凄愴2
クレスラスはベッドの背にもたれ、ベッドサイドで林檎がだんだんと形を変えていく様子を、ぼんやりと見ていた。
視線に気がついて、巧く兎形に切っていたフロムローズは顔を上げる。
「……どうしたの?はい。出来上がり!召し上がれ」
「ありがとう。相変わらず巧いね……」
ようやく物を食べられるようになったクレスラスだったが、林檎のような固形物を口にしたのは二週間ぶりだろうか。久しぶりの食感に、口内が驚いている。
フロムローズも瑞々しい林檎を頬張った。
「うん。美味しい!だけど、練習不足ね……。腕が落ちたわ……」
「充分じゃない?」
何度も角度を変え見てはため息をついている。
「だって、均等な八等分ではないし、本来ならお目目は必須よ!……耳だってもう少し曲線にできたのに……」
「……でも、躍動感は出てるよ。それでは駄目?」
そういうことに興味が無いクレスラスは、包丁を扱う職人たちにとっては重要なことなのだろうと、安易に言うことは止める。
彼女は立派な包丁職人だ。彼も自分の目で何度も見ている。真剣な双眸で操る凶器は、まるでバレリーナのように、妖艶に、優雅に舞う。
「ん~。クレスがそう言うのならいいわ」
少しの間クレスラスと離れている間に、彼女のほうにも変化が合ったよう。神父の影響だろうか。彼はフロムローズをレディとして呼ぶので、もしかしたら彼女の中で、それに見合うようにと成長しているのかもしれない。
「そういえば、フロムローズ。廊下には何があるの?」
「もう大丈夫ね。ちょっと待っていてちょうだい」
彼女は立ち上がると、扉を開けた。
「なんだ……?」
彼女が引っ張ってきた、長机の上に並べてある溢れんばかりの花が、部屋の空気を一瞬で換えてしまった。
次に持ってきたのが、果物やワインなどが並んでいる机。
「全部見舞い品よ。受け取って」
「これ……全部?」
「ええ。それと、冷蔵庫にもあるの。クレスが食べれないうちに危なくなりそうなものだけ私と神父様で頂いたから。後はクレスの分」
「……結構、押しかけた?」
ベッドから下り、貼付されているメッセージカードを確認する。次に会った時には何かしら礼をしなければ。
「さあ。神父様が出てくれたから……。私は噂の件もあるから表に出ないようにきつく言われちゃって……。こんなに噂が大きくなってしまったのは、私が原因でしょ?なら、言うこと聞くしかないじゃない。邸にあんな大勢来られても困るし……」
少し申し訳なさそうに喋るが、それでも誇らしげな目をしていた。
「助かったよ。邸を知られるのだけは、本当に勘弁だからね。ありがとう」
「―――……どういたしまして」
換気のため窓を開けると、肌寒い風が吹いてきた。花々の香りと共に、風邪も、あの日の出来事も吹き飛んでいくように……。
「邸に帰ろうか」
ふと、呟いた。
「え?」
窓の外を見ているクレスラスの表情は見えない。
以前よりも背中が小さくなった気がして、フロムローズはベッド脇にあった上着をクレスラスに差し出した。肩にかけるまで身長が無いのが残念だ。いつもなら年相応の身の丈だと思っていても、このときばかりは大人と子どもの違いをまざまざと見せつけられてしまう。
「また風邪ひくわ」
「ああ……そうだね」
上着を受け取る際、フロムローズの暖かい手が触れた。冷たい風に当てられているからだは少し冷たくなっていて、彼女の温もりが気持ちよかった。
ジャケットの袖に腕を通し、襟を立てると、隣で心配そうに見上げてくる翡翠と目があった。
「きゃあ!」
突然抱え上げられたからだは不安定で、フロムローズは思わず縋りつく場所を探し、腕を伸ばしてしがみついた。
「大胆だね……」
そう言って、クスクスと笑う声がすぐ傍で聞こえる。漆黒の頭に掴まっていたフロムローズは慌てて腕を放すと、余裕なクレスラスに叱咤する。
「クレスが悪いのよ!」
不意打ちで抱えられ、気づけばクレスラスの左腕に座っている状態。
クレスラスは服を着ていても細いからだで。更に痩せたというのに、フリルがたくさんついたドレスを着ているフロムローズを軽々と抱え、腕だけで支えられている。
普通にお姫様抱っこされた方が、バランスはいい。
立っているクレスラスを、初めて上から見下ろすせいか、今までされたことがないことをされたからか、フロムローズの心臓は鳴りっぱなしで。
クレスラスに、男を感じた瞬間だった。
「帰る?」
間近に見上げられて、視線が絡み合う。
「……ええ……と……。ほら、二週間も掃除していないし……。食べ物も駄目になっていると思うの。まだここにいるほうが、クレスの調子も良くなると思うんだけど……」
「なに?……俺と二人きりじゃ、嫌なの?」
「……!」
こんなに近い距離でクレスラスの顔を見るのは初めてで、何故だろうか、緊張してしどろもどろになってしまうのを止められない。
突然変貌したクレスラスに思考が追いつかず、黙ったままでいると、空いている指が伸びてきた。それは彼女の頬をかすめ、銀糸を巻きつけている。高熱のせいでおかしくなったのだろうかと勘ぐるが、長くは続かない。さっきから、彼の仕草一つ一つに張り裂けるくらい動悸が煩い。視線も絡み合ったままで、逸らせないでいた。
「い……嫌じゃないわ……」
言葉になっただろうか。口も震えている。多分クレスラスには伝わっているはずだ。きっと、今の自分は赤面しているから。
「……神父様を呼んできてくれるかな?多分礼拝堂にいらっしゃると思うから」
「分かったわ」
少女のからだを静かに下ろすと、クレスラスはそれ以上言うことはないと、窓の外に視線を向け、口を閉ざした。
フロムローズは、なぜだか措いていかれたような気になったが、神父を呼ぶため、部屋を出た。