特別な日常
日常のなかに、ふと切り取りたくなる特別な瞬間があります。
これはそんな、ある雨の日の話です。
雨の日の電車内は、静かというより空気が薄い霧のかかった山奥のような感じがする。
窓ガラスに雫が伝い、外の景色がどこか霞んで見える。普段から客の少ない路線なのだが、雨になるとさらに人が減る。車両に乗っているのはほぼスーツ姿。誰もが似たような疲れを纏って、まるで暗黙の了解かのように下を向いて座っていた。
私は優先座席の隣にあるシートの端に腰を落ち着けて、スマホの画面を開いた。目的の駅まではまだ30分以上ある。
Nolaというアプリを開く。私は趣味で小説を書いている。誰かに見せるほどできたものではないが、どこかに公開してみたいとずっと思っている。書きかけのプロットを呼び出す。登場人物の名前、物語の構成、どこかに書き留めた断片的なアイデアメモ。私はプロットなしに文章が書けない。何も決まっていない状態で書き始めると、途中で足がもつれて、そのまま転んでしまう。だから下準備が要る。夜道は歩けない、というほど大げさな話ではないが、せめて電灯の明かりはあってほしい性質だった。
メモを辿りながら、続きを書き足していく。
そのとき、ドアが開いた。また一つ目的の駅までの距離が縮んだ。
雨の匂いが一瞬だけ流れ込んで、また閉まった。乗り込んできたのは、若い親子だけだった。子どもは五歳くらいだろうか、黄色いカッパを着て、黄色い小さい傘を母親に預けて、黄色い長靴を履いていた。母親らしき人物に手を引かれていたが、すり抜けてすたすたと車内を歩いてきて、なぜか私の隣の席に腰を下ろした。ガラガラの電車の中でわざわざおっさんである私の隣に。お母さんが一瞥をよこして、子どもの隣に静かに座った。私に向けたその視線は短くて、特に何を言っているわけでもなかった。
子どもはじっとしていなかった。
すぐに座席の上で膝を立てて、窓の外に顔を向けた。雨粒が風に吹かれて斜めに走っていく窓を、真剣な目で追いかけている。いくつかの駅のホームが過ぎ、家々を過ぎ、時間も過ぎた。それでも飽きもせず目で追っていた。
私は画面に戻った。
1行1行表現を見直しつつ書き進めていく。プロットに照らし合わせて、次の展開を確認する。雨の音が窓越しに小さくぼんやりと聞こえていた。
不意に、視線を感じた。
ふわっとした感覚ではなくて、もう少し具体的で鋭利な、こちらに向けられた何かだった。顔を上げないまま、視界の端で確かめた。
子どもが、窓の外を見るふりをしながらこちらを見ていた。
顔は窓に向いている。でも目の端が、明らかに私のスマホの画面を気にしていた。何かゲームをしているとでも思ったのだろうか。指先でちまちまと文字を打っているのが、子どもの目にはどんな風に映っているのだろう。
私はそのまま知らないふりをして、今この物語を書いている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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