私と夢の間の道にあるもの
クリスマス、年末、年始が近付く。私は毎年、この時期は気持ちが不安定になる。クリスマスに自分の心に無理に火を灯しているのだろうか。明るくして、ぴかぴかにして、ケーキを食べる。その甘い香りに酔ってしまうのかもしれない。
もし、帰る家があったなら。何を思っているのかと、いつも思う。いつもの思い、いつもの答え。私に、帰る家はある。此処に。この場所に。もう「住み慣れた」と表現しても差し支えない、この家がある。以前のアパートよりも広くなった、この家。存外に気に入っている、この家。大切な、家。
本当に? そう、心の中の私が言う。本当に大切な家なのか、と問う。本当に此処が帰る場所なのかと、問う。その問いに対して、私は「勿論」と答える。けれども。でも、と付け足してしまう。此処の家でも違う家でも良いから、父がいたら良かったなと思う。優しかった頃の母と弟が何処かにいたら良かったなと思う。夢を、みてしまう。暖かい部屋で仲良く暮らす、私達の姿を。四人家族の私達を。脳裏に浮かべてしまう。想像だから浮かびやすいのだろうと思う。私は小説家志望だから、想像力には少しばかり長けているのだ。そんな風に思う。
同じ場所に、同じ家にいなくても良い。優しい自分の家族が、何処かに住んでいてくれたら。そう、思う。生きている身内が、いま、どうしているかは分からない。厳密に言えば、生きているかも良く分からない。何かあれば親戚から連絡が入るだろうとは思う。その「何か」とは何だろうと、私は思う。葬式にも、もしかしたら私は出席しないかもしれない。出来ないという気持ちに近い。私の足を凍らせる思いが其処にはある。
今年も、クリスマスが近付いている。その後は年末、年始と続く。今年は友達と会う予定があるので、私の孤独の心は救われた思いだ。だが、私はいつでも孤独のような気がする。愛する人がいても、愛する人がいなくても。私は、ずっと孤独なのだ。その心が私の小説の根っこのところに流れているように思う。
近頃、きらきらしたものばかりでは苦しいと思うようになった。もしかしたらずっと以前から思っていたのかもしれない。イルミネーションも、日光も、夢も。きらきらしていて、手に取ってみたくなって、傍に置いておきたい光。ぴかぴかで、あたたかい光。家に灯る光も、そのひとつだ。どの光も私は求め、追い掛け、傍に置いておきたい、あるいは、自分がそこにいたいと思っている。しかし、時にその思いは苦しい。遮光カーテンを閉めて電気も消し、真っ暗な部屋でタオルケットにくるまっていたい。夢も見ず、眠りたい。そう思うのも私自身だ。
人は相反するものなのかもしれない。光と闇。その間に立つものが心なのかもしれない。どちらでもなく、どちらにもなれて、どちらにも行き来が出来るもの。
悲しみを知る者、涙を知る者が人に優しく出来ると聞いたことがある。一理ある。けれど私は、もうこれ以上の悲しみも涙もいらないと思ってしまう。本当だったら、父にクリスマスプレゼントを贈りたかった。私の淹れた紅茶を飲みながらクリスマスケーキを一緒に食べたかった。それはもう、叶わない。位牌の前に供えることしか出来ない。感想も聞けない。世界で私だけが孤独なわけではない。でも、でもと思う。もっと父と話がしたかった。父の好きな洋楽をもっと教えてほしかったし、私は父と暮らしたかったのだ。父がいないことが悲しく、苦しい。父がいない、この現実は不可思議だ。
時々、綺麗なものは人に優しくはない。光も強すぎれば毒になる。太陽も、花も、夢も。こちら側が受け入れられるかどうかにもよると思う。いま、私は大丈夫だよと。暖かい部屋で熱い紅茶を飲みながらパソコンに向かって小説を書いて夢を追い掛けられるよと。理想の自分を追い求めて行けるよと。その気持ちがない、あるいは少ない時、夢を追う自分が迷子になってしまう。もう寝ていよう、ずっとここで。そんな風に思う時間もある。夢を叶える為に歩いて行くのも、時に夢を放り出したいのも、私だ。休みながら過ごし、日常に回帰して行く。その繰り返し。
クリスマス、年末、年始。これらに付随するさびしさは、きっと一過性のものだ。これらが過ぎ、新年が始まれば、私はそれこそいつもの日常に回帰して行く。小説家になる夢を追い、歩き、休みを繰り返す。その幸福と苦しみを享受する。それが私の人生だ。そこに迷いはない。
だが、時に人はさびしい。光も夢も、目にすることすらつらい時もある。でも、それでもと追い求めて行く人が、いつか夢を叶えるのだろう。私も、そうでありたい。多くの本を読み、多くの物語を綴りたい。いまも、これからも。
私の時間の全てが夢に向かって集束するものでありますように。




