第8話・上と下、ずっと下
ドキドキする。
洗いたての服に袖を通した豊地千夏と同じホテルの部屋だ。豊地さんはすでに髪を乾かし終えていた。シャンプーや石鹸の香りはなく、シャワーで雨を流しただけのようだ。
身体が冷えたのだから、湯船につかって温まれば良かったのにと思ったが、いつ僕が帰ってくるのか緊張でのんびりは無理か。豊地さんの性格的に、うん、無理だな。ちゃんと、部屋に戻る前にはメールを送るとしても無理だろう。
部屋で、微妙な距離感を感じながらも、やっと豊地さんがカフェに迎えに来てくれた理由を教えてくれた。
「紗凪さんが、急な用事が入って連絡も取れない状態だったので、その、急遽で私が走りました」
「ずぶ濡れで」
「お恥ずかしい……」
豊地さんはすっかり小さくなってしまう。彼女は大きくない。どこまでも小さい。だがそれは……豊地さんだけのことではない。人間は、より小さくあっても許されるべきなのだ。巨大な使命は、運命は、個人に負わせるものではない。決して。世界の命運などはまさに“それ”だ。
僕は口を開きかけて、少し迷う。
稚依さんのことを聞いて良いのか。
十中八九、ウルフィーズだろう。
「紗凪さんですが、大したことではありません。事件に巻き込まれたとかでは、ないです」
「安心しました。てっきり……」
犯罪者に首級でもあげられたかとばかり、とは言わなかった。ちょっと期待していたけど。
いや、本当は『首の期待はない』けど。
「優しいですね」と豊地さんに言われたとき、何を言われたのか考えてしまった。優しい、僕には無縁な言葉なのに。
「酷い人間擬きですね」と言われたことを思い出した。ずっとでもない、鮮烈な少し前のことだ。
優しい人間は、悪党に武器を売らない。
「優しいとは無縁なのですけれどね」
ヒーローを抹殺するなんてことは、優しい人間は絶対にやらない。
僕は誤魔化すように、
「コーヒーを淹れましょう」
「い、いえ……!」
「ただの備え付けのコーヒーパックです。お茶もありますね。どちらが良いですか? シロップと砂糖もありますよ」
「……コーヒーで。シロップもミルクもシュガーも増し増しでお願いします……」
あっ、オプションも全部僕がやるんだと、思ったが口にはしなかった。
おやすいことだ。
おい! コーヒー淹れろ! なんてことを言われていたら、街灯に吊るすところだけど……豊地さんは絶対に言わないから。
「では、失礼しましょうか」
電気ポットでお湯を沸かし、コーヒーパックからコーヒーをドリップして蒸らす。そんな感じがコーヒーの淹れ方のはずだ。ご注文の通り、とびっきり甘めに仕上げた。
豊地さんは両手でマグカップを持ち──熱くないのか?──ふぅ、ふぅと冷ましてから湯呑みを使うようにコーヒーを嗜んだ。
「ヒーローみたいです。サッとホテルを手配して、服も洗って、コーヒーまで出して」と豊地さんは赤い顔を隠すように、コーヒーの黒い水面を見つめながら「やっぱり私て、見た目だけですね。かえって迷惑を作っちゃった」
純粋で無垢な人だ。
騙しているわけではないが、騙している事実にチクリと心を刺された。僕は、ヒーローではない。ヒーローを殺す側なんだ。秩序を破壊する、自由の側だから、僕はヒーローではないんだ。
ヒーローは、正義の味方であって正義ではない、そして自由の味方は自由ではいられないものなのだ。
「ヒーローではありませんよ」
本心だった。
「そんなこと、ありません! 私のヒーローです!」
否定するべきだったのだ。強く、完全に。しかし僕は昔から、翡翠色の瞳の女性に弱い。
「……」
精一杯は、肯定も否定もしないくらい。
ふんす、豊地さんの鼻息は荒い。大きな女性だから迫力が違う。彼女のことだから馬の首とかでも頑張れば絞め落とせそうな迫力がある。大きいとはパワーなのだ。腹筋も固そうである。半端な一撃など、脂肪と筋肉の鎧が防いでしまうだろう。小口径のピストルくらいなら生身で耐えそうだ。
ウルフィーズの狼の毛並みに似た髪色のせいだろう、そんなことを考えたのは。普通の人間は二二口径でも素の肌で耐えられないというのに。
棘の一つで傷ついてしまう……人間は弱いのだ。
ヒーローのように生きてしまえば、死んでしまう。
豊地さんは間近で見る姿と、僕の想像の思い込みとは違った。腕は細く……は、ない。筋肉……も、硬い。豊地さんなら、できかねない。やりかねないが、
「……?」
戸惑いながら、豊地さんは愛想笑いを浮かべる。下手な笑いだ。だけど愛おしい、人間らしい。
怖がり、恥ずかしがり……弱さを許される世界であってほしい。でなければ、弱い人間にはあまりにも生き難い。ヒーローが強行しているのは“そういう”世界だ。
「少し休憩したら家に帰ろうか」
「バスとかあるんです?」
「まだそこまで夜は深くないですから、大丈夫」
豊地さんは気がついているのだろうか?
口先を僅かに尖らせた。
ちょっぴり不満があるらしい。
気のせいだろうか。
悪戯っぽいわけではないが、稚依紗凪のように拗ねるというには、豊地さんに失礼か。しかし、口を尖らせる子供っぽい表現は、どことなく思いださせた。同居していて感染った仕草なのだろう。
「ほ、ホテルて初めてなんです」
確かに、ホテルで一泊というのは貴重な経験だ。以前、チンピラボスとの会合があったホテルともまた違うし、カプセルホテルのようなものとも違う。考えれば、僕にとっても二人でホテルなど珍しい経験そのものだ。
少し探検してみたくて、うずついた。
「コンドームが引き出しにあります」
「え!?」
ベッド周辺を漁っていると見つけた。
宗教本の上にである。
不道徳とかならないのかな。
「ははは、お互い大人ですしこんなものがあったからって意識は──」
隣のベッドで、豊地さんが真っ赤な顔をしながら身を投げていた。無防備に、襲ってと言わんばかりに。
「──いや、元気なら帰りますよ」
信じられないほどポカポカ叩かれた。