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語る屍

作者: 土師鯨

 兄の遺影を眺めていると、こんな顔をしていたんだな、と他人行儀な感想がぽっと浮かんだ。家族の誰とも似ていない儚い微笑みは、まるで我々を許しに降臨した神のように慈悲深くさえあった。鮮やかな花に囲まれて、兄はただただ静かに眠っていた。

 遺族という立場で両親と義姉は朝からあちこち走り回っている。お寺の住職と打ち合わせ、葬儀屋と段取りを合わせ、焼き場に予定の確認、集まった人達にお礼を述べ、食事の用意に明け暮れた。私はただぼんやりと兄の遺影を見上げるのに徹していられた。姉の姿は見えないけれど、お寺のどこかに居るはずだ。

 お経を読む声がいつからか始まっていたのか、気付けば低くて淀みない声がどこからか流れている。それに合わせて木魚がぽくぽくと、間の抜けた音で合いの手を入れている。集まってきた人達でざわつく式場は私の遙か後ろにあるようで、どこまでも遠かった。私に声をかける人は誰もいない。

 花に囲まれた檜の箱で眠るのはどんな心地だろう。兄の背丈にぴったりと設えてもらい、狭くなければ広くもない。兄一人がちょうどに収まる箱からは、ほんのりと檜と死臭がした。寝顔はぴくりとも動かない。恐ろしいほど真白い肌の下では、血管も筋肉も細胞もなに一つ生きてはいなかった。精密な人形が横たわっている気さえした。鼻には綿が詰まっている。

 兄の寝顔を見ていたら、隣に姉がやってきた。黒いフォーマルな喪服にブラックパールのネックレスだけのシンプルな装い。持っているバックは私のと型が同じで、留め具にパールが付いているのが特徴だった。姉はなにも判ってない子供みたいに、辺りをきょろきょろと見回してから兄を眺めた。泣いた様子もなく、耐えているわけでもなく、長女として家族を支えなくてはと決心したわけでもない。ふらりと立ち寄った美術館で知らない画家の絵画を観賞している目だった。今は彫刻作品があるから見ている、といった具合だ。

 私はなんと話しかけるべきか悩んでいた。二十余年間、私達はまともに言葉を交わしたことがない。どうにも姉は視界に捉えるのが難しく、声も遠くて薄い。周波数を合わせている最中のラジオみたいに、ノイズが混ざりもした。だから家族で旅行に出掛けたり、食事をするのがいつまでも苦手だ。よそよそしく愛想笑いを、ぼんやりともやがかった人型に向けるしかなかった。姉は私に興味がないようで、それだけが救いだった。

 それでもなんとか姉ときょうだいらしくなろうとし、幼い頃は様々な方法を考えた。姉の好物を積極的に食べ、部屋に並ぶ本をこっそりと読み、髪型を真似て、習い事も一通り通った。なにを知り、学び、見ているのか知りたかった。共有すれば姉との間にあるなにかを埋めて足場とし、近付けると思っていた。信じていた。姉と妹という女同士で、女子特有の会話や買い物や遊びに行けると疑わなかった。私はともて幼かったのだ。

 姉を通して見ようと持った物はことごとく、姉のように私の手から素早く離れていった。持っている感触はおろか、匂いも味もなく、当たり前に目には映らなかった。なにも考えなければ、それは、酷く簡単に捕まえて手の中に収まるというのに、姉の影を求めようとしただけで瞬間、消えてしまう。さよならを言う暇もない。

 唯一、姉の存在を確認できる場所があった。兄の向こう側、傍にいる時だ。川底で開いた石の穴から見える風景の中に、彼女は佇んでいた。初めてはっきりと見た姿は、夏の白いワンピースに縁の広い麦わら帽子を手で押さえていた。熱風が木漏れ日で柔らかくなり、緑の黒髪が揺れている。その目にはなにが映っているのか、同じ方角を見上げたけれど、青空に入道雲が立ち上るばかり。夏のよくある空が、姉の瞳を染めていた。


 兄はすっきりとした顔立ちで、特別整ったりしてない。本人は外見に拘る性格でもなく、それでもなんとなく人目をひいた。両親は誰にも似ていない兄に引け目を感じるところもあったそうだが、他人に揶揄されたこともなかった。兄の目元には祖父の面影が残って見えた。

 彫りの浅い日本人らしい目元こそ、兄の魅力であると感じていた。どこを見ても瞼を閉じていても、溜まった影は涼しげに吹き抜けていく。夏の暑さを癒し、冬の孤独を包み込む。常に潤んだ瞳は世界中の憂いを集めて作られていた。あの水晶体を通せば、底の見えない悲しみも慈悲も乙女の悩みも、たちどころに見抜いて重しを外してくれると信じていた。

 幼い頃、やっと幼稚園に通い始めた私は、小学校にランドセルを背負って行く兄の背中を見送った。その隣には姉が並んでいて、二人は仲良く歩いて行く。二人には会話らしい会話もなくて小学生らしさは皆無だったが、それが正しい距離であるのを知っていた。輪郭のぼやけた姉と、憂いを見透かす目の兄。私は物心がつく頃になって一番最初に、人と見えている世界が同じわけがないのだと察した。あの二人と私の見ているものが同じもののはずがない。初めて目覚めた自我だった。

 あの瞳を持った人は他に見たことがなかった。それは二十余年という、まだ短い私の人生の中で揺るぎようのない事実だった。兄を形成する卵子と精子がどうやって出会い、どのように細胞分裂を行ったのか知る由もないけれど、同じ人の遺伝子を貰っているとは信じられなかった。

 いくら同じ方角に目を向けたところで、私の目にはなにもかもが平凡な色を持ち、どこから見ても同じでありふれたものになる。特別心を揺さぶられたり、乱されたりしない。どんなものを見ようとも、ここでも発見できるものだったのかと、世界のどこかにはあると思っていたけれど、と淡々に受け入れる。昔から知っていた気もする。改めて意識が捉えただけで、新発見の感動はない。

 だが兄の瞳は違った。朝、目覚めた瞬間に世界が再構築され、時間が動き出す。窓から見渡す街は清々しい気持ちで兄の視線を受け入れると、今日もまたよろしく、と挨拶を向ける。道端に咲く花も、落とし物の帽子と手袋の片割れ…。それらが私も私もと潤んだ水晶体の輝きを心待ちにする。小さな声が集まって大きな波となり押し寄せると、兄は儚く微笑む。声のする方へと平等に視線を送る。

 どこまでも深い瞳。今はどこまで落ちていってしまったのか、瞼にはcloseが掛けられている。彫刻のように堅く閉ざされた薄い皮膚の下に収まったまま、焼かれていってしまうのだろうか。どこまでも見渡せる、世界で唯一の対の瞳。この世から消えてしまったら、憂いが溢れてしまわないだろうか。

 今ならまだ間に合う。睫を摘んで、蝶の羽を損なわないのと同じくらい慎重に扱えばいい。少しだけ持ち上げて眼球と瞼の内側に生じたほんの僅かな隙間に指を押し込んでいく。潰さないように、隙間を縫うようにして滑り込ませた指は、卵の卵白と卵黄をより分けるみたいにするりと眼球を捉えて落ちてくる。透明な体液でぬめるから、うっかり落とさないように気をつけなくてはならない。うまくいけば血も流さず、涙みたいな潤いをまとった瞳が二つ、私の手のひらでころりと転がる。

 これならなにも、もう寂しがらずに済む。閉ざされる恐れもなく、いつまでもどこまでも見通してくれる。姉の姿を見失わなくなって、なんともない夜に寂しさが襲ってくることもなく、行き場のないありふれたものが救われる。私は棺へと手を伸ばした。

「目玉に含まれるコラーゲンが美容に良いから食べなさいって、テレビで言ってたわ。」

 それまで黙っていた姉が突然に口を開いた。私は伸ばしかけた手を引っ込めて、左手で握る。そこに心臓があるみたいに脈打っていた。

「それは魚の話だったの。他に目玉まで料理する生き物って見ないから、代表的な物の話なんでしょうけど、私は中学時代に理科の実験でやった馬の目の解剖を思い出してた。同じ班の誰もやりたがらないから私がメスを持ったんだけど、どこから見ても目が合うのよね、あれ。だから真上から見下ろして、さあいざメスで切り込みを入れようとした時に、気付いたの。睫がね、数本ついてたのよ。睫って瞼についているのに、なんでここにあるんだろう、って不思議になったわ。馬の目玉には睫がついているのかと、そればかり気になってしまった。」

 じっと兄を見つめたまま、姉が淡々と話す。言葉は次から次へと溢れた。姉が私に話しかけてきたのは初めてのことで、どんな風に相槌を打つものか悩んでしまった。「そうなんだ」とか「ふうん」なんて、声に出したらそこで話が途切れてしまうのではと緊張した。私はなるべく空気を動かさないよう、ゆっくいと頷いた。遠くで聞こえていたざわめきと読経が、背後に忍び寄ってきていた。

「実験は無事に成功したけれど、私の中ではいつまでも馬と目があったままだった。まばたきのできない目の上で、睫が目の光をいっそう引き立てていた。この子の次に美しい目立ったの。」

 この子、と呼ばれたのが兄だと最初は判らなくて、私は棺の中に添えられた色とりどりの花を眺めていた。兄の身体から咲いているみたいであったが、どれも死んだ花だった。

 ぴたりと止まった声に、話が終わったのかと聞こうとしたところで葬式が始まった。押し黙った父と、何日も泣き続けている母と、ただただうつむく義姉が中心となって執り行われた。なんの支障もなく一秒の狂いもなく、兄は見送られていく。友人、仕事場の上司や同僚、義姉の家族、そして我々に。灰と化し煙になった時はどうやって雲の上の天国に魂が運ばれていくのかと想像してみる。兄を燃やすのは骨までも灰にし、灰すらも焼き尽くす炎がいい。


 式場から焼き場に移動して最後のお別れの時、母が一段と大きな声で泣き叫んだ。ホールに響き渡る声は反響して鼓膜の奥にまで貫いていきそうで、私は思わず顔をしかめる。泣き崩れて床に這い蹲る母は巨大な虫みたいに、兄を乗せる台車に縋りついた。ここまできても私には、母がどうして泣いているのか理解できないでいる。兄を殺してしまった罪悪感からか、二度と動かず話せず触れられないからか、声も聞けず笑い掛けることもなく骨という物質だけが残されるからか。時間です、という焼き場の職員が事務的に伝えると、父が母を台車から引き剥がして兄はとうとう分厚い鉄の扉に閉じこめられた。あれこそがあの世とこの世を分かつ境界に見えた。

 兄が燃えきるまで、私達は控え室で軽食についていた。ここでなにかしら胃に入れておかないと、この後も予定が詰まっている。気力を保つには食事を無理にでも入れておかなくてはいけない。年配の人達はお茶を飲みながらこっそりと、隠すようないやらしい雰囲気にならない程度の話をしていた。どんな子供時代だったとか、働く姿は立派で、なんてありふれた会話だった。

 そこにそれだけしか見いだせないことで、私は兄の目が既に失われたのだと悟った。青白くて冷たい炎が迎えに来て、さあ行きましょうと声をかける。瞼を焼き、睫が焦げつき、次に眼球が炎を見つめて、先に燃え尽きた身体の後を追う。残っていてと願う気持ちに申し訳なさを感じて、最後に一粒だけ涙が浮かぶ。蒸発の瞬間、もうこの世には骨だけが残される。

 二人の姉に挟まれて、私は巻き寿司を食す。舌に甘みが乗って、お米のでんぷんと混ざった。あちこちから出てくる昔話は重なりあって一つのざわめきになり、湯呑みをテーブルに置いたり漬け物を噛んだり座り直そうとして椅子が引きずられる音と馴染んだ。姉同士が言葉を交わすことは片時も訪れずに、焼き場の職員の女性が、兄が焼けたので集まってくださいと呼びに来た。

 炉前ホールでは既に兄が待っていた。台の上でなにも身にまとわず丸裸にされた兄は、真白くてか細くて、本当に兄かどうかも判らなくなっていた。かろうじて人の形を残しつつ散らばった骨。まったく知らない人が横たわっているみたいで、居心地の悪さを誤魔化すように視線を骨壺に移した。これはどこの骨で、ここは綺麗な形で残りました、と説明する声が仰々しくホールに響いて染み込んでいく。私は姉と二人で骨を骨壺へと収めた。首の辺りの、名前も知らない部分だった。

 葬式は厳かに、寡黙に、そして淡々と終了した。お寺の玄関には両親と姉が二人、私がぐずぐずと取り残されている。母は未だに涙をはらはらと落としているし、その後ろでは父が住職とお金の話をしていた。姉は壁にかかっている神様の絵を一心に眺めて、義姉はスリッパの爪先を走り回る蜘蛛を観察していた。

 父と住職の話が終わり、帰ろう、という空気に押されて寺を後にする。人通りの少ない緩やかでひたすら長いばかりの坂道を下りながら、顔にハンカチをあてた母が近付いてくる。

「今日はうちに泊まっていったら?百合子さんも、ね。」

 皺とシミだらけの顔の中で、錆びた桃色の唇はよく動いた。実家には両親と姉が三人で暮らしており、一人の私と一人になった義姉を呼びたがった理由は言わずとも判る。人数だけでも増やして足しにして、欠けた隙間を埋めたがっているのだ。これから実家で暮らしても良いのよ、と母はしきりに訴えた。この人は姉と義姉の仲が良くないのを知らない。見ようとしていない。

 義理の母とはいえ姑にあたる母の申し出を、どう返事すべきかと義姉は悩んでいる。ここで断っては母の機嫌を損ねるかもしれない。そこからうちとの繋がりが薄くなったら、義姉はどうやって兄に会えば良いのだろう。血の繋がりもなく、唯一のパイプであった兄まで取り上げてしまったら、本当の意味で一人になってしまう。

 かといって言葉のままに、ただ誘われるままに泊まるのも苦痛だ。疲れきった身体は泥のように動きにくくなっているのに、動かないわけにはいかない。母に全てを任せてもおけない。少なくとも食事と掃除や雑用をこなして、酸化し老いた身体を労らなくては。その中で、姉と同じ空間を共有するのが最も難関だ。話さない、目を合わさない、存在を認識しない、を徹底する。それでいながらご飯を用意し、洗濯物を仕分けなくてはならない。

 確かに母の言い分も尤もであったが、なにより母がこの悲しみを一人で背負って帰りたくないから我々を巻き込もうとしているのは明らかだ。それなら最初からそう言えばいいのに、この人はあたかも気遣う体を装ってくる。兄に嫁いだまだ若い女性の寂しさ悲しさに寄り添える自分に酔っている。酔っぱらいだから自覚はない。

 返事を考えながら歩いていたせいで、黙ったまま坂道は終わりが見えてくる。子供の時に、祖母が亡くなった関係でこの道を今みたいに歩いたことがある。やはり母はなんやかんやと話をして、家族は黙って静聴していた。兄だけが頷いたり目を見開き、首を傾げた。真剣に聞き入っているようだった。

 どうにも気持ちは時間を持て余しており、けれど母の話をまじめ腐って聞く気分でもなかった。私は坂道をスキップしたり、わざと上ってから駆け下りたりして遊んでみた。兄越しの姉は、煩わしそうに私を見た。知らん顔をする父と、仰々しく話す母と聞く兄。まだ幼かった私の相手をしてくれる人はいない。遊んでと言える人もいないので、ただ走った。走って、私は滑り落ちるように転んでしまった。

 喪服は砂埃や土で茶色くなり、膝をすりむいて血が滲む。とても痛かった。細かく皮が剥けて、膝小僧をじわじわと薄く血がひろがっていく。傷は深くなかったが、このじわじわする痛みが怖かった。

 泣き出したかった。天まで届けとせっせと泣いてしまったなら、子供らしく超音波みたいな声をあげてみようか。母が話を中断してあやしに来たり、やめなさいよ赤ん坊であるまいしと姉が諭し、父が頭を撫でてくれるかもしれない。兄があの目で痛ましい傷を労ってくれるかもしれない。淡い期待を抱いて私は口を大きく開こうとした。

 兄が私の前にしゃがみ込んだ。声をあげるよりも先に、スカートの裾を直しながら傷にふーっと息をかけた。擦り切れてしまった膝小僧に、頑張れ、痛くないよ、と励ましてくれる。どこまでも続く膝の怪我の根は、胸の奥にまで到達していた。骨と臓器の隙間で潰れかけた暗闇を覆う根から、兄の息が吹き抜けていく。冷たい中になま暖かさが潜んでいた。私は痛みからではなく、兄によって泣かされた。誰も私の暗闇を見抜けず、痛みで泣いたんだと解釈した。

 母の話を聞いていた兄は居ないし、姉は遠くを眺めてばかりで、父はひたすら黙っている。兄の代わりに義姉が居ること以外、なにも変わっていない。今日もあの唇はべらべらと喋り続けている。まるで栄養を蓄えた幼虫がぐねぐねと蠢くように。私は毛虫の方が可愛げがあって好きだ。

「百合子さん、私の家に泊まりに来ない?」

 どこからそんな声が出たのか、母の声ももろともしない強靱さを携えていた。遮るのではなく、切るのでもなく、理不尽なまでに何人たりとも寄せ付けないで鼓膜を震わせた。坂道にはこれしか声が存在しません、というような沈黙が降り注いだ。

 何秒だったか、数分も経っていたか、みんな足が止まっていた。棒になった足はくたびれていたのに、誰も「早く帰ろう」とは言い出さない。義姉は母に背を向けて、私を小さくしてつぶらな瞳で見上げていた。

「気分転換にはぴったりよ。」

 なにか言いたげな母が口を開くよりも前に、いつもより明るい雰囲気を装ってみた。根拠なんてどこにもないし、部屋は散らかしっぱなしで、仕事も溜まっていたし掃除もしていない。埃は積もっているし、落ちた髪がとぐろを巻いている。洗い物はかろうじてしているが、ゴミは少しだけ残っていた。通夜の前からは特に拍車をかけている。

 誰かに見せられる状態ではなかった。どんなに掃除をしても整理整頓を心掛けてみた日だったとしても、私は部屋の自慢などできっこない。どこに見落としがあり、指摘されるか考えただけで疲れてくる。私は疲れすぎるとすぐに寝込んでは、母に「寝不足なのよ」「野菜を食べなさい」と説教を受ける。それだけであと半日は余計に寝込んでいられる気がした。

 どこを見ているのか、姉は背を向けている。父は興味がなさそうで細く息を吐いた。さっさと帰宅して酒でも飲みたいのだろう。

「じゃあ、お邪魔しようかしら。」

 おずおずと控えめに、義姉は微笑んだ。


 その翌日から、一週間の休暇と共に義姉は私の家に来た。母はなんとか我々を家に招きたがったが支援してくれる者は誰も居なかった。私はまんまと横取りを成功させた。朝からぽつりぽつりと雨のふる、梅雨そのものの日だった。

 葬式の後片付けもほどほどだった部屋を、二人で掃除した。箒とちりとりで廊下をはき、防虫剤を新しくした箪笥に服をしまう。誰かとするのは初めてのことだ。友人を部屋に招くことも滅多にないのに、義姉にだったらなにを見られても恥ずかしくなかった。洗濯篭に入れたままのストッキングも、鞄のサイドポケットに忘れられた飴も、台所で水に浸された食器も、あるべき場所へと収められた。

 やることがなくなると義姉はさっぱりとした部屋の中で、最初から決まっていたみたいに窓の下の椅子に座った。白いペンキを薄めに塗った木製で、丸い形がおしりをしっかりと支えてくれる。

 椅子の上から見える町の姿は、同じ世界でありながら雰囲気が変わる。平行世界の、別の自分の部屋、別の世界と言い切れない、私の息も含まれている町。町単位で広く眺めるにはなにも変わらないのに、商店街の店のシャッターに落書きは増え、公園の遊具が撤去され、アパートの一室で老人が孤独死している。ひそやかに呼吸する影が、異変を感じた私を監視する。

 窓の外の景色がどう見えているのか、横顔は遠くにまで視線を向けている。あの瞳にはもうこの世が映っていないのだとしたら。それよりも更に先の、私には存在すら掴めない遙か彼方、その最果て。円い地球から伸びるのは一枚のプレートだ。端がなくて転がり続ける、いつしか光をも飲み込む闇の世界に、義姉の目玉も吸い込まれていく。

 我々は三食きちんと食べ、朝は九時か十時くらいまで眠った。夜にはほんの少しお酒を嘗めた。家事をする以外に本棚を漁ったり、ベランダで増やしたハーブの名前を説明し、これまでに撮り続けた空の写真だけのアルバムを開いた。録画したままの猫特集や映画を観つつ、お茶やお菓子をかじった。湯船をわざわざはって入浴剤を落とすと交代でゆっくりと浸かって、その最中は片方が脱衣所でお茶を飲んだ。

 話題にあがらなかったけれど、生活のどこにでも兄の影がいた。兄と一緒に母から教わった料理、お酒の味、好きだった画家、回し読みをした本、おすすめの曲。私も義姉も、自分の中から兄というものを切り離せなくなっていた。脳の中、記憶だけに留まらず、身体を薄い膜がはりつくみたいにして兄というものが共にあった。ここにまだ兄が生きている。自分の手をしげしげと眺めたのは久し振りだ。産毛が陽光に溶け、爪の表面は溝が全体に及んでいた。先の白くなった部分がぎざぎざしている。いつの間にか噛んでいたらしい。

「百合子さんの爪って、どんなのですか?」

 横顔に話しかけると、この部屋は本来あるべき空間にぴったりとはまった。寸分の狂いもない。

 「手?」と義姉は両手の指を広げて弱弱しい陽光にかざした。健康的な肌がほんのりと透けて血管が見えた。太い血管から枝分かれをした細い管は、手のひらからあらゆるところまで巡っている。まるで蜘蛛の巣のようだ。どこまでも渡っていけるように、どんなに細く短くとも軽視しない。むしろこれがなくては全体のバランスが台無しになるのだと訴えかけてくる。爪は表面がつるりとしており、砂浜に打ち上げられた貝殻そのものだった。

 左手の薬指には、なんの飾り気もないリングが添えられていた。主張せず、ただそこでひっそりと寄り添い、義姉から離れまいとしている。それがどちらの想いなのか、わたしには見えなかった。ただ肌と一体化しかけて、外すのは容易ではないことは確かだった。それは義姉が料理をしても風呂に入っても、ベランダの花の枝分けの時も決して動かない強固さを持っていた。一寸の隙間もなくしがみついている。さりげなさすぎて普段は見落とすのに、はっとした瞬間に無視できない存在感を放つ。私すら牽制している。


  ◆


 三日目になって、私は実家に単身向かっていた。というのも兄の遺品整理をするというので、形見分けに欲しい物を持って行けと連絡が入った。電話は母からで、もう泣いてはいなかった。義姉もまだ居るのか、居るのなら一緒に連れて来るようにと念を押された。はいはいと返事をするのは得意だ。あちらもどうせ私の声などまともに聞いていない。

 電話を受けたのは私だったが、義姉は母と話さずに切ってくれと言うのでその通りにした。一応内容を伝え、一緒に行くかどうか伝えた。ちっとも心を乱さないままの態度は淡々としてさえいる。私を見据えながらすぐに返ってきた答えを私は先に知っていたけれど、改めて義姉の声がなぞると特別な意味を持ってそうに感じられる。

 鍵を置いて出掛けるのは初めてかもしれない。「行ってきます」と言ったら「行ってらっしゃい」と返事をしてくれる人が居るのも。胸の内側が温かくなった。玄関が閉じてから顔がなんだかむずむずするのを抑えて駅の方に歩き出す。誰かと一緒に生活することで生じる変化については耳年増なりに知識はあったが、たかが知識、不安はあっても良い変化については考えていなかった。これは本来、兄が得るべきものだったと思うと砂利を噛んだような顔になった。

 実家までは駅を三つ行った先のバスに乗って揺られること十分。本当は二駅先からでも行けるのだが、バスが出ていないので足がない。車もバイクも持ってない。少々不便な立地ではあるが、戦前にご先祖様が切り開いた土地だ。大事にしている。

 家を出るにあたって両親には散々とごねられた。女の一人暮らしは危険だと、家を出るなら結婚か最低でも婚約した男性との同棲がなければ認められなかった。父には家からの仕送りは一切しないと怒鳴られ、なんなら仕送りをしろと強要された。これは後に知ったことだが、この頃実家の家計はかなり厳しかったらしい。それもこれも新しいことを気分で始めたがる父の招いた当然の結果なのだが、そこは深く追求しないでおく。

 ついでに実家から離れすぎないことが条件に上がり、それでは家を出る意味があるのかと私は頭を抱えた。とはいえどこか住みたい場所が決まっているでもなかったので、近場の不動産をあさって今のところに落ち着いた。近すぎない。遠くもないけれど。

 そもそも家を出る必要があるのかと問われた時は言葉を詰まらせた。なにせ深い事情は語れない身分だったからだ。正直なところを述べるならば家を出なくとも私は生きていけた。仕事は自宅ワークだからパソコンとネット環境、電話が通じる場所であるならば山奥だろうと海底だろうとどこでも構わない。実家に居れば掃除や洗濯やご飯を親がやってくれるし、家事という必要不可欠である仕事からは解放されるのは願ってもないことだ。

 でも私は実家に留まれなかった。幼い頃からの思い出が詰まった家は巨大な化け物で、両親は疑似餌だ。私をはじめとした姉や兄をも取り込もうとして画策していたが、兄は私が逃がした。家を出るか出ないかの話で迷っている兄の背中を思い切り押した。いつでも戻って来れるんだし、と唆したのだ。結果として兄は実家の餌になってしまった。

 姉は柔軟な人だと思っていたから、いつでも自分の意志で家を出るだろうと思っていた。だがそれは大きな間違いだった。姉は次の疑似餌となるべく教育されて浸食され、この話題になると人が変わったように外へ出るのを頑なに拒む。自覚のある私が最後に残っておくべきだった。姉と兄を先に逃がしておくのが正しい選択肢であるのを、数年前の私は知らなかったのだ。

 けれど兄が死んだ今となっては、外へ出るだけが生き残る術ではないらしい。もっと他にも気遣うべき点はあった。どうしてそれがしてやれなかったのか、私は考えすぎるところがある。考えても兄は戻ってこないし、姉は開放する術もなし。次へ活かす機会があるわけでもない。いや、義姉を守るのに使えるかもしれないが、それを義姉が望んでいた場合には私の出る幕はない。本人がなにを望んでいるのか見極めなくては。バスに揺られながら私はずっと窓の外を見つめていたが見えておらず、はっとした時には見慣れた風景に移り変わっていた。慌ててボタンを押したら、その直後にバス停へと滑り込んだ。運転手は誰も待っていない、他に誰も乗っていなかったのに、最初から停まるのを知っていたようだった。

 道路を挟んで並ぶ工場を横目に民家を二、三件と過ぎた先に実家は聳えていた。ブルーベリー色の壁はいつ見ても不気味だ。リフォームする際に父が壁の塗り直しを依頼したと聞いて、家族はてっきりアイボリーをそのまま塗り直すとばかり思っていた。それが一日で面影もない真紫になった時の衝撃は筆舌できない。正気の沙汰ではなかった。母だけが「まるでブルーベリージャムみたい」なんて言ってはしゃいでいたが、きょうだいは引いていた。この家から仕事に出掛けて、ただいまと帰って来なくてはならないのだと思ったら頭が痛くなった。何年も風雨にさらされて薄れたとはいえ、この家の異様さは外観からも伺える。

「ただいま。」


 実家には両親が待っていた。姉は居ない。あれだけ念を押されたのに義姉を連れてこなかったのを母は非難したけけれど、はいはい、と流していればいいのだ。相手が私だろうが壁だろうが言いたいことを言い切ればすっきりしてしまう母の性格は知れている。案の定一通りの罵倒を言い尽くすと、微笑みすら浮かべてお茶を淹れ始めた。私が途中で買ってきたお土産のケーキを箱ごと渡せば、更に上機嫌になった。

 父は兄が実家に残していった物を片付けていた。箪笥、ベッド、勉強机、そういった大きい物を業者と共に部屋で解体し、ドアを通れるくらいに小さくして運び出す。今後も少しずつ兄の物は処分していくそうだ。その前に形見分けをしておこうという話らしい。

「お姉ちゃんはライターを持っていったのよ。」

 母の声には呆れと困惑が混じっている。言いたいことはなんとなく察した。姉には煙草を嗜んだりお香を焚いたりする趣味はない。必要性があるとは思えないし、価値があるとも思えない。何故それを選んだのか理解できない母が、他にもっと良い物があるのではないかと姉を説得する図が自然と脳裏に描かれた。とても容易なことだった。

 そして恐らくだが、ライターと呼ばれたそれはジッポであろう。煙草をしばしば吸っていた兄はライターを持ち歩くのを嫌った。彼なりの美学に基づいて、飾り気はないがしっかりとした重さのある銀色のジッポをひとつだけ手元に置いた。入れ換え用のオイルも部屋に転がっているはずだ。義姉と出会うまで兄は煙草を吸っていて、なんだったら葉巻やキセルにも興味を持っているくらいの愛煙家だった。頻度こそ少なかったが、義姉に出会っていなければ近い将来の内に肺は真っ黒だったろう。もしかしたら骨壺に収められた灰の中には煙草の煙も混ざっていたかもしれない。よく見ておけば良かったと後悔した。

 業者と父がベッドを外に運び出している隙に私は部屋に入る。床には靴のまま入れるようにブルーシートが敷かれていた。まだ勉強机と箪笥は残っているが、細々した物は部屋の隅にまとめて置かれていた。さてなにを貰おうかと見回してみるものの、なにかが私の気を引こうとする気配も感じられない。兄の生きていた痕跡も薄まり寂れていた。義姉は来なくて正解だっただろう。こんな場所を見てしまったら心が取り乱してしまう。カーテンも外されて陽光が容赦なく射し込む部屋の中心に立つ。

 部屋の隅に追いやられた物を見下ろす。卓上スタンド、鉛筆数本、消しゴム、クリップ数種類、カッター、画鋲、定規三本、分度器、折り紙、ボタン、洗濯バサミ、リボン、毛抜き、灰皿、砂時計、マッチ、切手シート、栞、万年筆、釣り針…。服はゴミ袋に、本は紐で括られている。どれもこれも見たことある物ばかりだ。当たり前か。兄は私よりも先に家を出た。私は残された物に囲まれて寝るのが好きで、何度か兄の部屋に忍び込んでいる。そのままなのだ。もう兄が帰ってくることはなくなってしまった。

 さて、このガラクタの中から私はなにを貰っていこうか。無理に貰うこともないけれど、ここまで来たからにはなにかしら受け取っておきたい。独自の美的センスを持っていたために兄の趣味は多岐に渡る。とんちんかんな出費はしないが、どうしてわざわざそれにした、と聞きたくなる物もあった。どうやら率先してゴミ袋に放り込まれたみたいだが、黒と紫だけの小さな絵画や民族柄の刺繍がはいったブックカバーは姿が見えない。ここぞとばかりに捨てただろうなと人知れず溜め息をつく。

 雑多に置かれていた兄の置き土産を何度か眺めている内に、ペーパーナイフがあるのをやっと見つけた。ずっとそこに居たのか疑いたくなる。私は何度もそこへも目をやっていたのに、数回目にしてやっと視界に入ってきただなんて。ガラス製で半透明な青いナイフは鋭く見えて、紙をするすると切り裂く運命にある。それ以外で使おうものなら下手に力がかかって折ってしまうだろう。普段使いするには心配も要らないが、案外と脆い存在に親しみすら感じた。

 姉ならこれを一番に持って行きそうなのに、ジッポを持って行ったのがほとほと不思議でならない。なにかしら考えがあるのだろう。ならば私が代わりにと、ガラスのペーパーナイフを掴んだ。手にしっかりと吸いついて、馴染む。私の手に収まるために作られたような手応えがある。これにしよう。

 眼鏡ケースに入れておけば無事に持ち帰れるかもしれない。なるべく割らずにと考えると手段はそれくらいだ。私は鞄から眼鏡ケースを出すと眼鏡をかけて、代わりにペーパーナイフをしまった。鞄にそっとしまうと早々に立ち去りたかったが、紅茶を淹れながら母が笑顔で言った。

「ケーキ、食べていらっしゃい。」

 確かに通例通り自分の分と実家の人数、合計で四つのケーキを買ってきていたが実家でケーキを食べながら談笑する気は更々なかった。なんだったら颯爽と帰宅して義姉と共にご飯を作って食べたい気持ちではちきれそうだったが、ケーキと紅茶にはなんの罪もない。なんだったら罪があるのは私や両親だろう。味はしないだろうと思いながら、これ食べたら帰るね、と宣言して席についた。

 二人でショートケーキとチョコレートケーキをつつく。話題は主に私のことで、私生活を根ほり葉ほり聞き出そうとした。母親とは子供が幾つになろうとも母親であり、心配の種は尽きないものだと思春期の頃から訴えていた。そういうものなのかと納得しかけたものの、では私のプライバシーは永遠に守られないのかと疑問も抱いた。母と子といえど他人は他人だ。仕事の具合の話から病気や生理の話まで持ち出し、彼氏や家庭を作ることがどれほど大事で子供を早く産んでくれ産んでくれと呪詛のように唱えた。母の方が子供の怨念に憑りつかれているのではないかと思う。

 私が適当にあしらっていると不服そうに紅茶を口に運ぶ母は、今度は箪笥を運び出す父と業者の人が去ってから呟いた。

「お兄ちゃんも病気が治っていたら死なずに済んだのかしら。」

 母親としては自分より先に子供が旅立ってしまって心の奥底から悲しみ、残念に思い、どうしてと繰り返し考えるのだろう。特に兄を溺愛していた母の思いは強く激しかったため、揺り返しも巨大なものだった。想像を絶するだろう。兄が死んでから一度も泣きもしない私を母が可哀想だとぼやいているのを、通夜の席で小耳に挟んだ。余計なことをしてくれる親類には事欠かない。

 しかし母の見解はまったくの見当外れにもほどがある。私はまさかそんなとフォークを持つ手を止めてしまった。そうね、と一言発するのが精一杯だった。

 兄は確かに病気を持っていた。いつから病魔が兄を蝕んでいたのか知らないが、短い時間ではなかったはずだ。長い時間をかけてじわりじわりと毒を盛られ続けた結果、内側から腐敗していった。その苦しみは想像するのも失礼だろう。理解した気になっては侮辱というものだ。兄は死する半年前に自分の病気について家族全員に伝えた。医者に言われたであろう説明を機械じみた口調で繰り返し、最後に、

「もう治らない。」

 として話を〆た。誰もがしんと黙する中で、一番最初に口を開いたのはやはり母だった。頑張ろうとかなんとか兄に話しかけて、貴方たちもなにか言いなさいと強要してきたのを覚えている。違う。兄はそんな言葉がほしかったわけではないのだ。どうして母親なのに判ってやれないのかと途方に暮れていた私は兄と目が合い、微笑みながら首を振った。なにも要らないよと、あの深くて底の見えない海の瞳が伝えた。私は頷くことで、兄への返事とした。

 それから母はテレビや雑誌、専門書を買い込んで兄の病気をどうやって軽減させようかと躍起になっていた。正確には「治すのに効果的な方法」を探していた。私には理解できず、血眼の姿から目を背けた。母は自分が理解できない状況を受け入れるのが下手で、いつか必ず治るものだと信じ込んでいた。信じたかったのだろう。そうしなくては兄の病気が治らないと思っているようだった。

 父や姉は無関心を貫いた。あえてその点には触れないように、それまで通りに接していた。忘れているのではないかと心配にもなったが、そんなことはないと父がひっそり答えた。でも時折は本当に忘れていたのではないかと思う。夜になると必ず晩酌をしてどうしようもなくなる父は病気に構わず兄に酒をすすめた。以前は困ったように笑いながらも晩酌につきあっていた兄だが、病気になってからは薬のせいでそれができなかった。断る兄に対して、父は悪びれる様子もなく自分だけひたすら酒瓶を傾けた。兄は自分用に買ったお猪口に水をたっぷりと注ぎ、雰囲気だけ一緒にしていた。

「病気が治っていたらねぇ。」

 再度繰り返す母の、唇が錆びている。治らない病気だと知っているのに、どうして治したがるのだろう。

 兄は少しずつ失われていく自我や、積み重ねてきたものをどんな気持ちで眺めていたのか、私には想像もできない。壊れていく自分を可哀想がる素振りもなく当たり散らしもせず、でも兄の形態は歪んでいった。時にはそれが兄なのか、兄のふりをしている他人なのか見失うこともあったが、姉が隣でしっかりとした輪郭になると兄も兄の顔をしていた。何度胸を撫でおろしたか判らない。

 病気の原因をあちこちになすりつけていた母を止める方法はなかった。あれが駄目だ、これも駄目だ、駄目ったら駄目だと言って聞かなかった。白いベッドシーツはラベンダー色になり、枕は綿百パーセントに取り替えられ、服は天然の染料を使った物にされた。義姉は何度か断っていたが、最後には母の要求を飲み込むしかなかった。あの頃はまだ義姉にも表情があった。今はなんだかぎこちない。自分には原因がないと思っている相手に、なにを言っても聞いてもらえないと先に悟ったのは義姉である。改めて彼女の聡明っぷりを感じた。

 ケーキを紅茶で流し込んでいると父が休憩しにやってきた。緑茶を所望して淹れ始める母を尻目に、いちごタルトを迷わず箱から取り出した。父のお気に入りだ。それを目の前で言うと天の邪鬼が沸いて出てきて「別に好きじゃない」とケーキを取り替えるので口には出さない。ここだけは母も余計な口出しをしなかった。

 会話は母の独壇場となる。話題は近所の人へと移り変わり、誰々がボケて老人ホームに入れられたとか、救急車が毎日隣の家にやってくるとか、無言電話がかかってくる家があって、そこは大黒柱が不倫をしているのだとか。田舎の片隅など話があちこちに錯綜し尾鰭でもなんでもくっつけていく。

 人の口に戸は立てられない。兄のことも近所ではなんと言われているのだろう。病気のことは言わないようにしていたが、様子が変わっていったのは隠しようもない。そもそも兄は近所でも評判のできた人だったから、小さな子供からお年寄りまで気に入られていた。挨拶は明るく、気遣いはさりげなく、四季を喜び人を労っていた。でも兄が労れることはなくて、人間なりの苦悩や葛藤を人に見えないように隠していた。完璧すぎて気付いてもらえなかった。この場合は誰が悪いのだろう。誰かが悪くなければならないのか。結果として隠しきれないあれそれが兄から溢れだし今に至る。ちょっと見せて、ちょっと隠す。実は器用になれなかった兄の、そこはちょっと人間らしい部分だった。こんな形で知るとは思ってなかったけれど。

「そういえば、お姉ちゃんなんだけど。」

 母の話が突然の方向転換を見せるのは世の常だろう。風が吹いただけでも一大事の人であるから、前後の話題など繋がらなくとも問題ない。父など本当に聞いないのか聞いているのかも判らないが、ちびちびとケーキをつまみながら母の次の言葉を待っている。

「最近、仕事の帰りがめっきり遅くて。帰って来てもただいまも言わないものだから、いつ帰ってきたのかまったく判らないのよ。」

 私はその報告に目を見開きそうになった。姉だってもう大人なんだからとそれらしい擁護をしながらも、心中穏やかにはいられずにトイレを借りた。一人になれる個室がここだけとは。長居できないのはつらいが、落ち着こうと窓を開けて深呼吸する。

 昔からぼんやりとしか見えなかった姉の姿。兄が居ればこそ視界に捉えておけるものの、補助がなくてはままならない。もしくは川の底で穴のあいた石の穴を通してなら、姉の姿は見えたのだろうか。ともかく霧の中に馴染んだら人間には戻れないのではないかと心配したくなる。

 まだ私が実家に居を構えていた頃、学生時代から姉の外出と帰宅をまともに認識できたためしがない。部活や塾にも通っていたから私とは生活時間が異なっていた部分も大きいのだろうが、社会人になっても変化はなく姿はどんどん見えなくなる一方。同じ家に産まれ育ったというのに、姉がどんな姿をして疲れきったり、良いことがあったと浮かれたりしたと帰ってくるのか知らない。そして兄がこの世を去った今、姉は更に薄くなっている。両親はどうしていつまでも姉を子供みたいに思うのと同じく、いつまでも見えているものと信じているのだ。

 兄も姉も惨めである。同時に両親も、私も、義姉も。

 深く溜め息をついて、次に深呼吸をしてトイレを出た。ちゃんと水を流して手を洗う。最近はトイレの水を流す時に蓋を欠かさないので今度からそうしてと母が要求してくるのを、私ははいはいと受け流した。父の皿の上にはケーキを守っていた薄いセロファンとクリームでべたべたになったフォークだけが残っていた。


  ◆


 五日目には朝から雨がふった。バケツを逆さまにひっくり返し、窓の外は水飛沫が霧になり白んでいる。アパートには絶え間ない雨音だけが満ちていた。車のエンジンや土建屋の怒鳴り声も、どこかへ消え去っていた。世界の再構築が進められており、私と義姉以外の人の気配もない。

 雨の日に弱い私はいつもより長く布団に入っていた。義姉はいつも通りの時間に起床して、もう使い慣れた台所で珈琲を淹れている。こうばしい香りが家のあちこちへと行き渡り、雨の寒気をはねのけていた。次にベーコンエッグが焼かれた。これでトーストを作ってくれたら最高なのだが、と布団の中でぐだぐだ考える。祈るより先にオーブントースターのつまみが回された。

 雨音が強すぎてテレビもラジオもうまく聞こえずに消してしまった。そうなるとやることもなくて、私たちはクッキーを作り始めた。どこの家庭でも一度は作ったような、なんの変哲もない素朴なだけのクッキー。粉をふるいにかけて、バターを溶かし、卵をとく。冷蔵庫でぐっすりとねかせ、まな板に粉をふるって生地をのばす。型は戸棚の奥から発掘して、天板に並べた。丸、ハート、星、スティック、猫、ダイヤ、男の子、女の子。手でちぎって丸くすると上にナッツを載せ、ココアパウダーを混ぜて、板チョコを割って包んだ。

 二人して手をべたべたにしたり粉まみれになりながら、台所がバニラエッセンスの香りに包まれる。甘ったるくて鼻につくけれど、珈琲やバターを含むと中和していった。なんにでも両手を広げては、受け入れる準備はできているのだと待っている様子だ。

 オーブンのつまみを回した後も、型抜き作業は続いた。無駄なお喋りは一切なく、互いの行動を把握して流れに身を任せた。社交ダンスみたいにぶつかることなく、ボウルは手から手へと渡って流しに導かれ、焼けたクッキーは大皿に盛られ、ナッツを切ったナイフはまな板の上で転がっていた。

 いろんな形のクッキーは、温かい内に食べられていく。朝食のために淹れられた珈琲は既にぬるくなり、水面に油の膜がはっている。焼きたてのクッキーはしっとりと優しい味がするのだと初めて知った気がした。

 最後に焼くのはレーズン入りにする。舌にひろがる儚い甘みは幼い頃に出会った秘密の味がする。私たちはひたすらに食べた。次々に手をのばして口に運ぶ。うちにある一番大きなお皿に山盛りにしたのに、瞬く間に山は小さく緩やかな丘になっていく。一人ではないにしても、すごい勢いだと驚いてしまう。でも手は止まらない。

「明日の朝、帰ります。」

 義姉はクッキーを口に入れる前、思い出したように呟いた。か細い声が咀嚼音に消えていく。そしてそれは雨音に上書きされる。まともに耳まで届かなかったけれど、義姉が今夜を最後にする予感はしていた。だから全ての言葉を拾う必要もなかった。私はただ、クッキーを食べた。雨足は少しずつ落ち着きを見せていた。相変わらず窓から眺めた町は別の世界のものだった。

 皿の底が覗けた。

「手紙を書いてもいいですか。」

 私はひとつひとつを丁寧に発音した。聞き逃されないためにと、まっすぐ見据えた。義姉は手を止めて、でも咀嚼は止めず真面目な顔をして私を見ている。二枚貝の指先で皿の底を撫でた。

 そういえば空を雨雲が覆っているのに部屋の電気をつけてないせいで薄暗い。どうして今まで気付かなかったのだろう。一人の時には喜んで電気をつけないが、今は義姉が来ているのに。肌寒さに身体が震えた。

 突然の申し出にも関わらず、義姉は、

「もちろん。」

 と受け入れてくれた。会おうと思えば明日の晩ご飯だって一緒に食べれる距離に住んでいる。兄もやはり家を出るにあたって、私と同じ義務を課せられていた。二人暮らしだから私とは条件が少々異なるが、すぐに良いアパートを見付けて荷物を運んでいた。明日から義姉は兄の遺品と思い出に囲まれて暮らしていくのか、それとも全て捨てて忘れてしまうのだろうか。どちらか知らないが、私からの手紙を受け取ってくれる。この約束だけで私には十分だ。

 改めて住所を尋ねると、義姉は小さく微笑んだ。兄が死んだ以来見せていた微笑みとは違う、本当にうっかりとこぼしてしまった笑みだった。それもそのはずだ。過去に数回、兄に住所を尋ねていた。さほど離れているわけでもないのにどうしても覚えられず、手紙をまとめて置く場所も決まっているのだから見直せばいいのに、私はその手間を省いた。住んでいる本人に聞けばいいのだと楽観的に考えていた。だがそれも今日で最後にしよう。住所録に書いておこう。義姉が床に敷いたメモ用紙にさらさらと整った字を羅列させていくのを眺めて、我々がこんなに近くに住んでいたのかと驚いた。


 五日間そうしていたように、ベッドに義姉が、床に敷いた布団に私が入る。間接照明がぼんやりと夜の気配の中に浮かぶ。私たちは遠のいた雨と時計の針を聞いて、眠気の訪れを待っていた。待ちながら、眠るのが惜しかった。

 隣に誰かを感じながら過ごす家は、慣れないまま終わるのではないかと思っていた。だがそんな心配をよそに、義姉はするりと私の日常に現れて溶け込み、そこに居るだけだったり、時にそっと手をさしのべてくれた。部屋の中で孤独を噛みしめていたとき、何度も求めたものだった。舌に残るクッキーのしっとりとした感触を思い出す。大雨で買い物に出なかったため、最後の晩餐はかなり質素なものだった。それなのに残っていたワインを開けて飲むと、なにも言わずとも二人で笑った。

 まだ頬が熱い。息にはワインとまぐろのカルパッチョとクレソンが混ざっている。明日、晴れたら換気をしよう。布団を干して、棚の奥から出した二人用のボウルや食器をしまって、靴を磨こう…。私はあれこれと予定をたてた。義姉はもう寝ただろうかとベッドを見上げていたら、布擦れの音と共に寝返りをうった義姉の背中が見えた。

「ごめんなさい。」

 たった一言がどうしてこんなに儚く響くのだろう。行き場のない、子供の唯一握りしめたものみたいに。義姉の声は何度聞いても胸の底で反響し心を震わせる。

 どうして謝ったのか、私は聞かなくてはいけない。そのために義姉を呼んだのだ。

「なにが?」

「あなたのお兄さん、わたしが刺したの。」

 夜の闇に溶けていく。雨のカーテンの向こう側にまで、誰にも悟られることなく染みていく。私はこの告白を待っていた。

 その夜、私は眠りながらなにかを見た。それが夢だったのか、脳が記憶をなぞったものかは判らない。そこは私がまだ三、四歳で、兄は幼稚園に通っていた頃だった。すでにあの目をしていた兄と二人、実家の庭に居た。真夏で私は青いワンピースに縁の広い麦わら帽子を被る。兄はタンクトップと半パンで、肌は小麦色をしていた。蝉の声が鼓膜に貼りついて痛い。汗が全身から吹き出していた。青々しい紅葉の木の下で、私と兄は向かい合っていた。日影なのにじりじりと肌を焼かれる熱に、持っていたスコップまでもが焼け落ちるかと思った。

 兄は自らの胸の間、そのほんの少し舌へと指を滑らせ指し示す。しっかりとした肉付きをしても触れると僅かなくぼみがあって、はっとしてしまう。薄い皮膚に柔らかい肉が、そこでだけひっそりとしている。

「ぼくのここを、刺してくれないか。」

 刺す、の意味を考える。物心がついたばかりで世界のなんたるかを微塵も知らない私は、さす、という一言を鸚鵡返しした。人の名前みたいでもあり、寄り添うようであり、砂の中から貝殻を見つけた時みたいだ。手の中でスコップが熟れる。私が意味を理解しないのを兄は十分に承知していた。だがそれ以上、余計な説明をせずに兄はいつも通り微笑んだ。その笑みは確かに日影だったのに、夏に陽光で白くとんだ。頭だけがなくなったのかと私は息を飲んだ。喉の奥でひゅっと音がした。

 それから度々、兄は私に胸の少し下の部分を指しながら刺してくれと言ってきた。必ず二人きりで、他には誰もいない場所と時間を狙って、ここ、と。服の上からでも、そこがどれだけ柔らかいのかを私は感じることができた。だからこそ、まだそこに触れた人はいないのだというのも知っていた。

 私は何度も失敗した。最初は意味を知らず、次からは近くに刺せるものがなく、あっても握れすらしない。指に力が入らなくて感触すら判らなくなり、首を振るばかりになる。兄は私を責めなかった。微笑んでその場から静かに立ち去った。風がふくと兄が居た余韻すらすぐに離散していった。

 いつかは成功するように、私は様々なもので練習した。トカゲ、カマキリ、蝉、バッタ、ハムスター、鳩、ローストビーフ、猫、スズメ、蜘蛛、フライドチキン、ソーセージ…。なんでも手当たり次第に刺した。いつも果物ナイフを食器棚から盗み、それで様々な肉に突き立てていく。だんだんとその肉の塊の中で一番柔らかい部分を一発で見つけられるようになった。全体を見ると、そこが注意を引きつける。とても密やかでか細く、そして一回だけ、ここだよ、と言う。私は聞き逃さないためにも目を凝らし、通じあったらすぐさまその場に刃をたてた。沈んでいく刃はなんの傷害もなく、最初からそこに収まってる予定だったのだと受け受け入れた。まっすぐに、作りものと間違えそうになる。兄の身体を通して見ると、刃物はやけに安っぽくておもちゃのようなのだ。

 だが最後まで私のナイフは兄に届かなかった。一度も向けられることもなかった。葬式の際にはハンドバッグに果物ナイフを忍ばせていたが、その必要はなかった。一番柔らかい肉の上には、ハイビスカスの花が供えられていた。今刺されたばかりで、吹き出した血が咲いていた。練習の日々はもう終わったのだ。

 私は義姉の寝息を聞いて布団から抜け出した。枕の下にしまわれた果物ナイフを握りしめ、寝息を監視しながら立ち上がった。雨音が私の動きを隠してくれる。間接照明にきらりと刃が光る。ぼんやりとしていた電球に、あの夏の日差しのまぶしさが宿っていた。



                                              終

読んでいただいて有り難う御座いました。

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