さくらの木の前で、私は。
この作品は「春の推理2022」への参加作です。
テーマは『桜の木』。
「ねえねえ」
「ん?」
「桜って、春に咲くものだよね?」
「うん……どうした、急に」
「“真っ赤な紅葉に囲まれた桜”……なんて、ないよね」
「は?」
話が思わぬ方向に転がったので、樹は思わず眉間にシワを寄せた。
「……やっぱり、おかしいよね。そんなの」
千種がわかりやすく肩を落としたので、樹は慌てて声を掛けた。
「聞かせてよ。詳しく」
*
千種は、絵が上手い。
ついこの間も、県内のコンクールで賞を獲っていた。
その件で、彼女は先日、校長室に呼ばれたそうだ。
「校長室に入るの、その時が初めてだったんだけど……校長先生の机の真向かいに、絵が飾ってあったの」
「それが、“真っ赤な紅葉に囲まれた桜”?」
「そう……見えたんだけどなあ」
そこまで言って、千種は首を捻った。自分でも自分の言っていることがよくわかっていないのかもしれない。
「校長先生も、確か、絵を書くのが趣味だったよな」
「そうなの。だから、多分あの絵は校長先生が描いたものなんだと思うんだよね」
樹は立ち上がった。急に立ったので、千種は驚いて声を上げた。
「ど、どうしたの?」
「行くぞ」
「行くって……どこへ?」
樹は、ニヤリと笑った。
「パソコン室」
*
「秋に咲く桜、秋に咲く桜……あった!」
「本当!?」
小声で話していた樹とは対照的に、千種は思わず大声を上げてしまった。周りの利用者を気にして、千種は慌てて声を潜める。
「どこ?」
「ここ……“四季桜”とか、“冬桜”とか。なんだ、結構あるじゃん。名所もあるみたいだよ」
樹は画面を指差しながら、千種の顔を見た。しかし、千種は微妙な顔をしていた。
「……何か、違う」
「え?」
「ほら、この写真。紅葉も桜も、たくさん植わってるでしょ。でも、校長室の絵は、真っ赤な紅葉に囲まれた、一本の桜の木だったんだよね」
「つまり?」
樹の問いに、千種は少し考え込むようにして、言葉を紡いだ。
「……観光で見て綺麗だったから描いたとか、そんな雰囲気じゃなかったんだよ。何ていうか……強い“想い”を感じたっていうか」
「よし、わかった」
樹は再び立ち上がった。やはり急だったので、千種再び、驚いて声を上げた。
「こ、今度は何?」
「確かめよう」
「何を?」
樹はふう、とため息を吐いて、またニヤリと笑った。
「本物」
*
目を輝かせた樹と、緊張で小さくなった千種。二人が立っているのは、校長室の扉の前だった。
「ねえ、やめようよ……こんなこと」
「どうして?気になるんでしょ、“真っ赤な紅葉に囲まれた桜”」
「そうなんだけど!」
「初めからこうすればよかったんだよなあ」
隣で小さくなっている千種などお構いなしに、樹は校長室のドアをノックした。
「はい」
「失礼しまーす」
樹が扉を開けると、椅子に腰掛ける校長先生と目が合った。校長先生は樹を見て目を丸くした。
「どうかしましたか」
「見たいんです」
「何を?」
つかつかつか、と前に進み出た樹は、くるりと振り返った。
目の前に広がった光景に、樹は再び目を輝かせた。
「すげえ!本当に、“真っ赤な紅葉に囲まれた桜”だ!」
樹の目の前の景色は、紅葉の赤と、桜の桃色とで美しく染まっていた。千種の話の通り、一本の桜の木を囲む形で真っ赤な紅葉か広がっている。美しい絵だった。
「この絵を見に来たんですか?」
「はい!すごいなあ、これ、校長先生が描いたんですか?」
「ちょっと!樹、もうやめてよ!」
千種は、樹の服の袖を引っ張りながら、小声で叫んだ。しかし、何もかもがもう遅すぎた。
校長先生は、樹の後ろで小さくなっていた千種の存在に気付いた。
「おや、あなたは。この間の」
「すいません!私が変なことを気にしたばっかりに!」
「変なこと?」
もう誤魔化せないと悟ったのか、千種は項垂れながら事の顛末を話し始めた。
「そういうことでしたか」
校長先生は穏やかに微笑んで、千種と樹の方へ歩み寄った。
「これは、“秋に咲いたさくら”ですよ。私が描いたものです」
「”四季桜”ですか?“冬桜”ですか?どこで見たんですか?」
矢継ぎ早に質問をぶつける樹を見て、校長先生は声を立てて笑った。
「よく知っていますね……残念ながら、どちらでもありません」
「ええ!?」
大袈裟に驚く樹の横で、千種がパッと顔を上げた。
「私の大切な“さくら”なんですよ」
そう言うと校長先生は、部屋の真ん中にある応接用のソファに座るように、千種と樹を促した。
*
「“さくら”という名前の、孫がいるんです」
「お孫さん?」
「ええ……未熟児、という言葉をご存知ですか?」
樹と千種は気まずそうに顔を見合わせた。
「簡単に言うと、小さく生まれた……お母さんのお腹から、予定よりもかなり早く出てきてしまった子どものことです。私は娘から、その子の名付け親になって欲しいと頼まれました。そして、私は彼女に“さくら”と名付けることに決めたんです」
「あの……」
話の流れが読めずに、樹が思わず口を挟んだ。校長先生は微笑みながら、話を続けた。
「“さくら”には、“良く咲く”という漢字をあてました。良い悪いの“良い”に、花が咲くの“咲く”です」
「“咲良”、さん」
そう千種が繰り返すと、校長先生は満足そうに頷いた。
「大変な形で生まれてきたけれど、どうか“人生が良く咲きますように”と祈りを込めたんです。そして“咲く”という字には、元々、“笑う”という意味もある」
「そうなんですか?」
「ええ……ですから、“この子に笑顔がたくさん咲きますように”という意味も込めました」
校長先生はスッと立ち上がり、絵の前に立った。
「咲良が生まれた夜は、とても寒かったんです。生まれてからしばらくは、予断を許さない状況が続きました。ひと段落した頃には、もう朝陽が昇っていた」
一つため息を吐いて、校長先生は話を続けた。
「あの日、病院の窓から見えた、燃えるような赤い景色。私は生涯忘れないでしょうね」
「それが、桜を囲んでいる“紅葉”なんですか」
千種が尋ねると、校長先生は静かに答えた。
「ええ、そうです……朝晩の寒暖差が激しいほど、紅葉は綺麗に色づきます。あの年は、紅葉が大変綺麗な年でした」
「ってことは!」
そう言うと樹は立ち上がり、校長先生の隣に並んだ。
「この絵は、真っ赤な紅葉に囲まれて、咲良さんが笑っている絵なんですね」
「え?」
校長先生が樹の顔を見ると、樹はニヤリと笑った。
「だって、“咲く”っていう字は、“笑う”って意味なんでしょ?」
校長先生は目を瞬いた。そして、ふっと笑った。
「そうですね」
*
樹と千種が去った後も、校長先生は絵の前に立ち続けていた。
「“咲く”という字は、“笑う”という字……か。自分で描いたくせに、一本取られてしまいましたね」
校長先生は微笑んでいた。
「生きていれば、もう、あのくらいの年齢でしたか」
その言葉に、もちろん、返事はない。
「笑っていますか?咲良」
校長先生は、やはり微笑んでいた。
その目には、燃えるように真っ赤な紅葉と、それらに囲まれた満開の桜の木だけが映っていた。