第百三十七話 初釣行
山中幸盛は「民音」(一般財団法人民主音楽協会)の賛助会員だが、推進委員でもあるので、毎月必ず民音主催の公演に足を運んでいる(年会費五〇〇円の賛助会員は、一般より五~六〇〇円ほど安くチケットが手に入る)。
それで本年四月十日に『山下伶 ハーモニカ・コンサート【クロマチック・ハーモニカが奏でる魅惑の世界】』が愛知県芸術劇場コンサートホールであったので、S席を四五〇〇円で購入してあった。
数年前までは、愛知県芸術劇場に行く場合はマイカーで乗り付けてその地下駐車場に駐めていた。しかし今回は運動不足を補うために公共交通機関を利用することにして、家からJR関西本線蟹江駅まで徒歩で十分弱、名古屋駅で地下鉄に乗り換え、栄駅から会場まで歩けば結構万歩計の数が稼げると、幸盛は計算していた。
ところが前日になって、『車で行かないとなると、万が一大便がしたくなり、トイレまでガマンできずに途中で洩らしてしまうと、その悪臭を周囲の人々に嗅がせて最悪の事態に陥る』との危惧の念に囚われてしまった。
というのも、そのほんの一週間ほど前、一時間ほどの小会合の途中で大便がしたくなり、紙パンツは履いていたものの洩らせば臭いはごまかせないので、やむを得ず中座して会場から外に出てすぐに「ブリブリ」と排出してしまうという失態を犯していたからだ。(直腸癌の手術で人工肛門にならずに済んだ代償として、このような気苦労がある。)
というわけで予定を変更し、四五〇〇円は気前よく民音にくれてやることにして、昨年十二月二日以来四カ月ぶりに、本年初の夜釣りにT漁港まで出かける事にした。
陸の上では三月中旬から急激に温かくなって桜が例年より早く開花したが、海水温の上昇は気温より一~二カ月遅れると言われているので、時期尚早ということは百も承知だ。おまけに長潮で潮は動かず、昨年の釣り記録を調べてみても、『四月八日 完璧なボーズ』と記してある。
早朝五時頃にトイレで目覚めたので、そのまま服を着て朝食を摂った。というのも、釣りの途中でトイレに通わずに済むように、それが直腸に到達するまでの所要時間を考慮し、家のトイレで大便を排出してしまいたかったからだ。
昼メシはバナナ一本と牛乳とヨーグルトだけでガマンして、大便をできるだけ多くひねり出してから出発したのは午後三時三十三分だった。
家の近所のコンビニで骨なしチキンを三個買って、南知多道路の阿久比パーキングを過ぎると、早めの夕食として運転しながら骨なしチキンにかぶりつく。
豊丘インターで下りて、昨年の残りの冷凍小イワシだけでは心許ないので、エサ屋で赤イソメを一杯六〇〇円で買い、T漁港の駐車場に到着したのは四時五十分だった。
荷物を下ろす前に手ぶらでいつもの場所まで下見に行くと、日曜日のせいか作業が終了していたので、ワクワクしながら準備に取りかかり、四本のサオを出し終えたのは五時四十分だったのでまだ充分に明るい。
しかし、大漁だった十二月二日とは違い、サオ先の鈴は全然鳴らない。だが予想通りなので、アジングの仕掛けを準備し、ジグヘッド(オモリと針が一体化したもの)にワームの代わりに赤イソメを一本掛けにする。
すると、さすがに生エサだけあって、七時ちょうどに足元で十一センチのメバルが釣れた。これでボーズは逃れたと証拠の写真を撮ってニンマリ微笑み、あまりに小さいのですぐに海へ返してやる。
そしてその五分後に、今度は十七センチの丸々と太ったメバルが釣れた。充分食べられるサイズだから血抜きしてクーラーボックスに納めようかとも思ったが、もしこの後に全然釣れなければ一匹だけ持ち帰って調理するのは面倒だし物足りないので、手洗い用に汲んであったバケツの海水の中で生かしておくことにする。
その十分後に釣れたのは十センチのメバルだったので即リリースしたが、その後がなかなか釣れない。鈴が鳴らない四本の置きサオは一時間ごとにエサのチェックをしたが、イワシも赤イソメもほとんどそのまま残ってくる。
やっと十一センチのメバルが釣れたのは八時十五分で、この頃から腰が辛くなってきたので、キノコの形をした漁船を係留するための鉄杭に腰掛けてアジングをしたが、その後、五匹目のメバルが釣れたのは九時二十二分で、サイズを測ると十二センチだったので即リリースする。今回は、トイレに一度も行かずに済みそうなので思わく通りだ。
十時を過ぎたので片付けることにして、バケツのメバルを見てみると元気に泳いでいるが、まだ逃がしてやるわけにはいかない。万が一、ひょっとして、四本のサオのうちのどれか一つに良型の魚が釣れてくれれば、一緒に持ち帰って食べると決めているからだ。
一本ずつ片付けていくが、どのサオも手応えなくオモリとエサが軽やかに戻って来る。そして最後のサオのリールを巻き終えると、メバルが入っているバケツを手に取って傾け、海水ごとメバルを海面に落としながらつぶやいた。
「運のいいやつだ。また会おう」