*美術室
渡り廊下を渡って下に下りると美術室はある。
森下先生に連れられて入ると、つんと絵の具の匂いがした。
「川村柚菜…川村柚菜……」
森下先生は10個ぐらい積まれた袋の山をごそごそして、「あったあった、これだな」と言いながら紙袋を差し出した。
「あと8枚も返さないといけないんだ」
森下先生は後ろに積まれた紙袋の山を見て、困った顔をする。
「全部先生の担当した生徒なんですか?」
「いや、先生のクラスのやつはあと1人だ。そうだ、川村たちと同じクラスの……」
もう1人の取りにくる子の名前は、放送のチャイムで途切れてしまった。
((森下先生、至急職員室までお願いします))
「おお、なんだろうな。すまんな、柚菜。先生行かなきゃ行けないから、ゆっくり校内でも見ていきなさい。先生職員室にいるから、帰る前に必ず声かけろよ」
「はい、わかりました」
申し訳なさそうな先生に、笑顔で頷くと、先生は早足で美術室から出ていった。
美術室を見渡す。
机の配置は少し変わってるけど、地の色が分からないくらい落書きされている机はあの頃とかわっていなかった。この教室の机は、唯一落書きが認められてる(というより諦められている)机で、わたしの時には既に、何年も前の先輩たちの落書きがつもりにつもっていた。
10個の4人掛けの机を1つ1つみてまわる。
「あった!」
探していた落書きは、7つ目の机にちゃんと残っていた。
隣合ってかかれた"祐輝""柚菜"の字。"祐輝"の文字をそっとなでる。なんだか涙がでそうになった。
***
〜中2春〜
「柚菜、運動会の種目どうするー?」
隣に座る美奈が彫刻刀と格闘しながら言う。
今は美術の時間。
今月の課題は、手帳くらいの大きさの木の板を彫刻刀で削って立体的な絵をつくるというもの。美術の授業は先生が緩くて、いつもみんな席を移動してぐだぐだ喋りながらやる。わたしと同じ机の子もみんな席移動して、今は4人掛けの机にわたしと移動してきた美奈しかいない。
「んー決めてない。けど玉いれとか無難だよね」
うちの学校の運動会は、短距離と、女子は、綱引き、玉いれの2つから1つ選んで出場しなければならない。わたしのような文化部の人は、玉いれが多い。
「やっぱそうだよねーわたしも玉いれにしよう」
「え、美奈お前玉いれなの? もったいねー」
突然美奈の前にどかっと座ってそう言ったのは、去年同じクラスで、美奈とは小学校も一緒だった、伊藤隼人だ。
「ちょっとどういう意味よ、それ!」
「お前のこっわーい顔みたら相手が怯んで、勝てるじゃん」
「隼人さいってー!」
バシッと叩こうとした美奈の手をひょいっと避ける。よくみる光景に、つい笑いながら隼人に尋ねる。
「隼人は? 騎馬戦と綱引きどっちにするの?」
男子は騎馬戦と綱引きから選ぶことになっているのだ。
「俺? 俺リレー出るから出ないよ」
「え!? 隼人リレー選手なの?」
リレー選手とは、運動会の最後の種目であるクラス対抗リレーの代表選手。種目決めの前に決まるクラスで速い男子5人が出て、彼らは騎馬戦、綱引きには出場しない。
「嘘だー隼人そんな足速くないでしょ」
美奈が信じられないと言った顔で言う。
「ほんとだって! この前決まったんだよ」
「証拠は?」
「証拠? あ、そうだ。ゆうきー!」いきなり出てきたその名前に、また胸がどきんと鳴る。むこうの方の机で作業していた小山くんが叫ぶ。
「なに?」
「ちょっとこっち来て! 頼む!」
小山くんは少し不思議そうな顔をして、席をたった。
「小山も選手だからさ、聞いてみろよ」
勝ち誇った顔をして隼人が私たちを交互に見る。近づいてくる小山くんに、どんどん胸の鼓動が速くなるのが、自分でも分かった。
「なに?」
小山くんは私たちを見回しながら、空いていたわたしの前の席に座った。
「祐輝、こいつらに俺がリレーの選手だって言ってやってよ」
「え?」
「ね、小山! ほんとに隼人リレー選手なの?」
美奈が身を乗り出して尋ねる。
「そうだよ」
「えー!」
「ほらみろ」
どや顔をする隼人に驚きを隠せないわたしたち。それをみて小山くんが焦ったように言う。
「え、ごめん隼人。話が読めないんだけど」
「柚菜が何の種目出るの?て言うから俺がしょーーじきにリレーだって言ったら、美奈も柚菜も全然信じてくんねーの」
「なるほどね。隼人去年同じクラスだったの?」
「そうそう。こいつなんて小学校から」
隼人が怪訝そうに美奈を見る。
「なによ、その目は!」
また言い合いが始まり、またわたしが笑っていると、小山くんがわたしをみて、「いつもこうなの?」って笑って聞いてきた。
「うん」
急に小山くんに話しかけられて、収まってた鼓動がまた加速する。
「ゆうな」
「へ?」
いきなり小山くんに下の名前で呼ばれて、驚いてまぬけな声が出ちゃった。
「……ってどういう字書くの?」
あ、字ね。びっくりした。
「えーとね」
「書いて、ここに」
小山くんが机をトントンと叩いて言う。
「落書き?」
「うん。1回書きたくない? この机」
小山くんのいたずらっぽい笑顔に、どきどきして目が離せない。頷いて、机のはしっこに、"柚菜"って書くと、小山くんはわたしの手からペンを取って、「ふーん。俺はね……」と言って、身を乗り出してわたしが書いたすぐ横に、"祐輝"と書いた。身を乗り出した時に、距離が近くなって、ますますドキドキする。小山くんの名前なんてもちろん知ってたけど、小山くんの字で書かれたちょっと曲がった"祐輝"の字を見るのは初めてで、嬉しくなってつい笑顔になる。
「なに、そんなに下手? 俺の字」
「違う違う」
顔を見合わせて、くすくす笑いあう。
むこうにいる男子が小山くんの名前を呼んだ。すると小山くんはそれに返事をしながら、去り際に、「じゃーね、ゆうな」って、ほんとになんでもないように、さらっと言った。
柚菜っていわれた…!
嬉しくて恥ずかしくて、体温の上がった頬を両手で覆って冷やす。机の上の文字を見る。曲がった字。それだけで、胸がきゅんと、また締め付けられる。そのあと、わたしの美術の作業が全く進まなかったのは言うまでもない。
今でも、その字を見るときゅんと胸が締め付けられる。
鞄からペンを出して、その横に小さく2度目の落書きをする。
"大好き"