8、白風
かつて、拳に生きた一人の女がいた。
褐色の肌とのコントラストが鮮やかな、白銀の髪が風にそよぎ、大きな碧瞳が、戦場跡を見つめている。
東の果て、山と霧の彼方に点在する名もなき小部族がある。魔物の湧き出す厳しい環境で生きる一族は、強者こそを誉れとし、頭に据えることで統率を図っていた。
パイシー・アッツ・ミーケロルムの、それは祝福か、あるいは呪いか。生まれながらに『異能の肉体』を持って、彼女はこの世に生を受けた。
体内で魔力を力に変換、再生と強化を自動で行う異能は、文明社会において『スキル』と呼ばれるものだったが、宗教の異なる小部族に成人の儀を行う習慣は無く、スキルに目覚める者も殆ど居ない。
──生まれついてのスキル保持者
幼少の折、素手で四足歩行の野獣を叩き伏せ、少女の頃には成人の男たちに膝を付かせ、村の武人たちの誇りを粉々に砕いた。
才に焼かれる者たちは、総じて危機感を抱き、パイシーという異端を畏れ、阻害した。
「このままでは我が家が、一族から⋯⋯!」
家族は形見が狭くなり、パイシーを阻害する。そもそもパイシーは、血を薄めるために他所から買い取った、奴隷に産ませた娘だったため、それほど家族から大切にはされていなかった。
一族由来の褐色の肌をしているが、母譲りの白銀の髪と碧眼は一族の者達の黒髪とは、生まれからして違う事を周囲に知らしめていた。
結果としてパイシーは、十を過ぎた頃に家族に捨てられた。
誰一人として彼女の手を握ってはくれなかった。
自分を産んだ女は既にこの世に居なかった。
追われるようにして山を出た記憶と共に、パイシーは初めての戦いを覚えている。
数十人の野盗に囲まれた時、彼女の拳は独りでに動き、叫ぶよりも先に野盗の顎を砕いていた。野盗達を打ち倒しながら、乱戦の中で効率の良い動き方を身に付ける。
闘争に飢え、そして愛にも飢えていた心が、拳と血の温もりで満たされてゆく──そんな錯覚が、彼女を更なる戦いの場へと駆り立てた。
「愛とは、温もりとは⋯⋯拳の延長なんやな! 強ぉならな、ウチの心は満たされへん!」
──幼くして戦場を巡る旅が始まった
戦場を自らの生きる場としたパイシーは、流れの傭兵として戦場に立ち、終われば戦いの記憶を反芻する為、かつての戦場を見つめるのが好きだった。
だが戦争が終わると戦いの場が無くなってしまう。次に目を付けたのが、戦場で稀に見る、個の強さを持つ者達だった。
剣士、呪術師、竜人、魔導騎士。世界各地の強者に無手で勝負を挑む。そこでもパイシーは、誰より強く速く、誰よりも美しく勝ち続けた。
神速の蹴りが相手の首をへし折る。フラリと立ち寄った闘技場で喝采の渦に身を晒す。より強き者を求め、魔物との戦いに身を置く。冒険者として登録し活動の幅を拡げた。彼女は魔物から魔力の扱いを真似る事で自らの糧とした。
──魔力の扱いを得て彼女は更なる高みへと至る
人も魔物も区別なく、闘争の場で彼女の強靭な四肢が舞う。剣を砕き、牙を爪を砕き、魔術をも砕く。時には人の謀すらも拳で打ち砕いた。
そうして満足のいく戦いを経て、生き抜いた者がいれば、その者の快復を待ち、女であれば再会を約束し、男であればパイシーは必ずこう言った。
「あんた強かったなぁ。せやから⋯⋯な?」
夜には枕元に添い寝を申し出て、翌朝には朗らかに笑う。それが気まぐれに拳法の手解きをした弟子であろうと、敵であろうと区別はしなかった。戦いの高揚と、抱擁とを飢えた心のままに求め続けた。
但し彼女にそう言った知識は無いため、あくまでも添い寝だった。彼女が欲したのは人の温もり。
「心も身体も満たされて、初めて良い拳は生まれますのんや」
冒険者として、街に長期で滞在する事もあった。スラム街に立ち寄ることがあり、家族に捨てられ、身の危険に晒されている孤児に感情移入したのだ。自らの編み出した拳法の手解きもした。
生きる目的が闘争そのものである彼女は、気まぐれに闘技場へ出場し、武器を持つ強者が揃う中、女の身で無手で優勝をもぎ取る。その賞金でスラム街に道場を建てた。
流派の名に自分の名前を入れて『白風拳』の看板を掲げた。
孤児たちには、教えた拳法を広めて自分達で身を守るように言いつけ、弟子として育ったのを見届けた後──姿を消した。
パイシーは更なる強者を求めて旅に出る。
──彼女は古竜の噂を聞きつけてしまう
『グラヴァント』──古竜が棲むダンジョン
温もりは求めても、共生する事を知らないパイシーは、無意識に仲間を拒んでしまう。
たった一人で挑んだその闘いは、昼と夜を跨ぐ程の激戦となった。
竜の巨大な尾が風を裂き、爪が、牙が、パイシーに襲い掛かる。竜の咆哮が大地を割る、吐き出された炎を魔力を帯びた拳で散らす。パイシーは何度も地を転がりながらも、竜の四肢にダメージを与え、遂には竜を地に伏せる事に成功する。
パイシーは全力で飛び上がり、垂直に竜の顎を打ち砕いた。そしてトドメの拳が竜の心臓を止めた時、彼女は満身創痍だったが、まだ生きていた。
──勝利の代償は古竜の血に秘められた呪い
王の間を出る事は叶わず、再生の異能すら追い付かない程に肉体は崩れ、血は泡立ち、呼吸が途切れた。それでも死の間際、彼女の唇はかすかに微笑んでいた。
声にならない声で呟く「これで、終われるんやね」
これまで、誰も彼女に手を差し伸べる者はいなかった。褥を共にした者も、常に彼女に寄り添う事は無い。生まれながらの強者である彼女は、与えるばかり。愛を乞うことに少し、疲れていた。
だがその囁きに、何者かが応えた。
──戦いを望むか
その問いに、今際の際に満足したつもりでいたパイシーだが、出した応えは違っていた。
(そんなん⋯⋯愚問ですわ。⋯⋯まだ、ウチの触れてない、強いお人が⋯きっと⋯たくさん、この世には、いたはるんでしょ?)
微かな意識の奥底で、彼女の魂は、彼女の骨と共に、新たな戦いの場へと誘われていった。
そこには骨を寄せ集めた巨大なスケルトンがいた。彼女は骨だけの身で歓喜に打ち震える。
──そして戦いが始まった
巨大なスケルトンは、古竜ほどでは無かったが、新たな肉体に慣れるにはちょうどいい相手だった。
全身を打ち砕かれた巨大なスケルトンは、骨の欠片になり崩れ落ちた。
ダンジョンに気配が満ちる。それは新たな強き王の誕生からダンジョンが塗り替えられ、更に強化された事を示していた。
静かすぎる王の間。静謐と死の気配だけが満ちる霊廟で──彼女は笑った。
「カカ⋯⋯カカカカカ」
誰の耳にも届かぬ静かな地下墓地のダンジョンで、歯と拳を鳴らす。
『静謐の霊廟』に王が──新たなスケルトンキングが誕生した瞬間だった。
生前のパイシーは所詮、放浪の拳法家。かつての名を覚えている者は少ない。だが、今なお大陸に大きく根を張る白風拳。その流派を辿れば、始祖として語る者は居る。
全ての始まりは、あの白い風──白銀の拳法家パイシー・アーツ・ケロルムだ、と。
そして今日も、ダンジョンの奥で囁く。
──戦いは出会い、そして愛ヨ
その言葉には、孤独と暴力と愛欲が混じり合う、孤独な魂の温度が、確かに灯っているのだった。
願わくば、いつの日か、パイシーに寄り添い手を差し伸べる者が──。
だが、それはきっと拳の先にしか訪れない──彼女はそう信じている。
彼女は静かな玉座で、紅い瞳に願いを込めて光らせ、強者を待ち続ける。
渇望する程に、自分の傍に──
(⋯⋯どちらさん? あんたさっきから、ずっとウチの傍にいはった?)