あさがお
睡眠というのは、三代欲求の一つであり、それは人間誰しもが心地の良い行為であり、もちろんそれは私も同じで、今日もその感情に浸りながら眠っていたが、聴き慣れたアイフォンのアラーム音で瞼を開けた。
カーテンを占めているにも関わらず、その隙間から主張する太陽の光は溢れ出ていて、快眠を邪魔された私は腹がたった。その腹いせに、もう一度寝る事にした。きっとカーテンを開けば、部屋には光が差し込み、身も心も起きるはずだった。
その五分後、スヌーズ機能になっていたアイフォンから、先程と同様に聴き慣れた嫌いな音が私を襲った。流石に三度寝はまずいと思い、起床した。
カーテンを開けると、太陽の光を浴びて目を細めた。いつもより眩しく感じた。
視界が慣れてくると、しばらく東京の朝の様子を眺めた。人が多く、皆何かに追われてるように感じた。
私は、先週上京してきた。宮崎県という田舎の街で生まれ育った私は、ずっと都会に住むことに憧れていた。いわゆるシティボーイというものに。苦しむことになるだろうと想像していた田舎の訛りは、東京に近づくにつれて忘れていった。東京に足を踏み入れたときには、あたかもここで育ったかのように、標準語を使いこなしていた。それは特に練習したから出来た、というわけではなく、身に備わっていたかのようにあまりにもスムーズだった。憧れが故にだと思っている。
出勤までに色々支度をせねばいけないので、まずは台所に向かった。
台所には、昨晩洗った食器類が水切りラックに溜まっていた。重い瞼を目一杯開け、それらを元あった食器棚にしまった。
急に、左手の掌外苑の辺りが痛んだ。見ると、そこには切り傷が出来ており、血が流れていた。
包丁の刃が上に向いており、気付かぬうちに、身を傷つけていた。幸いにも、傷は一つだけであった。この痛みで、どうやら私の体は目を覚ました。
急いで絆創膏を貼り、作業に戻った。意外にも時間はなかった。出勤前の朝は大抵こうなるのが常である。
次に向かったのは洗濯機。昨夜予約していたおかげで、洗濯が終わってすぐのようだった。なるほど、この洗濯機という家電は、三種の神器と言われるだけある。考えた人は本当に天才だとつくづく思う。
洗濯という行為は、一昔前までは手で洗っていたと聞く。それこそ、桃太郎の世界を想像する。毎朝こうやって、自動的に洗濯ができるこの便利な世界とは違って、当時は一枚々々、手で洗っていたのだ。とても考えられない。改めて、私は恵まれた世界と時代に生まれてきた。幸せなのだ。そう思うと、充分な睡眠を取れなかった事も、切り傷の事も、なんでもないことのように感じた。
洗濯物を取り出し、ベランダへ出た。やはり、今日の東京はどこか眩しい。そして、人が多く感じる。まだ、東京という都市に体が慣れてないからであろう。
そう考えてる間に、気づけば洗濯物は全て干し終わっていた。
部屋に戻り、今度は朝食を取ることにした。予め冷凍しておいた白ごはんを解凍し、味噌汁に入れた。所謂、ねこまんまである。確かこれは、地域によって呼び方が違うとかなんとか。そんなことないかもしれない。
朝食はこうやって、簡単に済ます事が多い。時には時間に追われて食べれない事も多々ある。しかし、それでも苦ではない。部活を行っていた高校時代は、毎日時間に追われ、朝食を食べれたことは一度たりとも無かった。それを思うと、このはじまったばかりの一人暮らしの朝というのは、時間に余裕があり、順調だった。
ねこまんまは味わう事はできなかったが、そこそこ美味しかった。
朝食を終えると、手際良く皿を洗った。見切りラックに茶碗を乗せる際、先程の包丁の記憶が痛みと共に蘇った。傷をまじまじと見たわけではないが、流れた血の量から、傷は確かに深いはずだった。その傷に、充分な対処も出来ず支度の時間に追われた。
痛みを感じながら歯磨き粉を手に取り、痛みを感じながらチューブに力を加えて、歯ブラシに乗せた。
歯磨きの最中もやはり傷は痛んだ。洗い物をした際に、水に浸かったせいで傷の痛みは増していた。それでも、この恵まれた幸せを感じれた私にとっては、こんな痛みなど余裕で我慢できた。一昔前の人間だったらこんな傷はかわいいもので、絆創膏なんてまさに甘えなはずだった。
歯磨きを終え、いよいよ支度も終盤。身支度を始めた。昨日予習してそのままだった筆箱やノート、それに作り置きしておいた弁当と水筒を鞄に入れた。弁当箱は、祖母から代々使われているもので、上京する際に母に渡されたものだ。おそらく、使い始めて七十年ほどだろうか、木製の弁当箱だが、まだまだ使える美しさで、全く年季が入っていなかった。そしてこの弁当箱は、私も後の遺伝子に継がねばならなかった。
必要な物を鞄に詰め込んで、クローゼットを開けた。
クローゼットから、真新しいスーツを取り出し、袖に腕を通す。
このスーツは就職を機に買ったものである。これまで私は、就職活動を青色のいかにも大学の入学式前で購入するようなスーツで行った。それでも、第一希望の会社から内定を貰えた。こんな田舎者を採用する東京の会社などあるはずがないと思っていた私は、素直に嬉しかった。
そして、上京してすぐ近くの洋服の青山に足を運び、スーツを購入した。手元に届いたのは出社する前日だった。
そんなシワ一つない、真っ黒で美しいスーツに身を通し、鏡の前に立った。
まだ慣れない手際でネクタイを結ぶ。だが、大剣よりも小剣の方が長くなり、結び直した。この作業を私は一度でできた試しがない。いかにも、新卒一年目と言ったところだ。
苦労して結び終えると、鏡でシルエットのチェックを行った。下から上に目線を上げていく。シワのないスーツにまだ体が馴染んでいないのか、スーツが似合っていなかった。そもそも私が似合わないのかも知れない。
そこで気づいてしまった。寝癖が取れていないということに。
これからシャワーを浴びると、またもう一度ボタン一つ一つを外した後に、髪を濡らし、ドライヤーで乾かし、もう一度スーツを着るという作業には流石にめんどくささを感じた。それに、そもそもそんな時間なんてあるはずがなかった。今から家を出れば出勤の定時に丁度着く辺りの時間だったのだ。
仕方なしにヘアオイルを付けて、目一杯力を込めてその寝癖を治そうと試みたが、それは一向に重力に反した。
やるだけのことはやった。もう時間がないので、この状態のまま玄関を開けた。いつも行う電気やガスの元栓の確認はできなかった。
私の住むマンションからは、東京タワーが見える。
今日も凛々しく、赤く、そこに立っていた。
私は、近代的でもっと背の高いはずの東京スカイツリーよりも、この若干の古き良き、赤い色の東京タワーが好きだ。
そして、今日の東京タワーはどこか元気よく立っている気がした。そんな姿に、自分も元気を貰った。
エレベーターに乗っている間、どこか落ち着かなかった。忘れ物はしていないか、脳内で何分か前の行動を巻き戻した。
鍵を閉めていない気がした。しかし、この不安には何度も出会った事がある。そして、確認しに行くと大抵、鍵はしまっている。これを強迫性障害と呼ぶらしい。
エレベーターをもう一度上がる余裕はなかったので、過去の自分を信じる事にした。
外はまさに四月の気温。暖かく、気が滅入る程にスギ花粉が飛び散っていた。ついでに、見頃を終えた桜の花びらもよく散っていた。
気象予報を見忘れた私は、ヒートテックを着ていた。日中は二十度を超えるかもしれないという、スマホアプリの情報に気を落とした。そして、もうこの時点で、汗をかいた。時間への焦りの影響かもしれない。
この街に住む人々は皆、中堅のサラリーマンが多い印象だった。タワーマンションは所々に林立しているものの、そういった富豪達は歩く手間をタクシーという公共交通機関で買うはずだった。時間と労力を金で解決するのだ。それには、流石の私も憧れる。特にこういった、暑い日は。
駅までの道は、なるべく人を見るように心掛けている。東京の人は、人に興味が無い。大抵の人が、スマホを見るか、真っ直ぐどこか希望でも無くしたかのような目で歩いている。そういった人になりたくないが故に、人間観察をするようにしていた。そして、それは意外にも楽しいことに気がついた。宮崎県という田舎に留まっていたなら、これには気付けなかったであろう。それから、今日の人間はどこかオシャレをしている気がした。
前を歩く人々を次々に追い越していく。そもそも歩くスピードが速いと言われる私だったが、時間ギリギリの今は更に速いはずだった。そして、周りを見ると、私より速い人は見当たらなかった。側から見たら、時間ギリギリの人というのは一目瞭然だろう。
それでも、私には恥がなかった。実際にそうであったからだ。恥のない人間は強い。
駅に着くと、まっすぐ改札まで歩き、その速さを止める事なく通った。
駅にはやはり、人が大勢いた。上京して一番のデメリットはこの人の多さだった。私は人の多いところは好きじゃないことがこの数日で発覚した。しかし、これにも上京しないと気付かない事であり、上京した事に対しては心の底から良かったと思っていた。
人混みのなかを掻い潜りながら、新宿方面のホームを目指した。
それはそうだが、人がいない列など東京の朝のホームにはない。仕方なく後ろに並んだ。この列の長さはきっと満員電車になるはずだった。
電車が来る。ここ1週間、同じ電車に乗っているわけだが、やっと時刻表も見ないで電車に乗れるようになった。私はどこか、都会人になろうと努めている性がある気がする。
電車に乗ると、そこはやはり満員電車で私が乗る隙間は残っていなかった。しかしながら、車両の奥を見ると、まだ余裕がありそうにも見えた。
この電車を逃せば、必ず遅刻する。それは絶対に避けたかった私は、強引に身体を電車の上に乗せた。しかし、身体の三分の一程しか入らず、鞄と身体は外に出たままだった。
電車内を向くのはどこか恥ずかしく、ホーム上に顔を向けていたのだが、それはそれで滑稽だった。ここでは流石の私も恥ずかしかった。
乗れない私に気づいた駅員さんが私に近づいてきた。私を押し込む作業をするのだろう。
案の定、駅員さんは私の身体を力一杯に押し込んだ。まるで、キャリーケースに服を詰め込むように。
周りの方の協力もあり、なんとか電車内に体が収まった。毎日こんなに苦悩と羞恥心を感じるならば、睡眠時間を削って早く家を出ようと思った。
電車内はもちろん人でいっぱいで、言葉通り、ぎゅうぎゅう詰め状態だった。スマホなんて触る気も起きないくらいであり、いつもの人間観察もできなかった。改めて、時間にルーズな自分に腹が立った。
人がいっぱいで息苦しかったものの、いつもは見ていない窓の外の景色を見る事ができた。
見慣れない東京の街。宮崎県とは全く違うその光景に、胸の高鳴りを感じた。
窓の外に釘付けだった私は、アナウンスで新宿駅が次の駅である事に気がついた。人がいっぱいで嫌な部分もあったが、それでもまた新しい発見をする事ができた。
電車を降りると、いつも以上に人で混雑している気がした。新宿は人が多すぎる。東京出身の同期は、人が多すぎるが故にプライベートでは絶対に新宿には近づかないと言っていた。上京したばかりの私は人が多いのは嫌いだったが、まだ避けるほどの印象は新宿に対しては持っていなかった。だが、この光景に慣れればいつかは億劫になるのは、容易に想像ができた。
いつもなら、人混みのお陰で改札を出るのに多少の時間が掛かるのだが、今日の私はどこかゾーンに入っており、改札まで真っ直ぐ道が開き、一度も止まる事なく、潜り抜けた。
春だというのに、やはり今日の気温はどこかおかしかった。
幸いにもハンカチを持っていたので、額に滴る汗を何度も拭った。シャツの脇の部分は、汗で濡れていた。この状態で営業をするなら第一印象は最悪だろう。私自身も、嫌悪感を持つはずだった。
しかし、問題はここからの選択肢であった。駅から会社のオフィスまで、徒歩で約二十分。今の時間から予想すると、徒歩の選択肢を取るならば必ず間に合わなかった。途中で走るしかなく、それでもやっと間に合うかどうかであった。それに加えて、この気温である。さらに汗をかくと思うと、その選択肢はなるべく避けたかった。会社には、絢爛な上司の方がいる。その上司に好かれたい私は、結局それが決め手でタクシーに乗る事にした。
贅沢なのはわかっていたが、余裕を持って出社したかった。その余裕を生み出せなかったのは、私のせいだったが。
駅前のロータリーには、何台ものタクシー車両がつけ待ち営業していた。
私は、ベテランの運転手がどうも苦手である。それは宮崎での経験のせいだ。
大学でサークルに所属していた私は、その日は飲み会に行っていた。サッカーのサークルである。
その日は皆、飲むペースも良く気がつけば三次会まで飲んでいた。宮崎で三次会もやっていると当然終電もなくなる。それに、田舎は終電の時間が早いので当然、その日は逃していた。
三次会でお開きになり、ネカフェに行く者もいれば、家族や友人に電話をかけて、ひたすらに頭を下げている者もいた。
私はというと、誰にも迷惑をかけたくない性なので、タクシーに乗る事にした。その時のドライバーが、割と歳のとったのベテランであった。
目的地の場所を伝えると、私は自宅に着くまで寝るつもりだった。飲みの最中は積もる話で盛り上がり、話疲れ、お酒も回っていたこともあり、この乗車中の時間はとにかく寝たかった。
にも拘らず、そのドライバーはひたすらタメ口で話しかけてきたのである。最悪であった。それに加えて、運転も荒かった。たとえ無言だったとしても、寝れないレベルの運転であった。その日から、ベテランドライバーに多少のトラウマがあった。
そんな私なので、後ろの方に止まっていた若い運転手さんの車両に乗る事にした。年齢は同じかひとつ上か、と言ったところであった。
「おはようございます。ドアを閉めますので、お気をつけください」
若さ特有の元気のある声が車内に響き渡る。
「ご利用ありがとうございます。目的地はいかがなさいますか」
いかにもマニュアル通りといった口調で話しかけてきた。このくらいが私には丁度良かった。
「新宿丸山ビルまでお願いします。それと、少し急ぎ目でお願いします」
「かしこまりました。お客様、大変申し訳ないのですが、私新人ドライバーでして、できれば道を案内してもらっていだだきませんでしょうか」
困った。私も上京してきた身なのだ。車での行き方もさほど詳しくなかった。
「すみません。私もつい先日上京してきたばかりでして、ナビ通りの道で構いません」
「かしこまりました。それでは出発いたしますので、安全の為シートベルトの着用をお願いします」
この常套句に囚われた新人ドライバーは、いつもなら感謝できるのだが、この急いでる状況では、明らかに人選ミスであった。一言発する度に、膝を震わせた。早くしてくれと。
朝の東京は、やはり道が混んでいた。その為、信号にもよく引っ掛かり歩いても変わらないのでは、と私を苛立たせた。それでも、実際には歩くよりは早いはずだった。
乗車している間、若い運転手さんは一言も喋らなかった。新人だから緊張しているのだろうか。それとも、そういった教育を受けているのだろうか。真相は定かではないが、同年代の運転手さんの車に乗ることは今後も少ないだろうと思い、声をかけてみる事にした。
目的地までは、あと三分後で到着といったところであった。
「運転手さん、ちょっと話しかけてもいいですか」
「はい大丈夫です。いかがなさいましたか」
「運転手さんはなんでこの仕事を選んだんですか。ほら、若いじゃないですか」
「実は、就職活動に失敗しまして。どこの会社にも内定をいただけなかったんです。こんな私を拾ってくれたこの会社には、とても感謝しています」
「そうだったんですね。どうですか、やりがいとかありますか」
「そうですね。もうドライバーになって半年以上が過ぎてます。給料も悪くないですし、休みも多いので、とても充実した日々を送っていると思っています。ですが、私自身、人と話すのが少し苦手で、それにまだ新人で道も全く覚えれていなくて、怒られることの方が多いんです。ドライバーとしてのやりがいでいったら、まだ見つけられていない、というのが答えになります」
私も同じ境遇だった。まだ入社してまもない新人だが、やりがいなど見つける余裕もなく、上司の方々も日々時間と業務に追われていた。昨日の研修中に厳しい鬼の上司の方は、「この仕事、やりがいなんてものないから。ただ仕事をこなすだけ。いい?」なんてことを言われた。この会社に勤めるのが正解なのか、私自身もわからなくなっていたところだった。
しかし、まだ私の社会人生活はここからである。一度決めた事は、最後までやり遂げる教えを受けてきた私は、こんなことでやめる筈はなかった。仕事を覚える事には苦労しそうだったが、今後必ず自分なりのやりがいの答えを導く筈だった。
そして、この同じ境遇にいる、一つ年上だろう運転手さんを元気付けたくなった。
「運転手さん。私は今、運転手さんに救われています。この運転がなかったらきっと会社に遅刻して、上司の方にズタズタに叱られていたと思います。それでも、そうはならないんです。運転手さんのおかげで。心から感謝しています。そう思ったら、運転手さんのお仕事って、時には人を救うお仕事だと思うんです。今後絶対にそういう経験、今の私みたいにお客さんを助ける経験をすると思うんです。確かに、怒られる事もあるかもしれません。でも、こうやって感謝されることがやりがいに繋がるんじゃないですかね」
私が熱弁してる間に、目的地についたようだった。運転手さんの力になれただろうか。無駄口を叩いてしまったのではないだろうか。それでも、今の私にできる事はしたつもりだ。それがお節介であったとしても、後悔はなかった。
初めはこの若い運転手さんに対して腹を立てた私であったが、なるほど、会話をすることでその人の内面的な部分に触れ、同情することもできるのだった。そして、乗車時の私の器の小ささが情けなかった。
「お客様、ありがとうございました。本当に、少し肩の荷が降りた気がします。お値段は千二百円でございます」
良かった。お世辞でも感謝されたことは、私自身も嬉しかった。軽く目線を合わせて、「ありがとうございました」と一言お礼をし、「お釣りはいらないです」と五千円を置いて颯爽に車を降りた。
カッコつけたい一心で真っ直ぐ前を向いて歩いた。口角が上がって仕方なかった。
やっとの思いで、会社に到着した。
ここに来るまで、いろんな感情が私を弄んだ。それでも、いつも通りの朝だったように思う。
オフィスはこの新宿丸山ビルの七階にある。そこまでエレベーターで上る。
朝の時間にも拘らず、会社員の人が少なく感じた。このビルには私の会社以外にも、何社も併設されている。普段であれば、エレベーター内も人で溢れかえる筈だが、乗っているのはせいぜい四、五人程度だった。このエレベーターの最大人数は十五人である。
今日はみんな時間に余裕を持って出社したんだなと気にも留めなかった。
七階のオフィスに着き、おはようございますといつもより大きな声で発声した。
すると、会社の雰囲気はいかにも仕事中といったところで、鬼の上司がまさに鬼の顔をして睨みながら近づいてきた。
「お前何時だと思ってんだっ!連絡もなしに一時間も遅刻しやがって!」
遅刻という言葉が、どういう意味を持つのか一瞬わからなくなった。または、私の知っている遅刻の意味が合っていないのではないかと自分を疑った。この上司はこんなに怒った顔で何をいっているのだろう。そう思いながら、アイフォンの画面を覗くとそこには九時五十八分と映し出されていた。
その事実に気づいた途端、身体中から汗が溢れ出てきた。遅刻だった。私は、ここに着くまでずっと分単位の数字しか見ていなかったのだ。家を出る瞬間から遅刻は確定していた。にも拘らず、必死で間に合おうと行動していたのである。タクシー代も無駄になってしまった。
思い返せば、世の中が時間相応の動きだったように思えてきた。気付けなかった自分が浅はかだった。忸怩たる思いが感情を埋め尽くした。
それでも、私は一人前の社会人になるんだ。クビになって地元に帰るなんて、もってのほかだ。
オフィス内にいる人間は、全員こちらを見ていた。あの美しい上司も、同期も、社長もみんなだ。そんな状況だったが、このピンチを切り抜くにはこの選択肢しか思いつかなかった。
「申し訳ございませんでした!」
言い訳無用。とにかく謝ること。まるで重力が十倍になったのかと思わせるぐらいに早い動きで、土下座をした。
恥のない人間は強いのだ。
これもまた、日常。まだ今日という一日は始まったばかりだ。