脚本 リテイク
気づくと大きな円形のお風呂に立ちすくんでいた。磨き上げられた大理石が20畳はあろうかという大きな浴室だ。壁に立てかけているこれまた大きな姿見に目をやると腰のあたりまであるゆったりとしたウェーブの薄い水色の髪に大きな青色の瞳の人物と目が合った。
「ええええええ?え?え?なんで?」
そのおおきな叫び声を聞きつけ、金色の髪をした青年が慌ててドアを開けた。
「ミシェル様!どうされましたか!?」
青年と私が見つめ合う。風呂場に入ってきたのだからある程度予想できたはずなのに、青年は私の格好に目を落として慌てふためき赤面する。私も反射的に叫び声をあげ、その声は大理石を反芻して何倍にも膨れ上がった。
──1999年7の月、空から降ってくる恐怖の大王によって、世界は滅亡する──
ノストラダムスの大予言の1999年7月に私は生まれた。
大学を今年の春に卒業し、なんとか受かったブラック中小企業で毎晩終電帰りをし、日付が変わる頃に帰宅する。そんな毎日。
なんとかやり過ごしているけど、ふと思う。
この生活をあと何年、何十年、続けていくんだろう。
引きずるように歩く足を止めて空を見上げる。(星、綺麗。)なんてぼんやり思っていると、大切なことを思い出した。明日は私の23歳の誕生日だ。コンビニでケーキでも買って行こう。
散らかった小さなテーブルの上に買ってきたコンビニの袋をおく。
(せっかくの誕生日ケーキ。これしか用意できなかったな…。)
(ろうそくの代わりに…。)
わたしにはちょっとした特技がある。指先に意識を集中させるとぼんやりと光らせることができる。
子供の頃親友だけに内緒でみせたら気味悪がられて離れていってしまったから、それ以来だれにも見せていない。今思えば嫉妬心もあったのだろう。彼女はその時必死に自分の指先を光らせようとしていたから。そんな苦い記憶が蘇った。
なんの役にも立たない下らない特技。
ぼうっと光らせ、指先を口元に持っていき息を吹きかけるフリをする。同時に指先への意識をなくすとまるで蝋燭の火を消したかのように指先の明かりも消えた。
寂しい食事を終え、時計を見ると23時50分を過ぎた頃だった。今日は早く帰れたな…と思いつつ、急いで風呂にはいる。ざばーっと体を湯船につけると疲れが抜けていくようだ。
(3日ぶりの湯船だ〜。)
喜びをかみしめながら顔の半分まで湯につかる。ふと足元に目をやるときらりと何かが光った。
不思議に思い足元を触るもなにも取れない。潜ってみる
不思議なことに体全体が湯に浸かった。
(あれ?お風呂ってこんなに深かったっけ…?)
疑問に思いながら底へ底へと泳ぎついに光っているものに指先が触れる。それは鍵穴をモチーフにしたネックレスだった。
その瞬間押し寄せるような水圧と真っ白な光に包まれる。
ぷはっ驚いて湯船から立ち上がるとそこは普段見慣れたユニットバスとは違う場所であった。
─────────────────────
「つまり───。ミシェル様は記憶をなくされているということですね。」
(状況が全くわからない…とりあえずそういう事にしておこう…。)
とりあえず頷く。
意外なことに彼はこの状況に思ったよりも動揺していない。頭が痛いのか額に指を当てている。
「…じゃあまず私からミシェル様の周りのことを簡単にお伝えします。
私はこの屋敷の騎士団長であり、ミシェル様の護衛を務めています。リュカと申します。
そして、さっきから黙ってこの状況を楽しんでいるこの鳩が貴方様の執事のジルです。」睨みつけるように部屋の隅の鳥籠を見る。
「誰が鳩です!わたしは鴉です!」
ばたばたと翼を動かし、威嚇するようなポーズを取る。
「鳩が喋った!」
目を丸くするミシェル。
「だから鳩ではなく鴉です!いやはや、ミシェル様、いつか貴方様がこう言った事になるのではないかと思っておりました。術の対価として記憶を失われるとは…。私は頭が痛いですよ全く。」
銀色の大きな鴉がすらすらと話し始めた。翼を片方口元へ持っていき、咳払いをする。
「ここは15世紀フランス。デュオールです。ミシェル様はこの邸宅の主人で、占星術師として有名なお方です。そして大変研究熱心です。
まさか風呂場にこんな大きな魔法陣をこっそり描いてらっしゃるとは気づきませんでした。」
大きなため息をつく。
「魔法陣??この世界は魔法が使えるの?」
今までの不安がどこかへ飛んでいき、好奇心が溢れ出てきた。
「何をおっしゃってます。この地域は魔法を抑制する結界の外なので問題なくご使用頂けますよ。そんな事もお忘れとは…三度の菓子より魔法の研究がお好きな方が…。」
簡単に頭の中を整理する。
とにかく私が今いるのは
15世紀フランスの魔法が使える世界で、魔法が使えない世界と繋がっているということ。時空を遡りはしたが、完全な異世界ではないのかもしれない。
これだけの情報を理解して整理するのに脳をすごく使った。
それにしてもこのジルという鴉は頭が良いようだ。自身の知識のレベルを瞬時に把握し、補足を入れてくれる。鴉のくせに執事というだけあるようだ。
「魔法ってどうやって使うの?」
ふと純粋な疑問が出てきた。
「簡単ですよ。指先に意識を集中させてみてください。」
なんとなくいつもやっていたことを実践する。なるほどあれは魔法の力だったのか。
いつものぼんやり光る光を想像していたが指先に眩う光が現れて驚愕する。強い風が巻き起こり、指先に吸い込まれていく。
「魔力は体力と同じで鍛えることができますが、魔法は才能、センスが必要です。スポーツアスリートのように生まれ持った能力差があります。
──そしてあなたは魔法という分野において紛れも無い天才です。」
「記憶を失ってもなお、魔法の使い方は体が覚えてらっしゃるようですね。」
ジルは不敵に微笑んだ。
さらさらと幾重にも連なった不可思議な形の砂時計の砂の音だけが響く。
私が考え込んでいるとジルは
「少し考える時間が必要でしょう。この屋敷で、ゆっくりとお過ごしください。」といった。
─────────────────────
半日考えた、先刻の出来事は早朝だったようで、まだ太陽は高い位置にある。屋敷にある本を読んで勉強もしてみた。文字はフランス語のようだ。大学の時第二言語をフランス語で選択していたため、なんとか読める…が難解だ。
(スマホが欲しい〜〜〜)
部屋で腐っているとノックの音が聞こえた。
「はい、どうぞ。」
リュカが入ってきた。
「ミシェル様、先刻は失礼致しました。なにかお手伝いできることがあればと思いまして…。」
ある人の言葉を思い出す。
(考えてもわからないことはフィールドワークが大切です。)
「リュカ!買い物に行きましょ!」
魔法の世界の買い物はなんとも楽しかった。
見たことないものや食べたことないものばかりだ。
そして何よりミシェルはお金持ちだった。欲しいものは躊躇いなく買える。
(何これ楽しいーーーー!!)
カフェで甘いものを食べるミシェルの笑顔を見てリュカが微笑む。その顔を見てミシェルも赤面する。
帰り道薄暗い路地を見つける。空気が澱んでいる
「ねぇ、リュカこの先には何があるの?」
「この先はデュダン、魔法界ではない世界に繋がっています。以前のミシェル様はデュダンとデュオールを行き来していましたが、デュダンにいる人間、ダングの間ではペストがまた流行しております故あまり近づかない方がよろしいかと…。デュオールの人間、オールドでもペストになりますと感染防止のためにこちらへは戻って来れなくなります。」
「そうなのね。向こうの世界のことも知れたら良いのに…。」
不満そうな顔の私をリュカは横目で見ていた。
──────────────────────
1週間経った。この世界のことが少しずつわかってきた。
リュカはあの日以来、私の記憶を呼び覚ますために毎日本を持ってきたり、屋敷の散策に付き合ってくれた。
だがここ数日リュカの姿を見ていない。なんとなく不安を感じる。
メイドたちが廊下の角で噂話している。リュカという名前が聞こえた気がして耳をそばだてる。
リュカは私のためにデュダンの本屋に出入りしていたようだ。そこでペストにかかったと言う。リュカがこの前説明した通り、デュオールへのペスト患者の往来は禁止されているため、デュダンの廃屋同然のアパートメントに1人でいるようだ。
(どうしよう…私のせいだ。私がこの世界にきてからリュカはずっと私のために色々してくれていたのに。私がデュオールの事を知りたがったから…。)
涙が出てきた。この世界を楽しめていたのはリュカのおかげだった。
(ペスト…)
大学の講義を思い出す。
『ペストはペスト菌による感染症であり、人類の歴史を通じて最も致死率の高かった伝染病であるとされます。流行した際にはヨーロッパの全人口の約3分の1が死滅したと言われています。皮膚が黒くなって亡くなるため、別名「黒死病」として恐れらていました。 』
(懐かしい声だ。わたしの好きだった教授の声だ。)
進堂研一ゼミ。大学では進研ゼミと呼ばれていた。あんなに好きだったのにモヤがかかったように顔がはっきりと思い出せない。
『なにより齧歯類の駆除が重要ですが、個人ができる感染対策としては、下記のような例があります。手袋、マスクの着用、アルコール消毒。ペスト菌を保有しているノミの予防対策としては、ディートやイカリジンなど殺虫剤のスプレーを使用する方法があります。スプレー型の殺虫剤は効き目が早く現れるため、流行地域において有用です。
『そして、当時は不治の病として恐れられていたペストですが現在はニューキノロン系抗生物質で治療が可能です。』
パチンと電気がついたように頭の中が明るくなった。
「これ!進(堂)研(一)ゼミでやったやつだ!!」
制限時間は発症して72時間。発熱は昨日から。という事は恐らくあと48時間。
────────────────
翌朝、ミシェルはリュカの場所をジルから聞き出しそこへ向かう。
小さなアパートメントの扉を勢いよく開けるとリュカやつれた顔をして驚いた顔をしてこちらを見た。
「ミシェル様?!ここへきてはいけません!!!」
リュカの制止を無視して手袋をはめて窓を開く。こんな不衛生な部屋にいては治るものも治らない。
換気をし、掃除をし、ネズミを駆除した。
「リュカ、あなたを死なせはしない」
一通りのアルコール消毒を終えるとリュカに生成した薬を差し出す。
「これを飲んで。」
「これは…?」
「私が生成した薬、成分的にはちゃんと効くはず…」
私が不安そうな顔をするとミシェルは力無く微笑みながら
「ミシェル様が私のために作られたのでしたら、たとえ毒でも薬になります。」
リュカの手を手袋越しに握る。
数日間薬の服用のためにリュカのアパートメントへ通う。
リュカはみるみるのうちに回復していった。屋敷に戻りジルに経過を話すと興味深そうに詳細を聞く。
通い始めて3日目の昼頃薬が効いてきたのかリュカは眠りについてしまった。ミシェルも気づくとうとうとしていたようだ。
アパートメントの扉が開き、その音に驚いてミシェルは顔をあげる。
怪しいカラスの面をした集団がぞろぞろと入ってくる。
「何者?!」
ミシェル様、私どもはオールドのペスト師団です。カラスの面をとると、そこには黒の長髪の眼鏡の男が穏やかに微笑んでいた。
「申し遅れました、私ユングと申します。ミシェル様のペストの治療方法を聞きまして、リュカの回復に驚いた次第でございます。我々ミシェル様のご指示のもとペストの根絶のためにお力添えさせていただきたく存じます。」
どこから話を聞いたのかわからないが、この男は信用できると感じた。なにより嘘をつくメリットもない。
一見怪しい師団は衛生的な環境に整え、ネズミを駆除し、遺体は火葬し、ニューキノロン系の抗生物質を生成、処方する。こうしてペストの流行が世界で劇的におさまっていった。
屋敷の部屋で本を読んでいるとドアのノックの音が聞こえる。
「どうぞ。」
誰だろうと思いながら声をかけると、初めて会った日と変わらない笑顔のリュカが部屋に入ってきた。
「ミシェル様!」
リュカがミシェルの手を握りしめる
。
「ありがとう。」リュカが微笑む。
ミシェルも微笑み返そうとする。すると転生したあの日光の中で聞いた声を思い出す。
(決して心を許してはいけない。鍵を開けてはいけない。)
リュカの手を離すミシェル。
ユングが入ってくる。
「ミシェル様この度は素晴らしいご活躍でした。」
「なぜユングがここに?」
ユングは実は人間の姿になったジルであった。
「いやいやそれにしても本当に素晴らしいご活躍でした。ノートルダム家の息女としてその名に恥じぬご活躍ぶりで、デュダンのアンリII世さまから感謝状をいただいております。」
アンリII世?ノートルダム?
ミシェル・ノートルダムってまさか…
「そうそう、世間ではミシェル様のことをこう呼ばれております。」
「ノストラダムス様と。」
────────────────────────
【補足設定】
基本的に生身でも魔法は使えます。デュダンの童話に出てくるような魔法使いは杖を持っていたりしますが、杖などは魔力の増幅に使います。スポーツでいう道具のようなものです。
呪文を唱える魔法もあります。名のついたテクニックのようなものです。
有機物の生成には魔力以外に糖などを消費しますので甘いものは常日頃持ち歩く必要があります。またデュダンの言葉で学問的に消費者と分類される物質は見掛け倒しの物しか作れません。切り離された時点で幻は消えます。
魔法は無から生じることはありません。火であれば必ず空気中の酸素を取り込んだりしています。不足している要素を自身の魔力から作り、それらを融合させている。というのが魔法の根幹です。