3,トニトルス・レックス
スキルの影響で混濁する感情と心の痛みに、少年叫んだ。
「ああ、もうやめて⋯⋯っ! やめろぉー!!」
だがスケルトンキングの──彼女の剣は無慈悲に振るわれる。
繋がったままの意識を辿り、彼女の動きを察知してギリギリで状態を反らして躱した。
体制を崩した少年に、彼女は紅い瞳を鈍く光らせ、追撃の一閃を構える。
少年は体制を崩したまま、咄嗟に手の中にある瓶を投げつけた。
──それは奇跡だった
瓶が割れ、スケルトンキングに虹色の液体が降りかかる。
骨と鎧だけの身体に眩い光が溢れる。
血の管が、臓腑が、筋肉が、肌が、数秒に満たない間に復元されて、鎧の中に生気が満ちてゆく。
陽の光を透かしたような、薄い黄金の髪が流れ、禍々しい紅い瞳は瞼に覆われた。
彼女がゆっくりと目を開く。薄紅色の瞳が潤んでいた。
美しく凛と立つ、雷姫と呼ばれた、かつての姿で──
彼女は蘇った。
◇
暗く──死の気配に満ちたダンジョンの最奥。
王の間に拡がった幻想的な虹色の光が、ゆっくりと穏やかに収束してゆく。
光が収まり、静寂が支配する王の間には、二人の“人間”が居た。
少年と、暗いダンジョンで蘇った、かつての英雄。
だが彼女の瞳は焦点を結ばず、ただ揺れていた。
「⋯⋯どこ⋯⋯ここは⋯⋯?」
震える声。
彼女は自らの手を見下ろし、血の気の戻った肌を、信じられないものを見るように眺めた。
「私は⋯⋯死んだはず。あの時あれほどの傷を⋯⋯いや、この部屋に居た⋯⋯骨の」
両の手から視線を外す。彼女は膝を付いて、床に手を付けた。
その指が触れたのは、まだ乾ききっていない虹色の雫。
薄紅色の瞳が、少年に向けられた。呆然としたまま、彼女は問いかける。
「⋯⋯いた⋯⋯あなたがいた⋯⋯わたしの側に⋯⋯」
その言葉に少年は、ただ頷くことしか出来なかった。
少年も呆然と言葉を失い、彼女を見つめる。
そして、彼女はぽつりと名を告げた。
「⋯⋯トニトルス。それが⋯⋯わたしの名」
それは、自分の存在を確かめるような、呟くような微かな声。
そして、王の間に満ちていた、強大な殺意の如き呪いの重圧が、音もなく──消えた。
少年の『共感』というススキルが、呪われた死者の王の心を救ったのだ。
「トニトルス・レックス。それが、私の名だ」
もう一度、確かめるように名乗ったその女剣士は、まだ現実に心が追いついていないようだった。
少年は疲労困憊だったが、自分でも驚くほど穏やかな声で、トニトルスに話し掛けていた。
「僕は──」
ここにきて、ようやく少年は自分の名前を思い出す。
「僕の名前はミルト。ミルト・フェルム。初めまして、トニトルス⋯⋯殿」
少年は名乗り、彼女に優しく微笑みかける。
「⋯⋯敬称など、必要無い。ミルト、と、私もそう呼ばせて欲しい。ミルト──良い響きだ」
トニトルスはミルトの名を、慈しむように呼び、柔らかく微笑んだ。
「私を、私の心を救ってくれたのは、ミルトのスキルか? 心に寄り添ってくれたのだな。繰り返し見続ける悪夢を共に見てくれていた。とても安心したんだ⋯⋯」
その言葉を聞いて、ミルトは少し目を伏せた。
「僕の⋯⋯僕のスキルは『共感』だから⋯⋯」
呟くような声に、トニトルスは瞬きをした。
「共感⋯⋯そうか。それは"良いスキル"だな」
良いスキル。その言葉を聞いたミルトは思わず顔を上げた。
「し、知ってるの?」
「いいや、すまないが初めて聞いた。だが⋯⋯そうか、ミルト⋯⋯」
言いかけて、彼女は小さく首を横に振った。
「いや今は、それよりも⋯⋯」
話を止めて、トニトルスは広間を見渡した。当然だが食料も水も、まともな明かりすらない。
そして、会話が途切れれば聞こえてくる。乾いた硬質な複数の。
扉の無い王の間の外に足音が、この場に危機が迫っている。
「⋯⋯そうだね、まずはここを離れないと。脱出⋯⋯出来るのかは、分からないけど⋯⋯」
ミルトが呟くと、トニトルスは口角を上げて、不敵に笑った。
「そこは問題無い。どんな迷宮にも出入口はある──難易度は高いだろうが、な」
ダンジョン最奥からの脱出、それはトニトルスの言った通り、決して楽なものではなかった。ミルトは縦穴から最下層へと落ちてきた。つまり上階へと至る階段すら、手探りで進まねばならないのだ。王の間を出ると、骸骨達が襲来した。王の間に満ちていた呪いのような殺気が消えた事に、アンデッド達も気付いたのかも知れない。
襲い来るのはスケルトンウォーリア。かつて戦いに身を置いた傭兵、または兵士、騎士、冒険者等がアンデッドと化した、武器や防具を備えた人型の魔物達。
トニトルスの巨剣が閃き、二体、三体と斬り伏せ、骨を切り裂き、時には砕いていく。その勇姿は、ミルトが『共感』で垣間見た姿そのまま、いや更に強くなっているように思えた。
「!?⋯⋯あれは⋯⋯」
彼女の足が止まった。その視線の先にいたのは、他の骸骨とは異なる、少々古めかしいが荘厳な造形に、しかし禍々しく黒ずんだ鎧を纏ったスケルトンナイトが三体。
「⋯⋯ランフォード、マティアス⋯⋯⋯⋯エルネス」
トニトルスは、静かに名を呼んだ。
「かつて、私をここへ追い詰めた者達だ⋯⋯」
彼らもまたアンデッドとなり果て、ダンジョンの番人として彷徨っていたらしい。だが、彼女の剣に迷いなどなかった。
「せめて、今度は静かに眠れ」
トニトルスは躊躇すること無く距離を詰め、巨剣を一閃。先の無い槍を握り締めた一体の骸骨が、背骨を砕かれて崩れ落ちる。二体目のスケルトンが片手剣で素早く斬り掛かるも、トニトルスはミスリルの巨剣の腹を使って滑らかに、相手の剣を撫でるようにして力の方向を変える。敵の剣を流した勢いのまま、向かいに居た三体目のスケルトンを斬り伏せる。
そのまま素早く身体を回転させ、空振りして地面に刺さった片手剣を抜こうとしていた二体目のスケルトンに一閃。そのままただの骨に変えた。
骸骨達は、何かを訴える間もなく崩れ落ちる。ミルトは、その背を見つめながら呟く。
「⋯⋯凄い」
「私の生きた時代は、戦が多かったからな。安心しろ、ミルトも今からこの域まで引き上げる」
そう言って、彼女はミルトの方へ向き直った。ミルトはトニトルスの生前の戦う姿を垣間見たが、明らかに今のトニトルスの方が強い気がする。
(もしかしてスケルトンキングだった頃の経験も蓄積されてるのかな?)
「ミルト、彼らの武器で扱える物はあるか? 動きを見る限り素人ではないのだろう?」
「あ、ああ、うん剣は使えるよ。⋯⋯人並みにね」
ミルトは剣術の腕を磨き続けていたが、トニトルスの剣技を見た後ではとても得意気に話す気にはならなかった。言われるままに、地面に突き刺さっている、ミスリル合金製と思われる片手剣を地面から引っこ抜いて、トニトルスへ向き直る。
トニトルスはじっと、ミルトを見つめる。
「先ほど言い掛けていたスキルについてだが、ミルトの『共感』はただの感受ではない。いや、それだけでも充分に素晴らしい能力なのだが⋯⋯私の知る限り、他者に影響を及ぼすスキルはどれも強力だ。扱い方次第で、立派な武器にもなる」
トニトルスは立ち止まって振り返り、ミルトの目を見詰めた。
「私の記憶を、ミルトが一緒に見てくれただろう?」
「うん──あっ、派生スキル」
「そうだ、スキルは鍛え方次第で強くなる。想像力で伸ばすのだ」
(トニトルスの悔しい気持ちに寄り添い過ぎて、強くなった過程に着目していなかったな)
「例えば⋯⋯そうだな『簡易治療』はどうだ? 痛みを感じ取ることで、自分の意識を通じて魔力を馴染ませ回復を補助する。私の部下に似たような事をする隊員が居た。ミルトも魔力はあるのだろう?」
「魔力なら、沢山あるよ⋯⋯無駄にね。このスキルが目覚めるまではね、そういうのもあって周りに色々と期待されてたから」
魔力量の多いミルトは、辺境伯家で期待されていた。剣術も年齢にしては一定以上の強さを持っていたし、もしも魔法系のスキルに目覚めても、嫡男として問題も無いとすら言われていた。その全てが『共感』という使い道の無いスキルの発現によって崩れ去り、今こうして薄暗いダンジョンで彷徨っているのだが。
だが、トニトルスの言葉を聞いたミルトの中で、何かが光った。
「ならば問題は無い、やってみよう。それから⋯⋯私と同じく『先読み』だな。相手の衝動や殺意を、ほんの少しだけ先に感じ取る。スケルトンだった私の初手を避けただろう? あの感覚だ。相手の感情を把握して一手先を読む。それは戦いにおいて最高のアドバンテージだ。音だけの私よりも精度が高そうじゃないか?」
トニトルスの力強い言葉と視線は、不思議とミルトの凝り固まった心に、すっと入ってきた。
◇
そこからは戦いの連続だった。どれほど時間が経ったか分からないが、ミルトにとっては酷く長い時間だった。その中でミルトは、派生スキルを瞬く間に発現していった。
閉鎖空間の迷宮。殺意に満ちた死者、そして空腹と──傍らに常にある“死の気配”が極限状態を作り出していた。トニトルスにサポートされながらも、戦闘が繰り返してミルトは力を伸ばしてゆく。
トニトルスは戦い、ミルトはそれを見て学ぶ。ミルトが戦い、トニトルスが指導する。彼女は実戦で教える。戦場での呼吸、距離の取り方、気配の捉え方。戦国の世を生きた者ならではの、研ぎ澄まされた戦闘理論を、ミルトに叩き込んだ。
気付けばトニトルスを剣の師と仰ぎ、ミルトを弟子として指導する2人の関係性が出来上がっていた。
稽古や試合のように勝ちも負けも無い。開始の合図も制止の声も掛からない。死ぬか生きるか、いや生きる為には、敵を倒し続けるという選択肢しか存在しない。ダンジョン内では一撃でも貰えば死に直結する──失敗が許されない緊張感──その状況が、ミルトの魂に火を灯した。
トニトルスの指示に合わせて敵の剣を受け流し、即座に反撃に転じる。以前とは別人のような動きだった。自分の培ってきた全てを使う戦いの中で、自らの感覚が拡がるのを確かに感じた。
「積み重ねてきたものもあるだろうが、派生スキルを"知る"だけで、ここまで発現させるとは。ミルトは天才の部類に入るぞ。私の生きた戦国の世でも、君ほどの成長を見せた人間は、殆どいないぞ」
ミルト・フェルムは辺境伯家の長男として十八年間、次期当主となるべく、学問も剣の稽古も、人一倍の努力を積み重ねてきた。スキルのせいで微妙な立ち位置になったが、ダンジョンにおける極限状態での戦闘とトニトルスの的確な指導から、その才能を大きく開花させたのだ。
無数の危機を『共感』で察知し、避け、隙を付いて斬り伏せた。
だが稀に、アンデッドの生前の記憶と感情を受け取る事があり、心が軋むのを感じていた。
死者の記憶――不思議な事に、このダンジョンで死んだ者以外の記憶も混ざっている。
ミルトの拙い人生経験では、彼等の経験を噛み砕いて理解する事は難しい。
だが感情だけは、狂いそうな程に素直に受け取ってしまう。
怨念の強いアンデッドとの戦闘が終わる度、頭を抱えてのたうち回り、正気を失う事もあった。
トニトルスが寄り添ってくれるが、ミルトは気を失ってしまう。それの繰り返しだった。
「心配するなミルト。私が傍にいるから、安心して目を閉じろ」
真っ暗闇の中で、トニトルスの声だけが正気を繋ぐ、たった一つの安らぎだった。
他人が死ぬまでの絶望に共感し続ける地獄。妬み、嫉み、悔恨、怨嗟、それらがミルトの心を塗り替えるように寄り添ってくる。無数に蠢く死者の記憶が混濁する。
だが死者の記憶や怨念も、戦闘を繰り返す度に『共感』する事には慣れ始めるものだ。
やがてそれらはミルトの糧となり始めた。
どれ程に辛くとも、ミルトは死なない為に『共感』を使う。そして彼ら、彼女らの苦しみと共に他者の人生を知り、蓄積する。次第に感情だけではなく、彼らの培った知識や経験も、そして技をも理解し始めた。彼我の線引きが曖昧になる程に他人の人生を感じ続け──ミルトは塗り替えられ、強化されてゆく。
そして、既に剣の師とも呼べるトニトルスと、たった数日で肩を並べ始めた。