7. 『左眼が苛まれる』
「お兄…ちゃん、……」
「…ん」
牛悪鬼との一悶着が終わり大きく一息ついていたアルト。そんな彼のところへふいに声をかけられた。目を赤くしているミナがヨタヨタとした歩でアルトに近づきその場の様子を伺って、
「……んんと、あの」
「あぁ、もう大丈夫だぞ」
牛悪鬼に対しビクビクしながらミナはゆっくりと足を進める。
その様子をアルトは見かね、心配ないと柔らかく告げた。
「終わった…の?」
「あぁ、終わった。もう、こいつは動かねえよ。」
「ん…………」
まだ声を震わせながらもミナはたよたよと歩きアルトの元へ。両手を胸に押さえつけながら、ゆっくりと彼に近づいて、
「わっ………!」
「うぅぅ、ひっく、うぇぇん」
急にミナが腰を下ろしているアルトの胸元へひたりと埋まった。
何事かとアルトは思ったが、ふと咽び泣く音が胸元から聞こえてくる。ポツリ、ポツリとと雫が垂れたことからミナの心内が分かり、
「そうか、怖かったよな。悪いな。さっさと倒せなくて…」
「怖かったよぉ。こわがったぁぁ。うぅ。こわ…かった。」
「………すまない。怖い思いさせちったな」
「ううぅぅ…」
ミナはアルトの胸元でむせ返るようにすすり泣いた。まだ幼く小さな女の子だ。怪物に喰われかけた時などは、とてつもなくたいそう恐怖しただろう。
本当に無事で良かった。
アルトは泣きじゃくるミナを柔らかく受け止め、優しく頭を撫でてやる。こんなことしかできないが、少しでも落ち着かせ安心させるように。
「大丈夫だ、もう」
「う……ん…」
震え声ながらもアルトの言に応えるミナ。それに彼は朗らかで柔らかな笑みを浮かべる。
すると、
「お兄ちゃん…も、無事、で…よがった…」
「…ん?」
つと、胸に埋まりながらもミナがそう呟いた。
彼女のその小さく言った発言はアルトを気にかけた言葉でもあり、
「…俺を心配した、のか?」
「心配した。やられちゃ嫌だった。よか……った」
「………」
全く、あんなに怖い思いをしたというのに。恐怖に包まれてもいい場面だ。
だのに、この子はアルトのことを案じている。まだこんなに小さい女の子が。
シクシクと胸元で咽び泣くミナを、穏やかな眼差しで見つめるアルト。そして彼は軽くミナの頭をさすり、
「…強い子だ」
と、そう伝えてあげた。
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「あまり、見るもんじゃない。それよか、ほかの人と合流するぞ。」
「……ん」
ある程度、ミナの涙が収まりその場から立ち上がった二人。
横には牛悪鬼の無残な姿が転がっており、それに目を向けたミナをアルトは颯と忠言した。
ミナの視界を手で覆い、死体を見せないようアルトは彼女の目を遮る。
そのはず、その場に屍として転がっている黒き死体は中々グロテスクなものだ。血だらけで首と胴がはなれた醜怪な様。正直アルトでも気分を害す。まだ幼い女の子がじっと見ていいものじゃない。
「とりあえず、ここは離れるか。で、牛悪鬼がまだいるかどうかを知りたいとこだが…」
あたりを見回しながらアルトはそう言い、その場から遠ざかる。そして女の子を連れほんの少し黙考した。
一頭を倒したところでまだ安全かどうかは分からない。いったいこの集落に何頭の牛悪鬼が襲来したのか、
「……3びき…くらい」
「ん?」
「多分3びきくらい…いた気がする」
すると、アルトがうーんと考え込んでいたところに不意に小さく言葉が告げられた。
「3匹って、牛悪鬼がか?」
「うん、さっきの黒いの。ちょっとしか見えなかったけど、でも…3びきくらいはいた気がする。」
アルトの言葉を察したか、ミナはそう呟いた。
声音は震えていたが、少しでも役に立つことを言おうとしているのがわかる。恐怖に苛まれ泣き叫んでもおかしくない年頃なのにこの子は懸命な目つきを浮かべていて。
「そうか。3匹くらいか。ありがとなミナ。教えてくれて、だいぶ助かるぜ」
「……うん」
涙したこともあり目は赤みのあるままのミナ。しかし自分の言ったことが褒められたためもあり、ぱあっと口を綻ばせ笑みを浮かばせた。
そんな彼女に対し、アルトは柔らかくミナの小さな頭をさすり、
「じゃあ、まずは安全な場。集落の人達がどこにいるか、知りたいところだが。ミナ、みんながどこにいるかわかるか?」
アルトはミナへ村の者たちの居場所を聞いた。
安心するのはまだ早い。牛悪鬼がまだ複数いることがわかった今、この集落の危機はまだ去ってはいないのだ。まずはこの子を集落民たちに引き渡すのが先決である。
アルトの言葉を聞いたミナは「え?んー」とちょっぴり首を傾ける。けれども「あっ!」と顔を上げ、燃えている家々の方を向くと、
「えと……あっちの方…から、…反対側だと思う。」
ミナが後ろを向いて指を刺した後、それから反対側に目を向け指を刺す。その様子をアルトは見て、「なるほどね」と呟いた。
ミナが「あっち」と言い、指を刺した方角。そこは、おそらく最も炎が燃え上がっている場所だった。ほとんどの家が火の手に包まれており、見るだけで目が焼けるよう。
確実に安全地ではないのは分かる。なんなら極めて危険な場所だ。
「だから、集落の人達は炎から一番遠い場所にいるってか」
「…そうだと思う」
アルトは業火に包まれた光景から反対側を向き、行く方向を見る。
とりあえず集落の誰かにミナを渡し、そこから残りの牛悪鬼を倒していくのが合理的。
そう考えて為すことを頭で決め、アルトは歩みを進めようとして。
ーーーーー刹那、
けれども、それは、なんとも無いその瞬間だった。
「……つっ?」
ふいに自分の左眼に違和感が起こるのを感じた。なんかチクリとするような、軽い痛みが眼に走ったような感触がして、
「…痛っつ。……なんだ?」
「お兄ちゃん?」
「…いや、なんでもない。ちっと眼にゴミでも入っ………うぐっ⁈」
ただの違和感かと思った瞬間。
途端に、あまりにも唐突に眼の痛みが異常なほど急激に増した。急な痛覚にアルトはたまらず自分の左眼を勢いよくガッと手で押さえつける。
前兆もなく突発的に左眼に痛みが、否、とてつもない激痛がひびき始めて、
「痛って⁈なん…がぁッ⁈」
「お兄ちゃん⁈どうしたの⁈なんか変だよ⁈その眼は?」
「いや、…ぐっ⁈がああっっ!!」
「お兄ちゃん!」
唐突にアルトは目に手を強く押し当てては叫び声をかき上げる。
ミナはアルトの急な変状に心配げに大きく声をかけるが、しかしその言葉は彼には届かないようであり、
「痛え⁈目が…いづっ!あああぁぁぁぁ‼︎」
手で強く左目を押さえ込み、異常なまでに叫喚をかき鳴らす。事実、今アルトの眼は壮絶な痛撃に襲われていた。
思わず、地に膝をつく。かろうじて体を支えるが痛覚が夥しいほどに目まぐるしく迸る。
刃物で目ん玉をほじくられているような、何本もの針で瞳を突き刺されているかのような、惨虐さを連想させる感覚。
目玉付近の血管が凄まじい音を立てて拍動していた。痛みの連鎖と相まって異常なまでに眼が熱い。
苦痛で激痛で、鋭い痛みがアルトの左眼を苛んでおり、たまらずアルトは慟哭を発する。
「がああああぁぁぁぁっっ!」
何の前触れもなく響き渡る激痛。
なぜこう痛むのか分からない。いや、そんなことなんてどうでもいい。とにかく今は左眼が痛い。ただ痛すぎて、痛過ぎる。響き渡る痛覚。異常過ぎる、異様過ぎる、容赦のない激痛の連鎖。
強く、重く、鋭く、焼け火ばしを与えられたような苦しませる痛み。
刀で刺されたように痛い、矢で眼球を貫かれたように痛い、直接目の中に指を突っ込まれたように痛い。
とても痛くて、強すぎる痛みで、痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて、
「ああああぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!」
「え⁈血がっ⁈お兄ちゃん!」
苦痛に苛まれ始めたアルトを案じ、必死に声をかけていたミナ。だが、アルトの体に明らかな異常がきたしていることに気づくと、思わず慌てふためいてしまう。
激痛の根端となっている箇所。アルトの左眼から赤い液体が滴っているのが見てとれ、
「くっそ。痛ってええぇ!ぐああああぁぁぁっっ!」
血涙がアルトの左眼から流れ出ていた。滲み出た赤い液体は顔の左側と、押さえつけていた片手に染み渡り、血が至るところに付着した。
「お兄ちゃん!血がっ!いっぱい!…」
「くそっ、いっ!あああぁぁぁっっっ!」
「やっ、えと!えと!どう、しよ……お兄ちゃん!」
「つっっ!ミナ…なんか、布とか…ないか?ぐああぁぁっっ!」
過激な痛み、猛烈な苦しみに耐えながらアルトはミナにかすれ声で要する。
「布?あっ…そっか!血を止めなきゃ!えぇっと、えぇっと、…そうだ!」
ピンと声を跳ね上げたかと思うと、ミナは自分の身にしているスカートの端をビリビリと引きちぎった。それなりの長さにし、「はいっ!」とアルトに手渡して、
「ぐっ、…いいのか?それ、使っ、がぁっ!ぐううぅぅっっ!」
「いいの!いいから!はやく使って!」
わざわざ衣服を破りそれを使わせてもらうことに対してアルトは懸念するも、ミナは関係ないと言い張りそれを差し出す。痛がるアルトを思慮しては手に持つ布を押しつけた。
「はやく!」
「すま、ね…ぐうぅ!」
差し出されたスカートの切り端を受け取り、それを思いっきり自らの左眼に押さえつける。淡いクリーム色の布が徐々に赤い血に染まっていった。
「がああっっ!くっ、!うううぅぅぅ!」
「大丈夫⁈血がっ!」
「…いい。平気、…だ。あがっっ⁈ぐうぅ…!」
「痛いの⁈眼は?血はとまる⁈」
「…いい、大丈夫。こうすりゃ、ぐっ⁈………いいんだ」
布で無理やり止血しながらも、痛みの連鎖は止まらない。所々で激痛に反応するアルトがその証拠だ。
ミナはアルトの様子を見てすこぶる心配するが、彼は大丈夫だと無理をしながら豪語するのみ。
与えられた布を頭にやり常に痛がる反応を示しながらも、左眼を隠すようにクルクルと覆ってなけなしの応急措置。
「大丈夫…なの?それで?」
「いい、平気だ。痛っつ!がぁっ!ぐっ…」
「まだ、痛いのあるの⁈えと、無理しない…ほうが?」
「心配すんな。少し痛みは……ひいた。痛っ!くそっ」
「でも…」
「時々、痛むくらいだ。もう、最初ほど痛くねぇ。」
「…うう……うん」
激痛が弱まったと罵り、アルトは憂いげなミナを説得する。
「痛いのは?」
硬めを布で覆っただけの処置。彼の声音から明らかに無茶をしているのがミナにはわかった。
心配さを装ってミナはポツリと呟くが、アルトは「平気だ」とのたまうだけ。
憂心さは未だに失せれそうにない。
けれども、アルトは左眼を手で力強く押さえながらもその場からすっくと立ち上がる。布に血が滲んでいるのが分かった。手にも赤い血がまばらに付着している。見るだけでも痛々しい。
しかし、彼は片目でミナへと眼差しを向けると、
「んじゃ、ちゃちゃっと行くぞ。」
「……うん。……え?ひゃああっ?」
それまで憂いな眼差しを向けていたミナ。が、急に可愛い悲鳴を上げてはその場で頬を赤らめてしまう。
なぜなら、「行くぞ」と言ったと同時にアルトがミナの小さな体躯を腕で抱えたからであり、
「私は、大丈夫だよ!歩けるよ?そんな担がなくても、」
「いーや、道を歩いてちゃ化け物と対峙した時危ねえからな、飛ぶぞ?」
「飛ぶ?……え?…きゃあああああ⁈」
ミナのポカンとした発言。それにアルトは特に応じずその場から地を蹴り、空を飛んだ。