の内は、秘密のまま。

 束の間、この場所で触れあい、互いを探り合うだけ。

 いつまで、こんなことを続けていくのか。

 それもまた、秘密なのかもしれない。



 そして、今日も、互いの真実を隠したまま、二人は口付けを交わすのだ。

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