香草酒(中)
マティアスと初めて会ったのは、国が主催する競技会だった。
武を重んじる草原の国の競技会は有名で、そこで運良く誰かの目に留まれば、将来が約束される。
より良い出仕先。
または良家との良縁。
何よりも名誉。
国内だけでなく国外からも、腕に覚えにあるものがそれらを求めて集うのだ。
マティアスは、国外から来た戦士の一人だった。
当時、次期女王イザベルの側近として仕えていたソフィアは、自分の剣に絶対の自信を持っていた。
同年代の近衛の中では間違いなく最強であったし、それ以上になろうと努めていた。
そんな若い鼻っ柱をぽっきり折ったのが、準決勝で戦ったマティアスだった。
きらきらの金髪の優男だからと侮ったわけではない。
しかし彼は確実にソフィアより熟練していた。
力で押すのではなく、受け流して滑り込むような剣。
自分が求めていたのはこれだと、ソフィアは彼に教えを請うた。
マティアスはソフィアの実家の食客として迎え入れられた。
そして、彼に恋心を抱くようになるのに時間はかからなかった。
もっとも、彼がそう仕向けたのだと、ソフィアは思っている。
ソフィアは恋を知らない16歳だった。
彼にとっては歯ごたえの無さ過ぎる相手だっただろう。
事実、彼は別の女を口説いていたのだから。
相手は第二王女カロリーナ。
隣国への輿入れが決まっていた、王族だった。
結婚式の当日。
伝統を重んじた式は、国の礎である草原で行われる予定だった。
あとから聞いた話では、草原は出席客の悲鳴で溢れていたという。
花嫁衣装で、一人で控えていたソフィアだけが異変に気付かなかった。
王家の名の下に出席していたカロリーナと新郎のマティアス。
その2人が手を取って逃げたのだ。
ソフィアは愕然とした。
この知らせを受けて誰より怒り狂ったのは、次期女王。ソフィアの主であるイザベルだった。
隣国との関係悪化にも繋がりかねない妹姫の暴挙に、イザベルは苛烈だった。
国民から愛される≪慈愛の姫殿下≫の仮面を脱ぎ捨てて静かに告げたという。
『愚図が、はよう探せ』
家臣団は震え上がり、カロリーナ姫とマティアスは即刻お尋ね者となった。
イザベルはソフィアにも苛烈だった。
泣き腫らした顔のままでも良いからと出仕するよう厳命し、泣き暮らす暇があるなら修練せよと叱咤し、人前にソフィアを連れまわした。
泣く暇など無かった。
公務であちこちに顔を出すイザベルの半歩後ろに、ソフィアは静かに控えた。
憐れみの視線にさらされる度、叫びだしたくなるのをじっと耐えた。
≪お気の毒なソフィア様≫
そんな声が聞こえる度に、ぐっと奥歯をかみ締めた。
ソフィアが一番堪えたのは、逃げた二人に関する報告を聞くときだった。
報告に戻った兵士が、イザベルに平伏しながらも、ちらちらとソフィアを見る度に逃げ出したくなった。
そんな日々が三月以上過ぎた頃。
『西の森の中で、発見しました』
兵士の一人がそう報告したのだ。
ソフィアはかぁっと頭に血が上るのを抑えられなかった。
イザベルの傍にいるにも関わらず、殺気を抑えられなかった。
『ソフィ。早く首を持って来てちょうだい』
イザベルの柔らかな声を聞いた瞬間、ソフィアは不敬などお構いなしに駆け出した。
『二つよ。ちゃんと、二つ持ってきて』
背中でその声を聞いて、気付けば馬を駆っていた。
王都から西へ、十日も離れていない森の中。
粗末な木こり小屋に二人は隠れていた。
肩を寄せ合って仲睦まじく…などと想像していた訳ではないが、二人のぎすぎすと荒んだ様子にソフィアは我に返った。
獣じみた怒りに任せた自分より、彼らのほうがよっぽど獣じみていたからだ。
たった三月で人はここまで荒むのか。
ソフィアはその時はじめて、誰よりも厳しく接してくれたイザベルに感謝した。
夜になり、二人が寝静まるのを待ってからソフィアは行動を起こした。
音を立てないように木こり小屋の中に入ると、二人は死んだように眠っていた。
好きだった男の金髪は、老人の白髪のようにくすみ、可憐な姫の赤毛は縮れていた。
どうしてこうなったのだろう。
そう思いながら静かに剣を振るった。
至極簡単だった。
ソフィアが焦がれた剣士は、こんなに無防備に殺されるほど弱かっただろうか。と思いながら。
気付けば涙が溢れていて、隠れていた見届け人に心配されるほど泣いた。
王都に帰ったソフィアは英雄になっていた。
マティアスは北の国が雇った工作員で、隣国との関係悪化を狙っていたそうだ。
カロリーナ姫は、イザベルを王位から遠ざけるために、イザベルがまとめた隣国との婚礼を破棄したかったのだとか。
草原の国の敵二人の首は王都の広場に晒され、イザベルの英断とソフィアの武勇は歌にまでなった。
まるで他人事のようにそれらを聞きながら、ソフィアは虚ろな心を持て余して過ごした。
更に三月が過ぎた頃、イザベルが言った。
『ソフィ、次の競技会で優勝なさい。
とっておきの贈り物をあげるから』
競技会は二年後だった。
ソフィア言われたとおりに優勝した。
『ソフィ、約束の贈り物よ。
わたくしの目と耳になる栄誉をあげる』
跪いたソフィアに、イザベルは楽しそうにそう言った。
『十年あげるわ。
世界を見て、わたくしにお手紙をちょうだい』
まるで少女のような言い方だった。
『ついでに、いい男も見つけてらっしゃい』
あまりの物言いに周囲がざわつく中、ソフィアだけが苦笑いした。
「お役目、必ず果たしてご覧にいれます」
真面目くさってそう返せば、イザベルは歯を見せて笑った。
マティアスと出会った競技会から四年。
ソフィアは二十歳になっていた。
-----
ソフィアが目を覚ますと、外はすっかり暗くなっていた。
宿は酒場も兼ねているので、階下からわずかに人の声が漏れ聞こえている。
湯を使いたいと思ったが、先に用事を済ませておきたい。
薄暗い中、手探りで用意を済ませて部屋を出た。
階下に降りると怪訝な顔をした宿の女将に呼び止められた。
「今の時間から出歩くのかい?」
閉店時刻なのだろう、客は一組だけで、彼らも帰り支度を始めている。
「ああ、昼間に行った店に忘れ物をしたみたいでね。すぐそこだから行ってくるよ」
そう言うと女将は親切に手持ちランタンを貸してくれた。
子供に言い聞かせる口調で何度も、気を付けるようとに念を押すと、やっと解放してもらえた。
この年の女性はなんというか、母性が有り余っているように思うのは気のせいだろうか。
しかし旅空の身で親切にされるのは嬉しい。
ソフィアはわざと軽い足取りで宿を後にした。
昼間の店はえらく健全な酒場らしく、もうすでに明かりが落ちていた。
執念深く、ランタンの明かりを裏手に回れば、うっすらと明かりが見えた。
どうやらまだ厨房で作業をしているようだ。
迷うことなく扉をたたいた。
怪訝な顔の主人が顔を出す。
「あれ?昼間のおねえさん。どうしたの?忘れ物?」
「ああ。すまない、少し入れてもらえないだろうか」
主人は一瞬迷うような表情を見せたが、すぐに中へ招き入れてくれた。
小さな手燭台をおいて、店内を照らしてくれる。
ソフィアの手持ちランタンと合わせると十分な明るさになった。
「忘れ物って、どんなの?掃除したときは気付かなかったんだけど、誰かが持ってっちゃったりしてないかな」
心配している声色だ。
ソフィアは息をのんだ。
その声、一瞬だけ眉を寄せたその表情。あまりに似ている。
いや、と、心の中で否定する。
この男は、間違いなく善人だ。
意を決して、
「これを渡すのを忘れていたのだ」
と、懐から手のひらほどの紙包みを取り出して半ば無理やり握らせた。
薬の包みに似ているが、それよりも大きい。
店主はそれが何かわからないようだ。
怪訝な顔で包みを見つめている。
ここに来て、ソフィアは緊張しはじめていた。
この男を嫌いになれないからだ。
善良なこの男を、悲しませたくない。
しかし、やらなければ。
ふーっと息をはいて、頭を下げた。
「それはあなたのお兄さんの髪だ」
はっと息をのんだ音が聞こえたが、構わずソフィアは続ける。
「私はソフィア・ンディガ・アブダル。草原の国から来た。
あなたのお兄さんを殺したのは、私だ」
ガタンと音がしたかと思ったら、主人が手近な椅子に腰を下ろしていた。
遺髪は彼の手の中でくしゃくしゃに握りつぶされている。
「弔いに使ってくれ」
そこまで言って、頭を下げたままソフィアはどうすべきかわからなくなってしまった。
謝罪をするつもりは無かったが、気の利いたことの一つでも言えるものだと思っていたのだ。
そもそもこうやって遺髪を届けるのは草原の女王国のしきたりであって、この国では違う。
迷惑だったかもしれない。
「あいつは」
かすれた声に顔を上げると、主人は手の中の包みを握りつぶしたまま、ソフィアをまっすぐに見ていた。
「兄は何と名乗っていましたか?」
不思議な質問だった。
「マティアス。と」
ソフィアが答えると、主人はふふふっと声をあげて笑った。
「マティアス。ふふふ、マティアスってか」
その笑顔は、ものすごく老いて見えた。
「あいつの本当の名前はね、ブルトっていうんです。
村一番のろくでなし。
口だけブルト。
うそつきブルト。」
ブルト。
なんとも平凡な名前だ。
確かにろくでなしで、口だけで、嘘つきだった。
それでもソフィアは何も言えずに黙って聞いていた。
おもむろに、
はあぁーっ。
と、大きなため息をついてから、主人は立ち上がった。
「ソフィアさん。こんなこと言うなんておかしなやつだと思われるかもしれませんけど、良かったら一杯付き合ってもらえません?」
弔い酒ということだろうか。
それならば付き合おうとソフィアは頷いた。
主人は遺髪をポケットに突っ込むと立ち上がり、右手を差し出してきた。
どうやら握手を求めているらしい。
兄を殺した女と握手をかわそうというのか。
何とも風変わりな夜になりそうだと、ソフィアは求めに応じて手を握った。
「俺はリヒト・ボーマン。
わざわざ訪ねてきてくれてありがとう」
主人、リヒトの顔は晴れ晴れとした笑顔だった。