第2話『感情が消えていくなんて聞いてません!』
ユナは、紅い紋章が刻まれた胸元をそっと撫でた。
契約を結んでから、まだ一晩しか経っていない。なのに、何かが――確実に変わっていた。
「……寒いのに、怖くない」
目の前には、異形の影が蠢く森。
木々の間から、牙を剥いた獣のような何かがこちらを見ている。
それなのに、心は静かだった。鼓動は落ち着き、恐怖が湧いてこない。
「これが……感情の代償?」
ヴァルドの城は、黒曜石のような素材でできていた。
壁には無数の肖像画が飾られているが、どれも顔が塗り潰されていた。
ユナはその異様な空間に身を置きながら、王の姿を探していた。
「王は、地下の“紅の間”にいる。契約者は、定期的に感情の検査を受けるのだ」
案内役のメイドは、顔に仮面をつけていた。
その仮面の下から、時折黒い液体が滴っていたが、ユナはそれを“気持ち悪い”と感じなかった。
――恐怖が、もうないから。
地下へ続く階段は、まるで墓場のようだった。
壁には契約者の名前が刻まれており、その多くが“抹消”と赤く塗り潰されていた。
「……何人、消えたの?」
「数え切れません。感情を失いすぎると、存在が薄れていくのです。
最後には、自分が誰だったかも思い出せなくなる」
ユナは足を止めた。
その言葉が、どこか他人事に思えたのは――すでに“恐怖”が消えていたからだ。
紅の間に入ると、ヴァルドが待っていた。
彼はユナを見つめ、静かに言った。
「契約は進行している。お前は“恐怖”を失った。次は“怒り”だ」
「怒り……?」
「怒りがなければ、反抗もできない。支配は容易になる。
だが、感情を失うほどに、お前はこの世界に溶けていく」
ユナは彼の言葉に、何かを感じようとした。
怒り、反発、疑問――けれど、何も湧いてこなかった。
「……私、怒ってない。怖くもない。なのに、泣きたい気がする」
その瞬間、紅の間の壁がざわめいた。
肖像画の中から、顔のない契約者たちが這い出してくる。
彼らはユナに手を伸ばし、何かを囁いていた。
「返して……感情を……名前を……存在を……」
ユナはその声に、初めて震えた。
それは、恐怖ではなく――“哀れみ”だった。
「ヴァルド……私、まだ戻れる?」
彼は静かに首を振った。
「契約は進行している。だが、まだ“愛”は残っている。
それが、お前をこの世界に繋ぎ止めている」
ユナは紅の間を見渡した。
壁に刻まれた名前の中に、ひとつだけ――自分の名前が浮かび上がっていた。
《ユナ・ミカサ 進行度:20%》
その文字が、まるで血で書かれたように滲んでいた。




