香草酒(前)
故郷である草原の国を出て二月。
目的地である小さな村に到着した。
…本当はもっと早く着くはずだった。
と、ため息が漏れる。
故郷の馬は若い駿馬で、走りたいのに走れない山道に鬱憤をためている様子だった。
それを可哀想に思って、途中から徒歩の旅に切り替えたのだ。
結局、可哀想なのは自分の身体だった。
これも鍛練だ。
己に言い聞かせて歩みを進めたけれど、少々きつい。
これは決して二日酔いのせいなんかではない。
まだ陽は高い。
両開きの扉を押してソフィアは店内に入った。
まばらな客の視線を一身に受ける。
訝しげな、警戒の視線だ。
どうやら女の一人旅が珍しいらしい。
小さな村だし、仕方ないことだ。
ソフィアはそう納得したが、客たちはそうではなかった。
女にしては大柄でしっかりと日に焼けたソフィアを、傭兵のようだと思ったのだ。
腰には剣を下げて、大きな荷物を軽々と背負っている。
騎士というにはみすぼらしいが、旅人にしては物々しい。
傭兵の姿は戦を思い出させる。
客たちの視線が厳しいものになるのも当然であった。
それら全ての視線を無視して、ソフィアはカウンターに身を預けた。
ほどなく、主人と見られる男が顔を見せる。
金髪の、細い身体の優男だ。
ソフィアよりずっと年上だろうが、恐ろしいほどの童顔である。
「いらっしゃい。悪いけど、クーヘンなら今窯に放り込んだところなんだ。あと半刻ほどかかるよ」
主人は人懐こい笑顔でそう言った。
目当てはこの店のクーヘンだ。
外はまだ明るい。
時間はある。
ソフィアは迷わず頷いた。
「待つよ。その間にこの辺りの酒をもらえるか」
「それじゃあ適当につまみを持っていくよ」
「これで頼む」
と、銀を先払いすると、主人は弾むような声で礼を言った。
途端に客たちの剣呑な視線が霧散した。
金がないと思われていたのか?
そんなにみすぼらしい格好をしているつもりはないのだが。
少し気恥ずかしくなって、ソフィアはそそくさと適当な席に腰を下ろした。
背負い袋を下ろして背中を伸ばすと、凝り固まった筋肉に心地よい痛みが走った。
気恥ずかしさも忘れて背を丸め、卓の下に足を投げ出す。
「はい、香草酒だよ」
酒だと出されたのは、いびつな広口壷だった。
ソフィアの肘から手までほどの大きさの壷に、木製の柄杓が1本入っている。
壷の中には、香草酒の名の通り、香りのする酒が並々と入っているようだ。
杯を忘れているのではないだろうか。
そう言おうとしたが、主人はさっさと厨房へ引っ込んでしまって、ソフィアは初めて見る酒に戸惑った。
「ねえちゃん、香草酒は初めてか?」
声をかけられて見ると、すでに赤ら顔の労働者らしき男が3人。
壷を前に戸惑うソフィアを旅人だと認識したのか、いずれも人懐こい笑みだ。
「ほれ、こうするんだよ」
そう言って、飲んで見せてくれた。
なるほど。
柄杓で酒を掬って、そのまま口をつけて飲む。
飲み干した柄杓は壷に立てかける。
壷の形がいびつだったのは、こうやって柄杓を立てかける為だったのだ。
男達が飲んでいる壷には、柄杓が3本立てかけられてある。
礼を言ってから、ソフィアも彼らに倣って柄杓に口をつけた。
んんん!
と、強烈な香草の香り。
目の覚めるような辛い酒だ。
そのくせ、それほど酒精はきつくない。
喉を焼くような不快さの代わりに、わずかにシュワっとはじけるような感触がある。
立て続けに2杯を呑み干して、はぁっと息を吐いた。
解放感に身を委ねて、束ねていた栗色の髪をほどく。
少し汗臭いが気にしない。
体中にへばりついていた怠さが飛んでいく。
「口に合ったかい?」
主人がつまみを運んできた。
小芋の串揚げと、酢漬け野菜だ。
小芋の串揚げには岩塩と香草がまぶしてある。
「あぁ、壷が出てきたときはどうしようかと思ったが、美味いよ」
「あ、そうか。
いやぁ悪かったなおねえさん、ここいらじゃこの飲み方が普通でね。杯、持って来ようか?」
「いや、このままで構わない。ありがとう」
酢漬けの野菜を指でつまんで、口に入れる。
ゴリゴリと歯ごたえのある根菜は、少しきつめの酢によく漬かっている。
柄杓を使って香草酒を呑むと、急に腹が減ってきた。
「リヒト、こっちにも小芋の串揚げ」
「はいよ」
リヒトと言うのは主人の名前か。
注文が飛ぶ。
酢漬け野菜を口に入れながら、ちらりと主人のほうを見ると目が合った。
「おねえさんも、足りなかったら声かけてよ」
なんとも邪気の無さそうな男である。
厨房へ帰っていくその背中を眺めながら、ソフィアはもう一杯の香草酒を口にした。
うん、うまい。
この一杯の為だけでも、国を出た甲斐があったというものだ。
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しばらくして、クーヘンの焼ける良い香りがしてくると、店は少しずつ混みだした。
客は皆、同じように壷入りの香草酒を飲み、小芋の串揚げを食べている。
あの、善良そうな主人一人きりで店は回るのか?
と、ソフィアが柄にも無く心配になった頃、恰幅のいい中年女性が現れて給仕を始めた。
女一人で飲んでいるソフィアを心配したのか、細々と気をかけてくれる良い給仕だ。
あれこれと詮索されないのも有難い。
「はい、おねえさんお待ちどう!
待たせて悪かったね、お詫びに、大きいやつをどうぞ」
待ちに待ったクーヘンがやってきた。
申し訳無さそうに主人が言う通り、えらく大きな一切れが皿に乗っている。
いいのか?
と、ソフィアが聞くと、主人は笑顔で皿を差し出してきた。
立ち上る湯気から、白玉葱の匂いがする。
ソフィアは厚意に甘えることにした。
皿の上にある四角い物体は、クーヘンと呼ぶにはいささか抵抗のあるものだ。
ソフィアの知っているクーヘンとは違う。
そもそも、クーヘンとはお菓子だ。
果物やクリームで装飾しない、素朴でどっしりとした生地のお菓子。
甘酸っぱいジャムを塗ったものがソフィアの好物だった。
白玉葱の匂いなどしないはずだ。
ソフィアは意を決してフォークを手に取った。
一口大に切り分ければ、それは確かにクーヘンのしっとりとした感触。
切り口からペロリと白玉葱の薄切りが顔を出している。
半信半疑で口へ運ぶ。
おっ
と、思わず声を上げそうになった。
確かにクーヘンだ。
甘くないクーヘンなのだ。
中身の白玉葱はとろとろに溶けて、パサパサなはずの生地にしみ込んでいる。
砂糖ではなく、塩で味付けしているのだ。
なのに、味わうとほのかに甘みもある。
控えめな香辛料の香りも。
思わず香草酒を飲めば、驚くほどに相性が良かった。
白玉葱、香辛料、香草。
匂いの強いものばかりなのに、少しもしつこくない。むしろさっぱりしている。
これは美味い。
『その店のクーヘンはちょっと変わっているんだ。
クーヘンなのに甘くないんだよ。
白玉葱がたっぷり入っていて。
…あはは、そんな顔しないでよ。
みんな、そのクーヘンをおつまみにしてお酒を飲むんだ。
うん、お酒。本当だよ。
お酒には香草が何種類も入っていて、いくらでも飲めるくらい、癖になるんだ』
やけに鮮明に、そんな会話を思い出した。
彼の言葉には嘘が多かったが、これは本当だったのか。
妙に納得しながら、香草酒をぐっと飲む。
もう、それほど心はざわめかない。
マティアス。
結婚式の当日に、ソフィアではなく他の女と逃げた男。
あの日、ソフィアは完膚なきまでにたたきのめされた。
当時17歳。
ソフィアは将軍家の長女である。
その醜聞は、それこそ国を巻き込んで大きく知れ渡ってしまった。
ひっそりと泣く事もできなかった。
≪お気の毒なソフィア様≫と言われるのが一番堪えた。
あれから3年。
思い出すだけで羞恥に震え、怒りに燃え、悲しみに沈んでいたあのマグマのような感情は、ぼんやり霞んでいる。
人間の心は良く出来ているとソフィアは思う。
きっと、そういう風にできているのだ。
もう生きているのも嫌だと泣いたことも、霞んでいくようにできているのだ。
ふーっ。と息を吐いて。
さて、もう一杯。
と壷に柄杓を入れたところ、コツリと軽い音がした。
壷を覗き込むと、ちょうど一杯分ほどの酒が残っている。
どうやら飲み干してしまったらしい。
あんなに鮮明に思い出すのは久しぶりだった。
意外と酔っているのだな。私は。
ひそかに苦笑いをこぼして、周りを見渡した。
仕事の終わる頃なのだろう、労働者風の客が増えてきた。
少し物足りない気もするが、混む前に店を出たほうが良いだろう。
未練がましく皿の上に残したクーヘンの一切れを口へ放り込み、最後の酒をぐっといく。
背負い袋を肩に下げて立ち上がった。
酒の飲み方を教えてくれた男達はまだ飲むようだ。
軽く会釈をしてから外へ向かう。
「あ、おねえさん、ありがとね!」
主人がカウンターから屈託のない笑顔をのぞかせた。
外はまだ明るい。
このまま宿をとって寝てしまうのもいいなと思った。