【短編】冷酷魔術師の妻となり、心を知る
王都に建てられたとある立派なお屋敷の一つ、オークランス家の玄関には主人の帰りを迎え入れるべく使用人が乱れなく整列していた。
重厚な扉が開かれると、その人物に対して使用人達はお帰りなさいませと、声と礼を絶妙の呼吸で合わせて行った。少しの不興も買わないように完璧に。
その人物に対して、使用人ではないドレスを身にまとった女性が近づき、声をかけた。
「お帰りなさいませ。王宮でのお仕事、お疲れさまでございます。今日は何かございましたか?」
「……ただいま帰った」
仕事から帰ってきた夫を迎え入れるのが妻の役目。
王宮の魔術師であるウルリク・オークランスの妻、イェシカは彼の帰りを笑顔で迎えた。
だが、イェシカの問いかけにウルリクが返したのは、ただその一言だけだった。
「あら、お疲れでいらっしゃるのですね。それでは今日は、寝る前に蜂蜜をたっぷり入れたミルクを用意してもらいましょう。これで今夜はぐっすり眠れますよ」
「………」
返答のなかったウルリクに対して、イェシカはそんな風におっとりと再び話しかけた。
手にしていた荷物を使用人に渡したウルリクは、また何も声にすることは無かったが、氷のように冷たい視線でイェシカを睨んでいた。
それは他人を凍り付かせるような冷徹な視線。睨んだ相手を少しも好意的には思っていないような視線だ。
「それでは、先に食堂へ行って待っております。お支度が済みましたら、いらして下さいね」
しかし、イェシカはそんな視線を受けても怯むことなく、にっこりと笑って返した。
(奥様もお可哀想に。毎回、あのように冷たい目を向けられながらも健気に出迎えられて。きっといつか旦那様に受け入れて貰えるとお思いになっているね。旦那様も無慈悲な方。さすが、冷酷魔術師だわ)
食堂へと歩いて行くイェシカの後ろ姿を見ながら、使用人の一人はそんなことを考えていた。
もうウルリクとイェシカが共にこの屋敷で暮らし始めてから半年が経っている。
それでも少しもウルリクの態度に変化は見られない。
ウルリクは他人を気にかけることも、他人に心を動かされる事もない、そんな”心のない人”であるから。
使用人は不幸にもこの冷酷魔術師の妻となったイェシカの事を哀れに思い、ため息をついた。
「……そんなことないのに」
一人ゆったりと食堂へ向かう途中、イェシカがこっそりと漏らした呟きを聞いている者は誰もいなかった。
***
公爵令嬢の一人娘であるイェシカは溺愛する両親に大切に育てられてきたが、お年頃。
そろそろ伴侶となる相手を見つける時期になり、そんな中イェシカのもとに入ってきたのはウルリク・オークランスとの縁談だった。
ウルリクは王宮魔術師で先の戦争では多大なる功績を残した。氷魔法に優れ、敵軍を一瞬の内に凍り漬けにしたという話もある。まさに一騎当千。素晴らしい人物である。
そんな彼と結婚したいと思う乙女が星の数ほどいるかといえば、そうではなかった。もう結婚しても良い歳だというのに、彼の周りにはそういった話は全く無かった。
姿が醜く、顔中にあばたでもあるのかと思えばそうではない。
むしろウルリクは恐ろしく整った顔立ちをしている。輝く様な銀色の髪に少し青みがかった灰色の瞳は、彼の氷魔法の様に綺麗だ。
では何故そんな彼が余り物になっているのかというと、それは彼の性格が原因であった。
自分が優秀であるために他人を見下し、関わろうともしない。話しかけても無視し、冷淡な視線を向ける。先の戦争では敵とはいえ大量の犠牲者を出すこととなったが、そのことを何とも思っていない冷酷非道な氷の心の持ち主。
そんな風に噂され、いつしか冷酷魔術師と言われるようになっていた。
そんなウルリクの婚姻話をイェシカは二つ返事で受け入れた。もちろん両親は反対したが、イェシカの意志は固かった。
とはいえ、イェシカがウルリクに特別な感情を抱いていたわけではない。
イェシカは社交界にほとんど参加しないウルリクと話したこともなければ、その姿を見た事もなかった。
でも、そのことがイェシカの決め手となっていた。
イェシカは社交界やパーティーといった人が集まるところが大の苦手。
だから、ウルリクと結婚すれば行かなくてすみそうだ、とそんな考えが浮かんだ。
他に思い人もご縁のありそうな話もなかったイェシカは、その程度の気持ちで受け入れたのだった。
結婚に対して不安がなかったといえば嘘になるが、それほど心配もしていなかった。
イェシカには一つ、誰にも言っていない不思議な力があったから。
それは、人の心の声を聞くことができるというもの。生まれたときから持っていたその力はだんだんと強くなり、今では近くにいる人の心の声は難なく聞ける。
その力があれば結婚生活も上手く乗り越えていけるだろうと思っていたから。
……その力がこのウルリクとの結婚において、これほどまでに重大なものになるとは結婚前のイェシカは少しも想像していなかった。
***
(眠い)
(腹減った)
(今日は晴れていたから、洗濯物が良く乾いて良かったわ。そういえば、庭園の花が咲き始めていて綺麗だったわ)
主人の帰りを迎えるために、扉の前に集まった使用人たちは奥方であるイェシカにきっちりとした態度を向けながらも、心の声はそんなことを言っていた。
1日の終わり、家の仕事をこなしてきた使用人たちがそう思うのはもっともで、態度に出さなければ咎めようもない。イェシカは聞かなかったふりをしながら、明日は庭園に行ってみようかしらと思っていた。
(……お帰りになられたわ)
(失敗できない。集中しないと)
(緊張する……)
そんなことを思っていると、家の門が開き、馬車が扉の方へと近づいてくる音が聞こえてきた。先程までの気の抜けたような声が一気に気の引き締まったものに変わる。
馬車が止まる音がした後、使用人達が扉を開きこの屋敷の主人であるウルリクを迎え入れた。
お帰りなさいませ、と使用人が一斉に頭を下げる中、イェシカもウルリクに声をかけた。
「お帰りなさいませ。王宮でのお仕事、お疲れさまでございます。今日は何かございましたか?」
「……ただいま帰った」
(今日か……今日は会議がいくつも入っていて疲れたな。ずっと座って話を聞いているのは苦手だし)
「あら、お疲れでいらっしゃるのですね。それでは今日は、寝る前に蜂蜜をたっぷり入れたミルクを用意してもらいましょう。これで今夜はぐっすり眠れますよ」
「………」
(……蜂蜜たっぷりのミルク!最近はあまり飲むことがなかったけど、あれ美味しくて好きなんだよなあ。寝る前が楽しみだ。でも、それよりも今はお腹がすいたな)
「それでは、先に食堂へ行って待っております。お支度が済みましたら、いらして下さいね」
お腹がすいているならこんなところで引き留めていたら、申し訳ない。
そう思い、イェシカは先に食堂に向かった。
だが、周りから見れば、ウルリクに無視され続けたイェシカが諦めてその場を去ったように思うだろう。
真実はこんなにも違っているのに。
このことは、イェシカしか気が付いていない。
本当はウルリクはこんなにも感情豊かで素直な人だということに。
長年、ウルリクに仕えている使用人たちは何となくは察しているかも知れないが、それもウルリクが噂ほど冷酷ではないという程度だろう。
ウルリクは表情と言葉に表さないだけで、決して氷の心の持ち主などではなかった。
人並みか、それ以上に温かく素直な心の持ち主だった。
(今日の夕食はなんだろう?最近忙しくて家で食べられなかったから、楽しみだな。イェシカとも久しぶりに一緒に食事が出来て嬉しいな)
無表情の冷酷魔術師が心の中ではこんなことを考えているなんて、イェシカ以外の誰も知らないだろう。
今日はウルリク様のお好きなエビとキノコのクリームスープがありますよ。
ウルリクの心の声を聞いたイェシカは心の中で、そんな風に返答していた。
***
「ウルリク様、お時間がありましたら後ほど、一緒に庭園を見に行きませんか?」
とある休日の朝食時、いつもよりさらに人を凍え殺しそうな目つきでパンを口に運んでいたウルリクに、イェシカはにこやかに話しかけた。
イェシカに移した視線はまるで殺意のこもったような恐ろしいもので、イェシカの後ろに控えていた使用人からひぃっと小さな悲鳴が上がった。
「庭園の花々が丁度咲いていて見頃のようです。どうでしょうか?」
(……恐ろしい。何故奥様はそんな旦那様を面倒だと思われそうなことをするのかしら。怒られたり、不機嫌になられるようなことを自ら。あのような目で見られることは分かっているのに……私だったら背筋が凍ってしまいそうだわ)
イェシカは後ろに控える使用人のそんな怯えた心の声が聞こえきて、ごめんなさい、と心の中で謝る。
何も知らない者がウルリクの視線を受ければ、不快感と嫌悪感を最大限に示されていると思うような目つきであったから。
しかし、実際のところは……
(眠い……目が閉じてしまいそうだ。でも、朝食は美味しいなあ。焼きたてのパンはふかふかでクッションみたいで、温かくて良い匂いがする。……えーと、何だっけ?庭園?花が咲いているのか。きっと、きれいだろうなあ。見に行きたい。イェシカと一緒に見られたら楽しそうだなあ)
ウルリクはそんなことを考えていた。
睨むような目つきはただ眠いだけ。
ウルリクは朝に弱いようで、通常の3割増しに氷の様な目つきになる。そして、外見、行動の洗練された動作は変わらないが、頭はまだぼうっとしているのか通常よりも回転が遅くなる。
それに、目の前のもの一つ一つに感心していて、イェシカの問いに反応するのもゆっくり。
ただそれだけだ。
怒ったり、不機嫌だったり、目障りに思っているわけでは決してなく、イェシカのことを無視しているわけでもない。
イェシカはウルリクがそう考えていることを聞くと、もう一度問いかけた。
「私とご一緒していただけませんか?」
「……ああ」
ウルリクは地を這うように低く不機嫌な声で応えたが、その内心ではとても嬉しく思っていたことを、イェシカだけが知っていた。
***
オークランス家の敷地は王都の一角にあるというのに、十分過ぎるほどに広い。それはその実力、権力の現れなのだが、その成果の1つとして立派な庭園が広がっていた。
ウルリクを恐れる庭師が一片の不備もないように造り上げたためにこのような光景が広がっているのだが、何はともあれ美しかった。
そんな庭園を、ウルリクとイェシカは2人、並んで歩いていた。
「色々な花が咲いていますね。こちらの赤くて小さい花はまるでお菓子のようで可愛らしいですね。あちらの澄んだ水色の花は海の雫のよう。どれも美しいですね」
イェシカが1人しゃべり、無口で無表情にその隣を歩くウルリク。
周りから見れば、イェシカが1人ではしゃいでいるように見えるがそうではなかった。
(うん。赤い花は砂糖菓子みたいで美味しそうだなあ。舐めたらあまいのかな。水色の花、本当に海の色みたいだ。今度、イェシカと一緒に行けたらいいなあ。……あ、あんなところに鳥の巣かな?)
口には出していないが、ウルリクはイェシカと同じように花の観賞に興じていた。
そして、いろいろな所に目を向け、興味抱くのは、ウルリクの方が先だった。
「あちらの方も見に行ってみましょうか」
ウルリクが鳥の巣だと気にした方を指さすと、ウルリクはやはり何も応えなかった。
だがその代わりに、ふわっとした嬉しいという気持ちが伝わってきて、イェシカはそれに応えるように微笑んだ。
イェシカは心の声が聞こえるという力の他に、時々、人が感じた“感情”を“感覚”として自分自身に共鳴させる力を使うことができた。
ただ、これはよほど波長か何かがあった人が相手でないと使えない力で、イェシカも今までに数人ほどにしか使えたことはなかった。
ウルリクはそんな人物の一人だった。
(わあ、雛の声が聞こえる。一生懸命に声を出して、あんなに小さいのに生きようと頑張っているんだ。えらいなあ)
(あ、今日は快晴だ。雲1つ無い気持ちの良い空。イェシカが連れてきてくれなかったら気づけなかった。有り難いなあ)
そんな風にウルリクはどんな些細なことにも反応し、感動していた。
そしてそのたびに、嬉しい、楽しい、面白い、心地良いといった温かい感情が伝わってきた。
相変わらず、表情はぴくりともしていないが。
世間はウルリクのことを“心のない人”というが、イェシカはとんでもないと思っていた。
ウルリクほど感情が豊かで、子供のように素直に目の前のものを受け入れて感動し、心を動かされている人を見たことがない。
ウルリクは、感情表現は確かに得意ではないようだ。顔の表情も身体の動作でさえも感情は何ら反映されず、声に至っても平坦、もしくは機嫌の悪そうな声しか出せない。
だが、外に表現出来ないからといって、喜びや楽しさ、感動が内に湧いていないわけではない。
イェシカはウルリクに出会って、そう思うようになった。
そして、自分がこの力を持っていて良かったと思った。
ウルリクの心を知ることができて、良かったと思った。
「ウルリク様、今日はお付き合い下さってありがとうございました。とても楽しかったです。ウルリク様も楽しんでいただけたようで良かったです」
そして一通り庭園を見終わった時、イェシカは微笑みを浮かべてウルリクに感謝の言葉を述べた。
最後に、彼が楽しんでいたことが伝わっていたということを告げて。
その時、今日一番に“嬉しい”といった言葉では表現しきれないような、ウルリクの春のような感情が共鳴される。
イェシカが伝えたそんな言葉を一番に喜ぶ彼に、イェシカは一層深い笑みを向けた。
午後は仕事があるというウルリクと別れ自室に戻ったイェシカは、先程庭園から摘み、花瓶に挿した花を窓辺で眺めていた。
淡いピンクの暖かみのある色のその花は、まるでウルリクの心のようであった。
ウルリクのように感情を表現できない人は誤解されやすい。自分が傷ついたり、誤解によって他人を傷つけてしまうこともあるだろう。
それでも、心にもないことを取って付けたように口に出したり、偽りの感情を表現する者よりはずっと良い。
イェシカは窓ガラスに映った自分の顔を眺めた。
仮面のように貼り付けた微笑み顔がこちらを向いている。
何も嬉しいと思ったり、楽しいと感じたりしているわけではないのに。
「“心のない人”は私の方だわ」
一人きりの部屋で無機質な声で呟いたイェシカは、そっとカーテンを閉めた。
***
子供の頃から心の声が聞こえたイェシカであったが、屋敷の者には恵まれていた。イェシカの家族は心優しく、皆、イェシカを可愛がってくれた。態度としても心の声としても。
すくすくと育ったイェシカは10歳になり、パーティーや社交界に参加するようになっていった。これまでとは比べものにならないくらいの多くの人に触れ、様々なことを学んだ。
イェシカは人の心の声が聞こえるため、相手の望んでいることが分かり、それに応えるうちに人気者となっていった。それと同時に、そんなイェシカを妬む者もいた。
笑顔の裏で、心の中では酷い罵声を浴びせる。思ってもいない賛辞を述べる。嫌っている者に好きだという。
そんな人間の本性に対面したイェシカは大いに傷つき、これ以上傷つかないために心を閉ざした。心の中で何を言われたとしても動じず、何も感じなくなった。
薄笑みを浮かべて相手の欲しい言葉を紡げば、相手の心の声は大概好意的であったので、そうすることがイェシカの癖になっていた。
いつだって浮かべることのできるこの薄笑みは無表情と同じ。
感情に揺さぶられて現れた笑顔ではないのだから。
何も感じないように生きてきて、いつの間にか感情といったものがどういうものが忘れていた。
もう、感じなくても良いと思っていた。
それなのに、イェシカはウルリクと出会って、共に過ごすうちに、感情がどういったものかを再び教えられた。
ウルリクと一緒に本を読み彼が物語りに心を打たれると、その気持ちがイェシカにも流れ込み感動したような気分になる。
ウルリクと一緒に食事をとり、同じ物を食べている時、彼が舌鼓を打ち命の恵みに感謝していると、イェシカも“美味しい”と、胸が温かい気持ちになっているような気がしてくる。
ウルリクの中で沸き上がった感情が、イェシカの感情だと錯覚する。それは自分の感情ではないことは分かっている。
それでも、彼の感情と共鳴していることを心地良いと感じていることは、紛れもない自分の心だった。
***
「……どうかなさいましたか?」
ウルリクとイェシカは寝室を共にしている。1日の終わり、ベッドに横になりながらその日にあったことを話す。
といっても、声を出しているのはイェシカだけなのだが、ウルリクも心の中でその日あった面白かったこと、感動したことを思い返す。
それが日課となっていた。
いつもはベッドに入ると、そのふかふかさに満悦し、話が楽しみだと上機嫌な気持ちが伝わってくるのだが、この日はウルリクにしては珍しく、落ち込んだ感情が流れてきた。
彼の心の声に耳を寄せると、どうやら今日の会議で先の戦争で得た、ウルリクの戦果の話題になったらしい。
そして、周りの者達はウルリクを賞賛し、国の勝利に執着する、他を顧みない非道さに感嘆の声を上げたという。心の声が聞こえないウルリクだが、本心では自分のことを恐れ、罵っていると分かるような態度で。
ウルリクは先の戦争でその圧倒的な力を持ってして、一瞬にして敵の一個隊を壊滅させた。しかし、それはこれ以上国民への被害を出さないための苦肉の策だった。
ウルリクはその動かない表情から察されることはなかったが、敵とはいえ他人を傷つけるこの選択がとても辛かった。
国のためとはいえ、傷つけた人々に対して罪の意識は消えること無く、心を痛め続けていた。
味方である自国の人間から恐怖の目で見られることも、苦しかった。
そんなウルリクの心の声が聞こえた。
苦しみ、悲しみ、後悔、自責の念などの深く思い彼の感情が伝わってきた。
泣きたいのに泣けない。泣くわけにはいかない。
それでも、涙を流す彼の心がイェシカに共鳴された。
「……何か、お辛いことがあったのですね。私には、ウルリク様がお辛そうにしているのが感じられます。悲しくて、苦しくて、どうしようもなくて押しつぶされてしまいそうな程なのですね。……その気持ち、私にも一緒に背負わせていただけませんか?」
イェシカは隣に横になるウルリクをぎゅっと抱きしめる。
その言葉はイェシカの本心からの言葉だった。
イェシカはウルリクのあたたかで豊かな感情が好きだ。そんな感情を一緒に感じさせてもらってきた。
でも、それだけではなくて、彼の感じる悲しみや苦しみも全部知りたい。ともに感じたい。
それに、彼のそんな気持ちを少しでも代わりに請け負えたら。そんなことを思って。
ウルリクから驚きの感情が伝わってくる。
心の声も出ないほどに。
そして、だんだんと驚きで混乱した気持ちが消え、悲しみや苦しみの感情も薄れていき、あたたかな感謝の気持ちが伝わってきた。
(……ありがとう)
今にも泣き出しそうな、彼の声が聞こえた。
でも、その涙はきっと虹の架かった空に降り注ぐ、あたたかなお天気雨のようなものだろう。
だからもう大丈夫だ。
ウルリクの腕がそっとイェシカに回される。
そして、イェシカのことをぎゅっと優しくも力強く抱きしめた。イェシカにウルリクの温度がよりいっそう伝わった。
「イェシカ」
耳元でウルリクの声が聞こえた。
心の声ではない、彼の少し低く、それでも氷のように透き通った肉声。
そんな声でイェシカの名前を呼んだ。その声に続く言葉はない。
それでも、イェシカにはちゃんと聞こえた。
(……好きだ。大好きだ。愛してる)
そして、ウルリクの胸が燃えるような、それでいてふわふわの毛布で優しく包み込むような、そんなあたたかい感情が伝わってきた。
イェシカの心臓もどくん、といつもより早く、強く脈打ち、胸が熱くなってくる。そんな気持ちが感じられた。いつもの共鳴するようなあたたかな感覚。
だが、少しだけいつものものとは違ったような違和感を覚えた。
(……違う。これは違うわ。ウルリク様の感情は別でちゃんと感じる。同じようでいて、少しだけ違う感覚。これは、私自身の感情なんだわ)
ウルリクのイェシカを好きだという感情。
イェシカもウルリクに対して、それと同じ感情を持っていることに気が付いた。
イェシカはウルリクを好きだという自分の心に気が付いた。
「……ウルリク様。私もあなたのことを愛しております」
ちゃんと、あなたの気持ちは伝わっていますよ。
そんなことを伝える気持ちで、言葉を紡いだ。
そして、心を無くしていた自分の中に芽生えたこの感情が伝わってほしい。
そんな想いを込めて。
イェシカは冷酷魔術師の妻となり、彼の心を知り、そして、自分自身の心を知った。
お読み頂きありがとうございました!
ウルリク視点と続きの話を始めました。
こちらもよろしくお願いします↓
【連載版】冷酷魔術師の妻となり、心を知る
https://ncode.syosetu.com/n4581gl/