トンネルの向こう側
東京都大田区に住む田中悟は、50歳目前の営業職の会社員だ。仕事柄、車での移動が多く、運転は嫌いではない。だが一つ自分でも認める欠点があった。方向音痴なのだ。初めて行く町で駐車場に車を停め、グーグルマップで自分の場所を確認した後でさえ、こっちだと思って歩き出すと、たいがい反対方向へ歩いている。そんな彼がカーナビ無しに運転することなど、考えられなかった。
田中は、首都高速道路の長いトンネルが嫌いだ。なぜなら、トンネル内ではGPS信号を受信できないからだ。それほど長くないトンネルならば、カーナビの加速度センサーで計算された自分の位置が切れ目なく表示されるが、長いトンネルでは、誤差がだんだん大きくなってしまう。田中は、カーナビのBluetoothトンネル・ビーコン・オプションがあることを知り、ONにして試してみることにした。
やっと厳しい夏の暑さが過ぎたある日、田中は商用でどうしても埼玉へ向かわねばならなかった。出発前にグーグルマップに出発点と到着点を入力してルートを確認した。彼は、これまでの経験からアルゴリズムが表示する最短ルートは、あくまで参考用の情報として利用することにしている。それは、以前「ばかナビ」に従ったおかげで、森の中の傾斜した小径のようなおかしなルートへ導かれた経験が何度かあったからだ。そうして今回決めたのが、全長18.2kmの山手トンネルを含む首都高・中央環状線(C2)を通るルートだった。都心の混雑した道を抜けて行くよりベターだと考えた。
朝6時に自宅を出た田中は、ETCレーンを使って羽田入口から首都高に入り都心環状方面へ向かった。大井PAを過ぎた地点で首都高湾岸線から中央環状線方面に入り、カーブする道沿いに進むと山手トンネル入口がある。入口手前にはトンネル用信号があり、「急勾配注意」の表示が掲げられている。ここまでは、カーナビが正確に指示を出していたので、問題なく運転できた。トンネル内を進むとカーナビ画面の左上に表示されていたGPS受信マークは、GPSロストを示すグレーに変わったが、画面上の自車アイコンは動き続けていた。
西池袋の山手トンネル出口までの往路、首都高からの出口だけがあるなら懸念はないのだが、出口以外に分岐点があるのが問題だった。例えば螺旋構造の大橋JCTの脇をC2中央環状線が走っているが、1km・500m・150m手前にある分岐表示の直進矢印には「C2・中央道・東北道」とあり、左向き矢印には「都心環状3・東名」となっている。そして、この「C2」が環状線を意味する右回りの円形矢印の中に表示されているのだ。大橋JCTを過ぎて北上すると、次に西新宿JCTの下を通過することになる。ここの分岐点手前の表示には、直進が「C2・東北道」、右方向が「中央道」となっている。これらの分岐点は何回か通っていれば、いかに田中でも問題なく通過できる筈だが、元来トンネルを避けていた彼は、中央環状線と中央道の違いやC2が中央環状線の意味であることを、走りながら瞬時に認識できるほど、予習できていなかった。しかし分岐点の手前で、右車線を走るか左車線を走るか決めなければならない。田中にとって、これは地下世界のラビリンスだった。
トンネル内を続けて走行しているうちに、長く伸びる地下空間が田中には近未来的なディストピアのように見えてきた。気付くと実際の道路はカーブしているのに、カーナビ表示は直線道路を表示している。明らかにトンネル・ビーコン・オプションは働いていない。こうなると、田中は、カーナビを諦め、道路標示に従って走るしかなかった。
「ずっとC2を進んで行こう」
そう自分に言い聞かせたが、そのうちに自分の位置が気掛りになってきた。(本当にC2を走っているのだろうか?)不安になった田中は、首都高トンネルから出たいと思い始めた。(地上に出てGPSシグナルを受信すれば、自分の位置を確認しながら走れる)と考え、次の出口を求めて走り続けた。
近未来的な空間を走行し続ける田中は、ある時点で前後に他の車両がいないことに気付いた。
(普段なら、トラックや乗用車が列を成して走っている筈なのに、一体どうしたのだろう?)
気を紛らわせるために、彼はラジオのスイッチを入れてみた。AM/FM電波は、利用できる筈だった。プリセットしてあるチャンネルをAM/FM両モードで、試したがノイズしか聞こえない。サーチ機能を試してもヒットする局はなかった。田中はラジオのスイッチを切った。そして今度はインターネットのラジオ番組受信アプリを起動した。ところが「地域判定中です」の画面で固まって、放送局一覧の画面に切り替わらない。(どうなっているんだ。とにかく次の出口で出よう)と考えて走り続けた。
田中は、運転しながら深呼吸し、運転手側の窓ガラスを少し開けた。鉄錆のような匂いが入ってきたが、窓はそのままにし、空調温度を2度下げた。(まるで異空間だな)と思いながら運転し続けると、前方に車のテールライトが見えてきた。少しほっとして、その車に近づいていった。車間距離が10mくらいになったときに気付いたのだが、その車のメーカーや型や色が自分の車と同じなのだった。視線は直ぐにナンバープレートに向かった。その瞬間田中の全身に鳥肌がたった。ナンバープレートの番号が彼自身の車の番号だったからだ。
その車がハザードランプを点滅させて減速しだしたので、田中は後続車がいないことを確認して、自分もハザードランプを点滅させて減速した。そして2台は、トンネルの中で停車した。事故でも起きない限り、首都高トンネル内では、起こり得ない状況である。
止まるや否や、前の車から運転手が下りてきた。田中そっくりである。田中は窓ガラスを下ろして、その男を待った。車横まで来たそっくりさんは、窓を覗き込むようにして言った。
「お願いがある。家族を助けてほしい」
「どういうことですか?家族って、あなたの家族のことですか?」
「そうです。私の家族のことです。しかしそれはあなたの家族のことでもあるのです」
田中は、相手が言っていることの意味がよく分からなかった。田中のドッペルゲンガーは続けた。
「実は、このトンネルを出る頃に直下型地震が発生します。私は崩れ落ちた橋げたに潰されたので、もうすぐこの世からいなくなります。だから時間を遡って言いに来たのです」
田中は、まだ意味が把握できなかったので、反応できないでいた。男は続けた。
「私は、もう行かなければならい。それでは、頼みましたよ!」
田中のドッペルゲンガーは、強い語調で言うと車へ戻り、ハザードランプの点滅を止め、走り始めた。田中も、後に続いて走り始めた。間もなくトラックが後ろから近づいてきて、車線を変え追い抜いていった。前を走っていた筈の自分と同じ型の乗用車は、いつの間にか見えなくなってしまった。
出口を求めて走り続けると、カーナビにGPS信号が届き始めて機能が復活した。それで分かったのだが、いつの間にか、西池袋の山手トンネル出口に近づいていた。そして、出口の太陽光が見えてきた。そのとき、田中は穴に落ちたような衝撃を受け、頭を車の天井にぶつけてしまい、目を閉じた。咄嗟に妻のヒトミと息子源一の顔が脳裏に浮かんだ。異常な揺れはその後も長く続いた。トンネル内の照明は消えて真っ暗になったが、すぐに非常用照明に切り替わった。反射的にブレーキを踏んで減速した車列は、ゆっくりとトンネル出口に向かって進んでいった。田中は、直ぐに自宅に電話した。脅えた妻の声が聞こえた。
「だじょうぶか?何が起きたんだ?」
「地震よ。家が壊れるかと思った。でも大丈夫、今のところは。源一もここにいるよ」
「そうか、よかった。俺も出張は中止にして帰宅する。何か欲しいものがあったら言ってくれ」
「分かったわ。何か気付いたら電話します。気を付けて帰ってきてね」
「分かった。そうする」
田中は、自宅に向かって運転を続けた----高架下を避けるようにして。
<終わり>




