4. 『業火に染められて』
「………っ」
頭蓋を軋む感覚が意識を現実へと引き戻した。
倒れ伏していた体勢から立て直し、腰を地につけ少し呻いた。
座ったままクシャリと髪をかき分ける。眉間に皺を寄せながらアルトはパチパチと目を瞬かせた。
白い空間から離脱するときの、急に身に響いた震撃と痛感覚。
あの異常な感触を未だに体が覚えていた。
否、覚えているだけで今は総身に痛みは走っていない。
アルトは自分の手を握っては開きひとまず体の感触を確かめる。
何か左眼に違和感を感じるが、とりあえず体調は正常と言っていいだろう。
「………」
自分の身がある程度万全な状態であることを確認し、アルトは周りへと目を凝らす。
「…どこだよ、ここ」
周りを一瞥するも辺りは何も見えない場。
さっきまでの真っ白な空間とはうって変わって、ここはとても暗い場所のようだ。
暗闇に目が慣れず、真っ暗な光景が瞳に映りだされていた。
「どうなってんだ?」
女神シリエスが言うにはここは何年か前の世界のはずだ。未来から飛ばされ、アルトは過去へとやってきたはずなのだが。
しかし、今自分のいる場所が世界の一体どこなのか些も把握できない。
「…ん」
状況確認をすべくグルグルと目を見回す。すると、だんだん暗闇に眼が慣れてきたのか、ぼんやりと周りが見えるようになってきた。
隙間から少々の光が差し込んでいる事も相まって、おそらくここは物置庫か何かと推測できる。
「地面にある土の感触。立てかけてあるあれはクワ?スコップもある……どっかの村の集落か?」
目を凝らしながら周りをパーっと見て、置かれている物々を確認。
建物が木の素材でできている事からここがさほど発展していない田舎村の物置庫内だと想定づけれた。
「…お?」
ふと、キョロキョロと見回しているとアルトの目に止まった物があった。それは物置庫の壁に掛けられてあったキラリと煌く短刀。
アルトはそれを手にとる。護身用として用いていても良いだろう。
「で、ここはどこなんだ。つーか、さっきからするこの音はなんだ?」
手にした短刀をクルクルと回し使用感を確かめ、アルトは外からする音に気を向ける。
何やら物置庫の外が騒がしい。不可解な人の声量と激しく物がぶつかっているようなバチバチとした噪音。
「………」
アルトは短刀を手にし、物置庫の扉に手をかける。
ガララっと開き、この音の原因は何なのか外の様子を拝見し、
「………な⁈」
物置庫から出たアルトは、その光景に思わず目を見張り呆然と立たずんでしまった。
彼の瞳に映り込んだもの、それは集落と思われる建物の数々が業火に焼かれている光景が目の前に広がっていたからであり。
「…なんだよ、これ…」
空は闇に包まれているため今は夜だろう。しかし、そんな暗闇の空とは対照的に、真っ赤に燃え上がる炎の数々。
バチバチと音を鳴らし、焼かれたことによって死した木々の建物。崩れ落ちた多くの残骸。炎上している家々。
初っ端、いきなりの惨状にアルトは立ち尽くしたまま渇いた声で呟く。
目を覚まし扉を開けたら、そこは業火に焼かれた集落地でしたなんて冗談でも笑えない。
「あ?……………なんだ、あれはっ?」
と、燃ゆる業火に目を奪われている最中、唐突に視界の中に入り込んできたものにアルトは刮目してしまう。
特に意識していなくとも自然と目に止まってしまった。
ノソノソと黒き異端物が歩いている。人や動物などとはかけ離れた異形の存在が何食わぬ顔でそこにいた。
全くもってこんな人の集落には似合わない、見た目から畏怖さえ感じさせる、頭骨から二本の角をはやした、
「あれは……牛悪鬼?」
アルトは集落を彷徨いている者が何なのかある程度、遠目ながら類推する。
『牛悪鬼』人間とは違い魔族に分類される、二足歩行で頭に角をはやした魔物。闇夜のような漆黒の肌を身に包み、鋭爪と剛牙を持ち合わせた人を襲う化け物。アルトの二倍はあるかと思われる体躯と牛頭人身の怪物。またの名を『ミノタウロス』。
「何でそんなんがこんなとこに………いや、襲われてんのか…?」
人の血肉さえ主食にする魔のものだ。
そんな存在がこのようなちっぽけな集落を歩いているとはつまりはそういうことだろう。
「…ちいっ!」
名も知らぬ、知人もいない村の悲惨な現状を理解したアルト。心が焦燥感に覆われた。
瞬間、短刀を握りしめ物置庫から飛び出し地を滑走する。
全くなんてとこに飛ばしたのだ、あの女神は。
世界へ戻り、目覚めた場所がいきなり戦地の真っ只中とは落ち着いている猶予もない。
「…くそっ。この集落、だいぶ牛悪鬼に蹂躙された後か!」
集落内を駆け、周りに目を遣りながらアルトは炎が業業と舞っている現状に文句を垂れる。
すると、
「……うぐっ、えぇん………」
「誰だっ⁈」
突然、耳に聞き慣れない咽び泣くような声が響いた。
アルトは足を止め、声のした方に目を向ける。
と、炎と瓦解した屑木の中、建物と建物の隙間に小さな影が見えて、
「……子供?」
まだ幼くちっぽけな力しか持ち合わせていないような、六、七歳あたりかと思われる淡い茶髪の女の子。そんなか弱い存在が一人で暗闇に蹲っているのが目に入り、
「…ううぅ。」
集落の子かとアルトは思い、タタっと駆け足で近寄る。腰をかがめ、目線を女の子と同じくらいにし、荒げないよう小さく声をかけて、
「…大丈夫か?他の人達は?お前一人か?」
「うぐぅ、私一人だけ逃げ遅れて、……お母さぁぁぁん………」
「おい………⁈」
涙を流し破顔する、女の子。
一人残されたという現実と集落が襲われたという実状に彼女は恐怖に包まれている様子。
顔をくしゃくしゃにし、この場にいない自身の母に縋っている。
急に目の前で泣き叫ばれ、思わずアルトは動揺する。何とかこの子を安心ないといけないが、彼女は「お母さん、お母さん」と、呟くのみだ。
「くそっ、どうすりゃ………………………なっ!」
しかし、女の子を落ち着かせようとあたふたしていたところ、不意にアルトの視界に黒き影が入り込んだ。先ほどから徘徊している、巨大な体躯の牛悪鬼が近くまで来ているのが見てとれ、
「…まずい!」
アルトは牛悪鬼がこちらに近づいてくるのを察知すると、女の子を抱き抱え、怪物から見えない民家壁際の死角へと即座に逃げ込む。
今の状態で標的にされたら厄介極まりない。
「タイマン張るなら上等だが、他の状況が何も分かってなさすぎる!」
集落の民達はどうなっているのか、牛悪鬼は何頭いるのか、この状況じゃ判然としない。一頭だけならまだしも、もし二頭以上を相手にするとなると苦戦を強いられるだろう。ましてや女の子を守りながらじゃ、いささか無理があるというものだ。
さらに付け加えるならば、アルトの今の戦いの力量はどれほどなのかということ。
「…今のところ、何か失くなった感じはねぇな。」
建物の壁際に隠れながら、アルトは小さくそう呟いた。
女神から言われた代償のこと。時を渡るかわりに何かを失うと告げられたのだが、今のところは失ったものは感じない。両手両足、両方の目、五感全てはもちろん、体内の臓腑の感覚に至るまでとりあえずは異常なしだ。
「まあ、いい。むしろ好都合と考えろ。今はあいつをどうするかだ。」
ギリっと歯を軋ませ、チラリと気づかれないように牛悪鬼を一瞥する。黒き異形の存在は未だにノソノソと集落内を彷徨いているようだ。
「…お兄ちゃん、誰?お母さんは…どこ?」
すると、アルトの胸元から小さく声が高鳴った。腕に抱いている女の子が泣き顔を見せ震えながら上目でポツリと呟いた。
「ん?俺は、アルトだ。ごめんな。今はお母さんはいないんだ」
「…えうぅ、お母…さん…」
アルトの言を聞き入れ、再び涙が溢れ出してしまう女の子。
体が震えているのがわかった。両の手のひらがビクビクとしており、ギュッと目を瞑っては「怖いぃ…」と嗚咽まじりに呟いている。
「………」
それを見るやアルトは、居た堪れない気持ちを向ける。この子にとって今の状況は怖くて震えて仕方ないのだろう。
「大丈夫だ…」
泣きすする彼女に対しアルトは強い眼を浮かべ、ビクビクと震える女の子の手を強く握った。それから怯えをなくすように、泣いて破顔する彼女の頭を強く優しく撫でてやり、
「安心しろ!あの化け物は俺がぶっ倒す。俺はこう見えて強えんだ!」
「…ぇ?」
咽び泣くのを止め、女の子はアルトを見つめた。相変わらず、眼には滴る涙を浮かばせている。
けれどもそこには驚きと少しの望みの感情が垣間見えており、
「お母さん、に…会える?」
「あぁ!すぐぶっ倒して早く母ちゃんに会わせてやる!」
「本当?」
「本当の本当で本気の本気で言ってるんだ!だから……」
安心しろ…と、この子に伝えてあげたかった。女の子の怯えを少しでも和らげようとしたかった。
しかし、そんな一言さえ言うことも今の状況はままならなくて、
「「⁈」」
刹那、アルトと女の子の元に巨大な剛爪が降り注ぐ。人間の頭蓋など優に握り潰すかとも言える漆黒の巨大な掌。それがアルトの脳天に差し迫ってきて、
「……っ!っらぁぁ!」
危機が迫った瞬間、アルトは盛大に民家の壁を蹴った。女の子を抱き抱えながら横っ飛びをし、巨爪の餌食から逃れきる。危機一髪、紙一重といったところか。一瞬の判断、否、迫りくる危機に対し反射的に体が動いたことによって命からがら生き延びた。
地面に派手に転げながら回避したため、多くの土が体にまとわりついてしまっている。けれどもそれも苦労した甲斐があったようであり背中から落ちるようにしたことで女の子に怪我はないようだ。
「…ってぇ。くそっ。いきなりかよ。」
片膝を地につけ軽く土や泥を払い除けながら、唐突に襲ってきた牛悪鬼に目を向ける。
黒き異形の化け物、アルトはそれを見て半笑いながら「まじかよ」と思わず口をこぼしてしまった。
発達された牛悪鬼の鋭利な爪。それが容赦なく民家の壁を抉っていた。漆黒で巨大な剛爪は木材の壁など薄っぺらい紙と同じだとでも言うように。
「…お兄……ちゃん」
不意にギュッと袖を掴まれる感触があった。
ガタガタと震えながら女の子がアルトに寄り添う。異形の怪物を目にしたせいか、涙を浮かばせており声音が震えていた。
「心配すんな。こっちへ」
そう言いアルトは牛悪鬼の目を盗み、タタっと素早く駆ける。
入り組んだ家々の道を駆け抜け、めぼしい建物を見つけると、女の子を抱えながらまだ炎が燃え上がっていないほんの小さな民家の中へ入り、家内の物陰にソッと女の子を座らせる。
それからシーっと静かにするように口元に指を添えてジェスチャー。
彼女はアルトの仕草に小さくコクリと頷くが、いかんせんまだ幼い女の子。恐怖の根源である牛悪鬼を見たせいか、まだ怯えが止まらない様子。
「……うぅ」
「心配するな。」
顔を落とし涙を浮かべる彼女にアルトはにっと笑みを見せてやる。そして、再び頭を撫でてやり、
「大丈夫だ。安心しろ。あいつは俺がぶっ倒すって言ったろ?」
落ち着かせ、ほんの少しでも怯えをなくしてやろうとアルトは軽やかな口調で少女に優しく告げてあげる。
「お前は……名前はなんて言うんだ?」
「ミ……ナ…」
「そうか。じゃあミナ。少しの間、ちょっとここで待ってれるか?」
「……う……ん」
「強い子だ」
アルトの言に女の子「ミナ」は小さく震え声ながらに呟いた。彼はそれに対して笑みで応答し、ミナをまだ燃えていない小さな家屋の物陰に隠れさせる。
それからアルトは、民家の中から燃える惨状の中に駆け出た。向かう先は歩く牛悪鬼の元だ。
「ゴルルゥゥ…」
「よお」
黒き怪物は同然とした様子でノソノソと地を歩いていたためすぐさま見つけることができた。
牛悪鬼は目の前に現れたアルトを見るや、不快な声を響かせ威嚇する。
対してアルトも目つきを鋭くし前方に佇む化け物に盛大に睨みをきかせる。
「さあて、」
立たずみ短刀を構え、腰を低くし戦闘体勢。
女神に生還させられ、問答無用いきなりの死線の場だ。
試し斬りも準備も何もしていないというのに、初っぱなから容赦もない。
漆黒の牛悪鬼はフゥフゥと鼻息を荒げている。
人間という主食を目の前にし、とても興奮している様子を見せていた。
「すぐ終わらせる」
小さな家内にいる今も怯えているだろう彼女にアルトは一言呟く。
そして短刀を強く握りしめ、敵に向かって地を駆けた。