9,パイシー・アッツ・ミーケロルム
艷やかな黒髪の美女が、木陰で木の幹に身体を預け、すやすやと眠っていた。
静かな木漏れ日を浴びて、深緑のローブを着た魔導士が、穏やかな寝顔で。
辺境の地。森の奥深くにある、ダンジョンに至る洞穴の外に築かれた仮設陣地には今、奇妙な静けさが漂っていた。
先刻まで騎士団と冒険者達の喧噪に満ちていたその場所には、今や人の気配一つない。食器や未装備の武具が散乱し、焼け落ちた何らかの跡が、放射状に残っている。
静寂を破壊するかのように、爆風が巻き起こる。
常人では視認出来ぬ速度で移動しながら、女剣士の巨剣が連続して振るわれ、銀色の閃光が空を裂く。
その剣閃を向けられた骸骨は、足捌きと体捌きで躱し、時に骨だけの手で剣閃を受け流す。
骸骨から、魔力を帯びた右拳が唸りを上げ、大気を巻き込みながら女剣士へと突き出される。
女剣士は振り抜いた巨剣を素早く引き戻し、剣の腹で骸骨の拳の軌道を逸らし、肩越しに受け流す。
刹那、体幹を捻り上げ、強引に返す刀で下から掬い上げ、巨剣を振り抜いた。それを見た骸骨が大きく後退する。
「カカカ! カカカ! カカカカカカ!」(ええわぁ! 堪らん! あんたほんま堪らんわ!)
全身を魔力に包み、破壊と狂気に染まったスケルトンキングが叫ぶ。
黒衣は風に逆巻き、日中にも関わらず深紅の瞳が異様に輝いていた。
共感で生前の姿を見たミルトには、骸骨にパイシーの姿が被って見える。
彼女こそが、暴走状態のパイシー・アッツ・ミーケロルムだった。
「ミルト! このままでは埒が明かん! アレを試してくれ!!」
狂ったように戦うスケルトンキングの猛攻に、トニトルスがミルトに助けを促した。
「ああ! やってみるっ!」
激しい戦闘に圧倒されたミルトは、苦悶の声を上げながらトニトルスの背後から飛び出した。
手には一本の瓶。
ラベルも剥がれたガラス瓶の中には、淡い虹色の液体が波打っていた。
(トニトルスとプルフルは人間に戻ったが、彼女を正気に戻せるという確証は無い)
歯を鳴らしながら高笑う。まさに人外の如き拳を振るう拳法家
──ミルトはもう一度『共感』を発動し、パイシーの心に触れた。
激しい魔力の奔流、記憶の断片。
眠れぬ夜と、焦燥と、人に素直に寄り添えない怒りと哀しみ。
──闘争への欲求、快楽への欲求が燻り続けている
けれど、その底にあるのは、どこか寂しげな──孤独。
温もりを欲する最強の拳法家。彼女の事をミルトは──
「君は⋯⋯いや、君を⋯⋯救いたいっ! 温もりが欲しいなら──人に戻れ!」
ミルトは一気に距離を詰めた。パイシーの右腕が旋回し、手刀がミルトの眼前に迫る。
先読みしていたミルトがギリギリで頭を振り、頬を掠めるに留めた。
その瞬間、パイシーの手刀から生まれた死角を狙い、黒衣の襟元を掴む。
顔の下から瓶を──中身を、彼女の顔にぶちまけた。
「カ!?⋯⋯カカカカカカカカカ!」(なに!? なんやこれベタベタするで!?)
眩い光の奔流が溢れ出し、骸骨の全身を包む。魔力が渦を巻き、暴走した力が押し流されていく。
トニトルス、プルフルの時と同じ様に、ミルトの目の前で身体が再構築されていく。血管、臓腑、筋肉、そして褐色の肌が蘇り、数秒に満たない間に復元され、頬に赤みが指す。
魔力の余波か、黒衣の汚れまで消え去り、極限まで鍛えられた均整の取れた肢体に張り付くように、東方由来のドレスとしての艶を取り戻した。
月灯りのような白銀の髪が柔らかく流れ、瞳から赤い光が消え、純粋な碧の瞳が現れた。
蘇ったパイシーは、呆けた様に、大きな瞳を潤ませて、襟元を掴んだままのミルトを見つめる。
「⋯⋯大丈夫か?」
ミルトが襟元から手を離し、今度は丁寧に差し伸べると、パイシーはフラつくようにして、一歩前に出て──
「⋯⋯あんた、カッコええわぁ♪」
そして次の瞬間、予備動作も無く近付き、ミルトの頭を掻き抱いた。
「めっちゃカッコええわ。ヒーローみたいやったで。んふふっ♡」
豊かで柔らかい胸が、ミルトの顔にぐいっと押し付けられる。
「わぶっ!? ぅ、うわっ、ちょっと……!!」
「ウチの為に! 危険を顧みんと! もう、めちゃめちゃカッコええわ♪ お名前なんちゅうの? ねぇお兄さん、拳闘に興味──」
「オイ⋯⋯茶番は終わったか。続きをやるぞ、構えろ破廉恥女」
トニトルスが、冷えた視線で二人のやり取りを見て言い放つ。巨剣は構えたままだ。
「おお、戦闘狂の剣士! あんたにも会いたかったえ? ウチ始めてサシの勝負で負けたんやから、また戦おな? あ、せやけどその前にキミの──」
ミルトに抱きついたままでトニトルスに挨拶を返す。スケルトンの頃に戦った記憶が残っているらしい。
トニトルスがパイシーに剣先を突き付ける。
「ミルトから離れろ」
その声音は、周囲の空気が冷えるほどに冷淡だった。だがパイシーは全く意に介さない。
「ミルト君いうんか? ウチはパイシー、よろしくしたって♪ あ、よろしく言うてもアレやで? そんな変な意味やあらへんで? まぁでも、ミルト君がもし──」
トニトルスの剣先を下げ、中段の構えに入った。空気が震える程の殺気を放っている。
「おいちょっと待て、離れてくれパイシー! 落ち着けトニトルス!」
ミルトはパイシーの両肩を掴んで引き剥がす。パイシーの潤んだ瞳から、思わず目を逸らし下を向くと、パイシーのドレスの胸元が開いていて⋯⋯
勢いよく胸元から目を逸らし、パイシーの背後に視線が泳ぎ──その視線の先、戦闘が行われた場所から更に、その後方──
木陰にはローブ姿の女性が足を揃えて座り、木を背にして目を擦っていた。
暴風の魔女、プルフル・エ・アロ・フラギリス。
「⋯⋯うるさい。静かにし──」
うるさいどころでは無い騒音の中でも、興味が無い事には関心を向けないのか欠伸を噛み殺し、まどろみの中でそう呟いた。
だがその瞳が、こちらに焦点を合わせ──途端に大きく見開かれる。大きな目でミルトの方を見ながら、ゆらりと煙が立ち昇る様に立ち上がる。
「⋯⋯その人⋯⋯誰? どうしてミルトにくっついてるの?」
起きた動作のまま首を傾げ、瞬きもせずプルフルが問い掛けた。それにトニトルスが同意する。
「私も知りたい。骨を砕いてやったのに復活した元スケルトンキング、それくらいしか知らんからな。紹介してくれるんだろう? ミルト」
言葉遣いは普通だが、トニトルスもまだ警戒を解く気は無い様子だ。振り返って見ると、剣を下ろしていない。そして──冷たい殺気を放ち続けていた。
だがそれ以上の分厚い、質量を持つかのような濃密な殺気が、遥か前方から放たれる。
「ねえ早く紹介してミルトそのふしだらな布切れを纏った白髪女は、どこの、誰なの?」
「落ち着けプルフル。トニトルスも剣を引け。彼女はもう敵じゃない。お前たちと同じ様にアンデッドから人間に戻った、古代の拳法家だ。名前はパイシー・アッツ・ミーケロルム」
二人から放たれる殺気の影響か、平時よりも早口でミルトは説明を終えた。
「パイシー言います。これから仲良くしたって下さいね。よろしゅうに」
どうやらパイシーも、落ち着いて場の空気に気付いたようで、ミルトから離れて普通に挨拶を交わす。
殺気を放つ二人は無言で頷きミルトに視線を送る。
ミルトも頷いて返事を返す。
「戦力としては申し分ない。連れて行こうと思う」
戦力は勿論だが『共感』で受けた印象として、パイシーは情に厚い女だったので、信用出来るとミルトは判断している。
暫く無言の時間が過ぎたが、トニトルスは剣を納め、プルフルは殺気を抑えた。
ミルトは我知らず深く息を吐き出した。
(ここ数日で一番の緊張感だったな)
「とにかく、ここから離れるぞ。追っ手が来るかも知れん」
またも『共感』スキルを用いて、一人の女性を救うことが出来た。
変わらず事態は逼迫しているようだが、ミルトの胸に静かな達成感が広がった。