第5話『紅の記憶と王の涙』
紅の間は、静寂に包まれていた。
契約の紋章が砕け、ユナの姿が霧のように消えてから、すでに幾夜が過ぎていた。
ヴァルドは王座に座ることをやめ、城の最上階にある塔に身を置いていた。
そこからは、紅い月がよく見える。
かつて彼女が「不気味だけど綺麗」と言った月――今では、ただ冷たいだけの光に思える。
「ユナ……」
彼は、彼女の名前を口にするたび、胸が軋むように痛んだ。
それは、かつて失ったはずの“感情”が、再び芽吹いている証だった。
王族は感情を持たない。
それが、この世界の掟だった。
だが、ユナはその掟を破り、彼に“愛”を返した。
その代償として、彼女は存在を失った。
「なぜ……お前は、そこまでして……」
ヴァルドは、紅の間に残されたユナの記録を見つめた。
《ユナ・ミカサ 進行度:契約破棄》
その文字は、他の契約者とは違い、金色に輝いていた。
彼女は、完全に消えたわけではなかった。
彼の中に、“記憶”として残っていた。
それは、顔のない契約者たちとは違う――確かな存在の証。
ある夜、塔の窓辺に立っていたヴァルドは、ふと風の中に声を聞いた。
「……ヴァルド……」
それは、確かにユナの声だった。
彼女の姿はない。だが、声だけが、風に乗って届いた。
「私はここにいるよ。あなたの中に。
だから、もう一度――愛してもいいんだよ」
その瞬間、ヴァルドの瞳に、初めて“涙”が浮かんだ。
それは、紅い月の光に照らされて、静かに頬を伝った。
「……ありがとう、ユナ。
お前がくれた“愛”は、永遠に消えない」
彼は塔を降り、紅の間の扉を閉じた。
そして、契約の制度を廃止することを決めた。
感情を代償にする世界は、もう終わりにしよう――そう、彼は誓った。
紅の契約は終わった。
だが、紅の記憶は、王の心に永遠に刻まれた。
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―完―




