凄愴7
教会を飛び出して馬車を捉まえ、行き先を告げた。
走り始めて、ようやく背もたれに重心をかける。思っていた以上に体力の消耗が激しい。栄養価の高いものを考えているうちに、目的地に着いた。
運賃を払い、降り立つ。
この町唯一のシティ・ホテル、ル・シャトー。あの男が滞在しているホテルだ。
「……」
気を引き締めフロントへ行くと、受付の女性が愛想よく最上階への行き方を教えてくれた。
エレベーターに乗っている間も落ち着かず、このまま引き返そうとも思ったが、それでは何のためにと葛藤をしているうちに、無常にも最上階に到着する。
エレベーターから出て辺りを見渡すと、一つの扉しかなかった。
「ワンフロア……VIP用のスイートルームってことか……」
上等な待遇を受けている相手に会いに来たのかと思うと、自分の立場は何なのだと思いたくなるのは当然だろう。
……そして、フロムローズとの関係も……。
扉に備え付けのインターホンを押す。念のためフロントから、クレスラスが行くことを伝えてくれていた。
『―――……ロックは開いている。勝手に入れ』
インターホンから聞こえるこもった声に、普通なら部屋の主が出迎えるのではないかと一瞬過ぎったが、こんなことで腹を立てていると、皮肉めいた口調で返されそうだと思い直し、重厚な自動扉の開閉ボタンを押す。
中に入ると台の大人が三十人ほど入るようなアーチがあり、正面に伸びる広い廊下の壁には有名な壁が飾られていた。
奥に進むと更に自動扉があり、それを抜けると広いリビングと目の前にこの町を見渡せるパノラマウィンドウ。
目当ての人物を探すため、閉められた右手の扉を開けると、余裕で三人くらい眠れるほどのベッドがあった。
「ほう……。まっすぐ奥に行った奴は初めてだな」
「……!」
突然聞こえた声に、思わず振り向く。
バスローブと、濡れた髪をタオルで巻いている姿で、この部屋の主が壁にもたれて立っていた。
「何を、驚いている……。連絡を受けたときには風呂に入っていたんだから仕方の無いことだろう?」
「それは……そうだが……」
自分よりも広い肩幅。目の前に広がる厚い胸板。水分を含んだ青銀の髪を、知らず知らずに目で追いかけていることに気づいて目を逸らした。
「……サンフロアで待っていろ。すぐ着替える」
「ああ……」
クレスラスのからだを押しのけるようにして部屋に入ると、男は扉を閉めた。
バタン、という音にはっとして、初めに入ったパノラマウィンドウの下に平行して設置しているソファの一つに腰を下ろす。だが、豪華な装飾品だらけの部屋は、異様に落ち着かない。
「待たせたな」
顔を上げると、白いシャツにスラックス姿で部屋の主が出てきた。
「ワインでいいか……?」
「いらない」
「……」
目の前を通り過ぎ、反対側の部屋へと入って行く。間もなくして、片手にワインを注いだグラスと、もう片手に小瓶を持ってきた。
「ペリエだ」
「……どうも」
髪も軽く乾かしてきたらしい。外からの光を反射している髪は、先ほどより艶めいている。
「さて。ここに来た理由を、訊かせてもらおうか。先日聞き損ねたことか?」
「……」
クレスラスから少し離れた席に腰を落とし、ワインを一口含んだ。
「―――……用が無いのなら引き取り願おう……」
「……っ……」
クレスラスの、小瓶を握る手が震えた。
「……私も、暇ではないのだがな……」
「なぜ、俺のことを……?どうやって……」
ようやく口を開いたものの、その声色は弱弱しいものだ。
ワイズは目を細める。
「……訊きたいことは、それだけか……?」
「……」
「……昔の悪友に遇ってな。そこで、黒目黒髪の男の映像を見せられた。……火事を予知した映像に、覚えはあるか?」
クレスラスは頷いた。
相手はすべてを知っているようで、今更否定しても逆説の裏づけをしてしまうだけだ。
「……そこに映っていたのがお前だという確証は?」
「邸にまだ学生証がある。……そして俺の実家にも……まだ捨てられていなければ、研究に参加するときに交わした契約書もあると思う……」
伏せっていているクレスラスの表情は暗い。
「それだけあれば充分だ。……お前に未来予知ができるとして、在籍していた大学の研究対象になったが、あの火事が発生、どさくさに紛れて逃走。今に至る……と、考えていいか?」
「ああ……間違いない。いつ頃か父は酒乱で……。いつも母と喧嘩をしていた。だが、あるとき俺は父に売られ、それを知った母が精神を病んだそうだ。あの事件以来両親とも会っていなかったが、偶然にも母方の叔母に会って……。丘の屋敷はその叔母の別荘だったものを譲ってもらったんだ。……できれば、一生隠し通しておきたかったことだ」
やはりあらかた知られていたと、ほっとしたのかようやくペリエを一口飲んだ。
冷たい液体が咽喉を通ると、気持ちも落ち着いていることに気がつく。
「私はお前の居場所と能力を売るつもりは無い。……ただ、欲しいだけだ」
「……欲し……い……?」
「お前の居場所の所有権を欲しいと、言っているんだ」
意味が分からないと言うと、ワイズは一笑するだけで、クレスラスの隣に移動した。
掌を広げ、そこに透き通ったワインを溢す。
「……?」
ワインは手を濡らす前に、球体となって空中にいくつも浮かび上がった。
「これ……は……!」
クレスラスは幼い子どものように、ふわふわと浮かんでいる球体を眺めている。ワイズは空いた手でその内の一玉を掴むと、己のくちびるで挟み、クレスラスのそれに重ねた。
押し付けられたワインの粒が、クレスラスの口の中へと流れ込んでいく。口に含んだのは少量だけだったはずなのに、隙間から零れ、顎を伝い、胸元へと流れた。
ワインの芳醇な香りと、酸素を上手く吸い込めないことも災いして、酔いが回っていく頃ようやくくちびるが外された。
「……天性の才能だな」
「……居場所の、所有権とは……こういう……意味か……」
濡れたくちびるを手で拭った。
「安心しろ。私は男を組み敷く趣味は無い」
ならばなぜだ、と睨みつけると、ワイズは笑いながら顔を寄せてきた。自然にからだが構える。
「くくく……。お前は本当に単純だな……」
訝しげなクレスラスを嘲笑うように、ワイズはいつかの言葉を繰り返した。
「神父に気をつけろと、言っていただろう……?」
「だから、それとこれとどういう関係が……!」
ワイズは立ち上がると窓辺に寄り、振り返り、
「それはのちのちのお楽しみということにしておこう。さあ、他に訊きたいことが無ければ帰れ」
その表情に、背筋がぞくっとした。