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傘の値段  作者: 未世遙輝
エピソード2
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21/25

第二十一章 マイナスからのスタート


 五月二十五日。初任給の支給日。

 駅前のATMコーナーには、まだ誰もいなかった。

 朝七時。出勤前のわずかな時間、翔太は機械の前に立ち、キャッシュカードを挿入した。

 機械的な駆動音の後、明細票が吐き出される。

 『振込 給与 224,350』

 額面は二十四万だったはずだ。税金と保険料で引かれることは知っていたが、数字として突きつけられると、その軽さに目眩がした。

 翔太は、その場でスマートフォンの電卓アプリを起動した。

 家賃:72,000円(通勤圏内の築古アパート)

 光熱費・通信費:15,000円

 食費・雑費:40,000円

 真理への仕送り:30,000円

 ここまでの合計、157,000円。

 残りは、約67,000円。

 だが、来月からここに「奨学金返済」が加わる。月額28,000円。二十年ローン。

 さらに、営業に必要なスーツのクリーニング代、客先への移動で立て替える交通費(精算は翌月)、付き合いの飲み会代。

 計算結果は、ほぼゼロだった。

 「……嘘だろ」

 翔太は明細票を握りしめた。

 毎日十四時間拘束され、怒鳴られ、電話をかけ続けて、手元に残るのは「生存するための最低限のコスト」だけ。

 豊かさへの切符だと思っていた給与明細は、ただの「労働力を再生産するための請求書」だった。

 働けば働くほど、時間が奪われ、金は右から左へと消えていく。

 マイナスからのスタートではない。

 これは、終わりのないゼロ行進だ。

***

 午前九時。フロンティア・エステートの営業フロア。

 「おい西村! 手が止まってるぞ! コール数は気合いだ!」

 課長の怒号が飛ぶ。

 翔太は受話器を耳に押し当てた。耳の軟骨が痛み、熱を持っている。

 手元のリストには、名簿業者から買った高齢者や、地方公務員の名前が並んでいる。

 『お忙しいところ恐れ入ります。私、資産運用の件で……』

 「結構です」

 ガチャン。ツーツー。

 即座に次の番号を押す。思考を挟んではいけない。断られることに傷ついていては、このフロアでは呼吸ができない。

 百件目。

 繋がったのは、地方に住む六十代の女性だった。

 『……資産運用? よくわからないけど、年金も減るっていうしねぇ……』

 不安げな声。カモだ。

 翔太の脳内で、マニュアルのページが自動的にめくられた。

 「そうなんですよ、お母さん。今は銀行に預けても増えない時代ですから。マンション経営なら、家賃収入が年金の代わりになります。私たちが全部サポートしますから、安心してください」

 嘘ではない。だが、真実の半分しか伝えていない。

 空室リスク、修繕積立金の値上がり、固定資産税、そして三十五年ローンの重圧。

 それらを小さな文字の「重要事項説明書」に閉じ込め、メリットだけを甘い声で囁く。

 『でも、主人に相談しないと……』

 「お母さん、ご主人が亡くなった後のための保険でもあるんですよ。今決断しないと、いい物件はすぐになくなっちゃいます」

 「今」と「不安」を強調するクロージング・トーク。

 翔太の口は滑らかに動いた。

 だが、心臓の奥で、誰かが悲鳴を上げていた。

 (やめろ。その人は、母さんと同じだ。老後のわずかな蓄えを、お前が奪うのか?)

 翔太は、デスクの下で自分の太腿を爪で強く抓(つね)った。痛みが罪悪感を一瞬だけ麻痺させる。

 自分がここで数字を作らなければ、自分が死ぬ。

 自分が生き残るためには、誰かを踏み台にするしかない。

 それが、この社会の「構造」だ。

 かつてノートに書いた「搾取の構造」の図式。今、自分はその図式の、矢印の根元に立っている。

 「……わかりました。資料だけでも」

 女性が折れた。

 「ありがとうございます! すぐにお送りしますね!」

 電話を切った瞬間、翔太は大きく息を吐いた。

 「よし、アポ一件!」

 課長が背中を叩いた。

 「やればできるじゃねえか。その調子で詰めろよ」

 翔太は笑顔を作った。

 能面のような、完璧な営業スマイル。

 だが、受話器を置いた手は、微かに震えていた。

***

 深夜一時。帰宅。

 アパートのドアを開けると、淀んだ空気が迎えた。

 六畳一間の部屋には、コンビニ弁当の空き容器が積み上がっていた。

 ゴミを出す暇がない。分別する気力がない。

 プラスチックの山。

 油とソースの混じった匂い。

 翔太はスーツのまま、万年床の布団に倒れ込んだ。

 天井のシミを見つめる。

 これが、憧れていた「東京での自立した生活」なのか。

 隣の部屋から、テレビの音が漏れてくる。壁が薄い。

 スマホを見る。

 理玖のインスタグラムには、ロンドンのカフェで撮られた写真が上がっていた。

 『週末はパリへ。ユーロスターで移動中』

 キラキラした日常。

 翔太は画面を消し、暗闇の中に沈んだ。

 瞼を閉じると、昼間電話した女性の声がリフレインする。

 『年金も減るっていうしねぇ……』

 その不安を食い物にして、自分は今日の糧を得た。

 俺は、何になったんだ?

 問い続ける人間になりたかった。弱者に寄り添う人間になりたかった。

 だが、気づけば俺は、弱者から血を吸う蚊になっていた。

 

 腹が減った。

 だが、起き上がって何かを食べる気力もない。

 翔太は、枕元にあったペットボトルのぬるい水を一口飲んだ。

 水は喉を通り過ぎ、空っぽの胃袋に落ちていった。

 その冷たさだけが、自分がまだ生きていることの証明だった。

 部屋の隅に積み上がったプラスチック容器が、街の灯りを受けて、不気味に光っていた。

 それはまるで、翔太が消費し、排泄してきた「倫理」の残骸のようだった。

【第二十一章 完】


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