約束
路傍之杜鵑さんの立ち上げた三十枚会、の企画に向けて書き上げた短編です。原稿用紙三十枚、ということだったので、横二十文字(エディタの設定では40文字)で580~600行、という量になるようにしました。
一度は読み返しました。 一応、修正の期間もあることですし、締切りも過ぎてるので、まずは投稿してしまいます。(あはは。 見切り発車です)
それでは、お読みいただければ。 そして、ご意見、感想、批評、コメントなどなど、いただければ大変ありがたいです。
よろしくお願いいたします。
作家として生活を始めてほぼ五年。 なんとか普段の生活に困らない程度には仕事をもらえている。 そうするための努力は欠かしていないつもりだし、自分で言うのもおこがましいけど、私自身に作家としての才能というか、適性も多少はあったのだと思う。 それでも、何より大きなことは、いい編集者に恵まれたってことだと考えている。
そう考えればラッキーな人生だと思うし、もちろん、この生活に不満がある訳ではない。 作家として文章を書くことはやりがいがあるし、そのやりがいのある仕事を続けていくことが出来るのは、とてもありがたいことだと考えている。
でも当然、調子よく行くばかりではない。 ときとして文章が、言葉が出てこなくなってしまうことがある。 大抵の場合はちょっと遊びに行ったり、休憩したり、そして本を読んだりすることで調子を取り戻すことが出来ていた。
けど、今回はそう簡単には行かなかった。 そろそろ夏が本格化する季節。 この季節は、私の心は飛んで行ってしまう。 それは毎年のことで、これまでならば、そんな時は外に出て遊ぶことにしていた。 思いっ切り体を動かして、何も考えられないくらいに遊んで、そして気の合う仲間と騒いだりすることでいつもの自分を取り戻すことに成功していた。
でも、今回はそれでは駄目だった。 今年は特別だった……。
あの約束のせいだ。
遥かな日に交わした約束。 その約束が今回の不調の直接の原因なのは間違いなかった。 あの約束は今も有効なのだろうか? そう信じたい、そう考える私と、そんな昔のことにいつまで拘るのか、そう考える私の二人の私が鬩ぎ合っていた。 これまでは、期限がまだ先だということ、約束の相手とどうやって連絡を取ればいいのか判らないこと、そんなことから、答えを先延ばしにしてきた。
単に約束だけを胸に生きてきたのなら、いっそ答えは単純だったのかもしれない。 けど、離れ離れの日々は、あの人以外の存在を許す時間を作ってしまった。
触れ合うことが出来ない、話しあうことも出来ないあの人。
私は、本当にその約束を守ることを望んでいるのだろうか? それでもとにかく、まだ、約束は破られてはいなかった。
あの時、約束に嘘が無かったのは確かだし、あの約束が、これまで私を支えてきた。
それは確かだと考えているけれど、もしかしたら少し違うのかもしれない。 あの約束が本当に私を支えているのか、それとも、実は約束に縛られているのか……。
遠い日に交わした、無垢で無謀な約束。
その約束を叶えたい、でも本気で叶うとは信じられない。
約束なんてしなければよかった、いえ叶えたい。 でも、怖い……。
そんな葛藤が私の中で渦巻いていた。
実際のところは約束そのものより、私の、約束に対する気持ちを確認するのが怖いのかも知れなかった。 だからこそ、期限ぎりぎりまで先延ばしにしたのかもしれない……。
どちらにしても、このまま言葉が紡げない様では作家として失格。 その為には、この想いに何らかの答えを出さないと、そうしないとこれ以上前に進めない。 そんな気がしていた。
それでも決断できない私の背中を押したのは、担当編集者だった。
彼は、見た目としては特に目立ったところがない、妙におじさんくさい格好が似合う、それだけに穏やかで優しい風貌で、彼を見かけると思わず安心してしまう。 そんな人だった。
そして彼は、私の調子を見破ることに関しては本人以上で、これまでも、彼と話しているうちに、自分でも気が付かない様々なことを再発見していた。
編集者として、執筆中の物語について意見を交わすのは当然としても、書いている当人のことに関しても、なんでそんなに分かるんだろう? 時としてそんな驚きを感じた。
まぁ、あまりに自分のことを分かられ過ぎる、というのは相手によっては不快に感じることがあるのだけど、彼に対してそんな反発を感じたことはなかった。
今回もそうだった。
「きみの中に、何か大きな葛藤があるのは判る。 これまでにも何回かその葛藤は感じた気がするけど、どうも今回はこれまでと違う様に思う。 勝手な意見だけど、ここは正面から向き合うべきだと思うよ」
彼のそんな真っ直ぐな意見は私の中にすとんと入ってきた。
なので、私は生まれ故郷を訪れることにした。
名目としては取材旅行ということになった。 私の書く物語には、生まれ故郷の温泉街が舞台として登場することが多く、丸っきりの嘘ではなかった。
翌朝、妙におじさんくさい、そんないつもの岩浪さんと落ち合い、バスに乗った。
取材なのだから一緒に行くのは当然、と言う言い訳と、彼に一緒に来て欲しい、という単なる私の望みが矛盾しなかったからだ。 幸い、彼は二つ返事で了解してくれた。
「山科さんの故郷なんだよね?」
「えぇ。 尤も、小学校を出る前に引越しちゃったんで、あまりはっきりとした記憶もないんですけどね」
「あまり帰ったことはないの?」
「両親も居ませんし、本当に幼いころに住んでたってだけなんです」
「小さなころの思い出って、すごく大事なものだからね」
「すいません。 私の我侭で……」
「いやいや、僕も久しぶりの旅行で楽しみだよ。 しかも、きみみたいにきれいな女性と一緒になんて、役得ってやつだよね」
おどけてるのだろうけど、そんな言葉に、うっかり頬を染めてしまいそうになった。
「もう。 お上手ですね」
そんなことを言いながら顔を窓の外に向け、普段とは違う自分の動揺を感じ、激しい動悸を鎮めようとした。
正面から向き合うべき、それも本心だろうけど、それだけではない、私を気づかう暖かな気持ちも感じられた。 それは、他の人だったら余計なお節介、そう感じたことだろう。 でも、彼に対してはそんなことはまったく感じなかった。
彼の私に対する気持ち、というのはどの辺りにあるのだろう。 時として、彼の視線にはっとすることがあった。 私の生み出す物語に関して考えているだけなのか、それとも私のことを考えているのか。 それでも、彼がその視線以上に踏み込んでくることはなかった。
そして、私自身は? 情けないことに、それが一番判らなかった。
普段の仕事にはまったく問題はない。 問題は、仕事が一段落したときだ。 創作と創作の間に生まれる、ちょっとした瞬間。 その瞬間を彼と共有することで感じる安らぎ、高揚、そして動揺。
まるで世界にいるのが自分たちだけで、時間が止まってしまったかの様に感じる、もどかしくも安らいでしまう、得難い貴重な瞬間。
そう感じてしまう理由を認めまいとしてきた。 そして、そう感じているのは私だけなのだろうか? 彼もだろうか? 訊いてみたい、けど怖い。 私はそれを手に出来るのだろうか? 踏み込んだことで失うことは無いだろうか? ならばいっそこのままで。
私たちが作家と担当編集者としての相性がいいことは確かで、これまでに二人で組んで作り上げてきた物語は、どれも一定以上の評価を受けていた。
だから、それで十分……。
そんな私たちを乗せ、バスは走り続けた。
九十九折の坂を登り、道の駅を過ぎると、もうそこは約束の眠る地だった。
温泉街に到着すると、まずは宿に向かった。
宿は町の中心となる湯畑からすぐの場所だった。 湯畑そのものには、大した思い出はなかった。 そこは観光地であり、その町の子供である私たちにとっての遊び場じゃなかった。
でも、そこから近い旅館街は、私たちの遊び場だった。 駐車場、そして細い道と突然現れる狭く急な階段。 薄暗い、そんな場所のどれもが秘密の隠れ家で、きらめきに満ちた想いと一緒に走り回った魔法の庭だった。
そして、自分でも改めて気が付いていたけれど、私の書く物語に時折登場する町の風景は、この町の風景が基本にあった。 時として、自分の作り出した世界を歩いている様に感じることさえあった。 まぁ、実際は逆で、私が記憶を元にこの町の光景を再現しようとしてるのだけど。
「この辺りは詳しいの?」
「そうですね。 当時の友達と一緒にこの辺はよく走り回ってました」
そう。 バスターミナルから宿までの短い距離を歩く間にも、そんな懐かしい場所に幾つも出会っていた。
「なるほどねぇ……。 それにしても、やっぱり、というべきかな」
「え? なんのことです?」
「この町、きみの物語の描写を思い出すなぁって。 さっきの小さな脇道、その階段を見たとき、あそこから物知りお爺さんがひょいって出てくるんじゃないか、なんて思ったよ」
「ええ! そうなんです! あのお話、舞台になった町は、確かにこの町がモデルで、あの登場シーンは確かにあの階段をイメージしてたんです」
「何だか、きみの物語の世界に飛び込んだみたいで、どきどきするね」
「でも実際は逆なんですよ。 私がこの町を真似て描写を作ってるんだから」
そんなことを口にしながら、私は本当に驚いていた。
彼が口にした物知りお爺さんというのは、私が何年か前に書いた短編の登場人物で、その短編は取り立てて特徴もなかったし、話題になった訳でもなかった。 その物語のことを、そんなにも鮮明に、私が考えたとおりのイメージを持っているなんて。
まぁ、その物語も彼と一緒に作り上げた訳で、それぞれのシーンについて語り合ったことは覚えている。 けど、そんな昔のことを、しかも、ふと通りがかっただけで、その場所を正確に物語の中のシーンに結びつけてしまうなんて。 私自身ですら、全体として、この町は私の物語に繰り返し出てくる部分がある、そうぼんやりと感じるだけなのに、作り上げた物語の一言一句、その背景まで、どれだけのことを考え、想像しているのだろうか。
その考えは、とてもくすぐったかった。
そう、今、私と彼のつながりは物語を一緒に作り上げることだ。 その私たちのつながりに関することをそんなにも大切にしてくれている、それはくすぐったくて、誇らしく、そして何より、とても嬉しかった。
彼との間には数々の言葉のやり取りがあった。
けど、改めて考えてみると、不思議なくらいに私たちは単なる協力者だった。 物語を創る、ということは、自分たちのかなり深い部分をさらけ出して語り合うことが多く、おそらく、これまでの誰よりも私と言う人間を知っているんじゃないか、そう思ってしまう。 私も、彼のことはかなり知っているつもりだった。
そんな二人なのに……。
不思議なくらいに男と女ではなかった。 私にはこのややこしい約束という縛りがあったから、踏み込めずにいた、という理由もあったけど、彼にも何か理由があったのだろうか?
いや、単に彼の目には私など女性としては映ってないだけなのかもしれない……。
どうしてか、その思いつきは、私をひどく落胆させた。
何にしても、まずは、あの約束と向き合わなければ。 そして、その約束に対する私の気持ちとも……。
約束。 それはもちろん、当時の私とあの人が、その将来について何の気なしに交わした口約束のことだ。 その場所は、みんなでよく遊んだ神社近くの公園。
当時、私たち子供たちはその公園で遊んでいた。 時には長い階段を上って神社まで行くこともあったけど、大抵は公園を走り回っていた。 大体は五~六人の集団だったと思う。
私は、中でもとりわけ一人の男の子と仲良しで、よく手をつないでいた。 と言うか、実際のところ私はその男の子が大好きで、彼のお嫁さん気取りだった。 つまり、大変にませた子供だった訳だ。
けど、想いの真剣さっていうのは、子供だからって軽い訳じゃない。 私はとても真剣だったし、その男の子、あの人も真剣だったと思う。 そして、離れ離れになる、そのほんの一瞬前まで、私たちは二人の関係が変化するなんて、そんなことはこれっぽっちも疑ってなかった。
だから、安易な口約束を交わした。
よりにもよって、二人が離れ離れになる直前のタイミングで。 そのタイミングも、あの約束を本来以上に重く受け止める原因になっているかもしれない。
小学校の終業式の日。 その夕方、みんなで遊び、みんなが先に帰ってしまったあと、私とあの人は、階段を上って神社に行った。 そのとき私は、その翌日から家族で旅行に行く、という彼に向かって駄々をこねていた。
彼は鈍いと言うのか、男女のことに関して妙に察しが悪い人だった。 いや、まぁ、小学生なんだから、私が妙にませてただけかもしれないけど……。
「だから、一週間で帰ってくるさ、そうだ、お土産もいっぱい買ってくるしさ」
「お土産なんかいいから、ね、早く帰ってきてね」
「はいはい。 分かったよ、沙紀は寂しがりやだな」
「そうよ。 ちゃんと約束して!」
「はは。 いいよ。 おまえとはずっと一緒に遊ぼうな。 そうだな……」
そうして彼は、他愛もない、けど無謀な約束を口にした。
「二十年後、 二十年後の今日、ここに二人でお参りしようぜ」
「うん! 二十年後もね? 約束よ!」
「あぁ、約束だ」
そんな風に約束はなされた。
それがあの人と交わした最後の言葉だった。
その声が、今も私の中で響いている様だった。
全く予想してなかったけど、彼が旅行に行っている間に私は引っ越してしまった。 両親によれば、かなり前から私にはその話をしていた、ということだったけど、私が聞く耳を持っていなかったのか、私は全く気が付いてなかった。
そうして私たちはお互いの関係を失ってしまい、約束だけが残された。
その約束はお互いの想いを支えるもののはずだった。 けれど、それはお互いがとなりにいられれば、だったのだろう。
それでも、約束に支えられ、私は新しい場所で一生懸命に暮らした。
両親にとって、まだ小学生の私の訴えは、いずれは新しい出会いによって思い出に変わる幼い別れの記憶に過ぎなかった様だ。 それは間違いではないのだろう。
でも、その時の私にとって、それは理解しがたいことだった。 だからと言って、何か具体的に出来ることはなかった。 約束を胸に彼を信じ、彼への想いを信じる。 そんな日々をすごした。
宿の窓から夕焼けが広がり始めた空を見上げていた。
正確に二十年後、というのはまだ明日。 今日はまだ約束の日じゃない。 だから、あの人が居なくても約束はまだ無効じゃない。 ここに来ても、まだ私は自分が何を望んでいるのか判らずにいた。
あの場所に行きたい。 ふいに居ても立ってもいられなくなった。
「すぐ戻ります」
岩浪さんにそう告げると、返答も待たずに宿を飛び出した。 広がり始めた夕焼けの中、約束の場所へと向かった。 途中、自分が宿の浴衣のままで、バッグも、何もかも持ってないことに気が付いたけど、気ばかりが焦り、足を速めた。
約束の場所に向かいながら、私は改めて思い返していた。 これまで、あの約束が支えていたものは、お互いへの想いだと考えていた。 けど、果たしてそうだったのだろうか?
いつの間にか、あの約束が支えるものは、あの人への想いではなく、私自身になっていたんじゃないだろうか? 想い、はあると思った。 思い出すと哀しく、切ない、けど暖かく、柔らかな微笑みを浮かべられる。 つまり、既に思い出じゃないだろうか?
だからと言って。 もし、あの人が私を待っていたとしたら? 二十年という時間を越えて、それでもあの約束が純粋に守り通されていたら? これまでの私の人生の、その大半の時間を支えてくれた約束を、あの人が守り通してくれていたのだとしたら?
もしそうだとしたら、私は、そんなあの人を振り切れない。 あの約束を、私が一方的に捨てることなんて出来ない。 確かに、その意味は変わってきたかもしれない。 けど、もしあの人が約束をそのまま守り通してくれたのならば、また元の意味に変えていくことはそんなに難しいことではないはず……。
そう考えた瞬間、心に浮かんだのは、岩浪さんの穏やかな微笑みだった。
もう二十年も会っていないあの人の顔を思い浮かべることは難しかった。
それでも、あの人との約束を疑う理由もなかった……。
けど、そうした場合、岩浪さんの、あの微笑を失うことになるのだろうか? その考えに私は衝撃を感じた。 彼は、今、驚くほど私を支えてくれている。 この何年かの間に、作家と担当編集者として、二人で一つのものを作り上げて行く、そんな共同作業をしているうちに、そんな時間を重ねるうちに、私と彼の信頼は揺ぎ無いものとなっていた。
その絆は失いがたいもの、そう感じた。
きっと、どんなことになろうと、彼の微笑みは、そして信頼関係は、それ自体は変わらないだろうと思った。 けど、その微笑を見ても、私がそこに感じる気持ちを失うことになる、私が彼の微笑を見て抱く想いを捨てることが出来るのだろうか……。
もっと単純にあの約束にすがって、その想いだけを抱いて生きてこれたなら、そうすれば、こんなややこしい悩みなど抱えずにすんだろうに……。
けど、もう戻れないことも判っていた。
私は、本当に約束を叶えたいのだろうか? それとも……。
自分が情けなかった。
ふと見上げると、夕陽の色が変わっていた。 そう言えば、夕方から天候が急変する、そんな予報を聞いた様な気がする。 そんなことを思い出していると、ぽつぽつと雨が降り出し、あっという間に本降りになってしまった。 浴衣では、さすがに土砂降りの中を突っ切って宿まで帰るのは無謀だし、通り雨だと思ったので、そのまま雨宿りすることにした。
空を見上げながら、中々止まないなぁ、このまま暗くなると困るなぁ、そんなことを考えていたときだった。
「そろそろ暗くなりますよ。 よろしければ、宿までご案内しますけど……」
その声に振り向くと、同年代と思われる女性が傘を差しかけ、微笑んでいた。
何時までもここにいると岩浪さんが心配するかもしれない。 そう考えた私は、その申し出をありがたく受けることにした。
私が宿の名前を告げると「あ、湯畑のすぐ向こうですよね、参りましょ?」彼女はそう言い、私を宿まで送り届けてくれた。
途中、ただ黙って歩くのも気まずい、ということもあったと思うけど、何より同年代らしい、という気軽さがあったのかもしれない。 私たちはお互いのことを話していた。 私は、自分が作家で、取材のためにこの地を訪れていることを、そして彼女は、その神社まで安産祈願をしに行った、ということを頬を染めながら話してくれた。
「助かりました。 本当にありがとうございました」
「いえいえ。 困ったときはお互いさま、そういうじゃありませんか」
宿に到着して、ロビーで私が連絡先を訊いても、なぜか彼女は「当然のことをしただけだから」そう言い連絡先を教えてくれなかった。 もう少し話したいな、そんな感じもあったけれど、彼女がそれを望まないなら仕方なかった。
彼女は丁寧にお辞儀をすると、雨の中を帰って行ってしまった。
浴衣姿で雨に濡れてしまった私に、宿の人がタオルを差し出しながら、ひっそりと耳打ちしてくれた。 岩浪さんが雨が降り出してすぐに飛び出していったこと、そして、あの彼女が連絡先を言わなかった理由を。 彼女はここから少し離れた別の旅館の若女将で、商売敵とも言えるこの旅館の店先で名乗るのを控えたのだろう、と。
やがて、私などより、よほどずぶ濡れになった岩浪さんが帰ってきた。
「あ、お戻りでしたか」
そう言いながら、穏やかな笑みを浮かべた彼は、手にした二本の傘を傘立てに挿した。 それでも、私を探しに行った、なんてことは一言も言わなかった。
そんな彼を見ていると笑顔になれた。
その時、さすがに私は分かって来た様な気がしていた。
きっとそれが私の望みなんだと。 その望みこそが、正しい答えなんだと。
それでも、その答えを手にすることにまだ躊躇いがあった。
翌日。 宿の人に聞いた、あの彼女の旅館を訪れた。 岩浪さんとは別行動だった。
そこは、私たちが宿泊する宿からは、湯畑の反対側に当たる場所で、お土産物屋さんが立ち並ぶ通りに面していることもあってか、活気にあふれていた。
宿のの入り口に、若女将としての装いに身を包んだ彼女がいた。
「あら。 ばれちゃった」
そんなこと言いながら舌を出す彼女は魅力的だった。 ちょうど一組のお客さんが出発するところで、若女将の彼女は挨拶に呼ばれた。 そのあいだ、と、彼女はご主人を呼び出した。
彼女に応えて奥から聞こえてきた声に、私の心臓が不規則に跳ねた。
その声を知っていると感じたから。
「こちらさんは?」
「ほら、昨日話した作家さんよ」
そんな会話で、私はその人と二人きりでその場に残されてしまった。
「昨日は、神社で雨に降られたんですって? 大変でしたね」
「私の不注意ですから、それに、奥様に助けていただけたので」
「あぁ、あいつはまぁ、私が言うのもなんですけど、気の優しいやつですから。 まぁ神社に何の用事があったか知りませんがね……」
その彼女に対する暖かな言葉が全てを語っている様に思えた。 けど続く言葉は、そういうことに如何にも鈍い、その相変わらずの察しの悪さに苦笑しそうになった。
「え? お子さんが出来たんですよね。 おめでとうございます」
「へ?」
その如何にも間の抜けた様な返答に、その人を見上げてしまった。 うっかり合わせてしまった視線には、驚きと、明らかに喜びの表情があると思った。 数瞬の間、時間が止まったかの様に見詰め合った。 そして視線を離す、その刹那、別の驚きの表情が覗いた様に感じられた。
「そうですか……。 お恥ずかしながら、昔からどうも察しが悪いっていうか、いや、これは参りました」
「私がばらしたってのは内緒にしときます」
「あはは。 申し訳ありません。 そうですか……。 あの神社にお参りに行ってたんですか……」
「ま、私にもあの神社にはちょっとした思い出ってのがありましてね」
何を言い出すのだろう……。 私は、心臓が暴れだすのを必死に抑えながら、相槌を返すのが精一杯だった。
「もう、二十年ほども前ですかね。 二十年後に一緒にお参りをしよう、当時、仲のよかった女の子とそんな馬鹿な約束をしましてね、いや、もちろん真剣でした。 でも、その相手とはそれっきりでね。 だからって訳じゃないつもりですが、随分とヤンチャをしました。 そんなとき、あいつに言われたんです。 約束を守るなら、その約束に恥ずかしくない人間になれってね。 で、……」
「わかります。 わたし、その気持ち、よく判ると思います」
「……。 そう、ですか……」
「きっと、その相手の方も同じですよ。 約束を支えにしていたと思います。 そしてそれは、その約束の相手に対して恥ずかしくない時間をすごす、そんな支えだと思います」
思い切って振り向き、その人を見上げた。 きっと私たちの表情は、とても暖かい、でも切ない笑顔だったと思う。
「奥様によろしくお伝えください」
そう言うと、視線を合わせないように振り返り、外に出た。
あぁ、あの人も同じだった……。
もし、もう少し早く再会すれば。 もし、お互いへの想いがもう少しだけ確かなものだったら……。
哀しい訳ではなかった。 それでも、涙が止まらなかった。
そんな私の足は勝手に動いていた。
もう二十年。 それでも、幼い頃に染み付いた道を間違えることはなかった。 一直線に、あの神社に向かっていた。
誰が居るとも思っていなかった。 それでも、そこに行くことしか思い付かなかった。
長い階段を上り、その場所に着いたとき。
妙に年寄りくさい格好の男性が振り向いて微笑んだとき、思わず笑顔になった。
どうにも私は、また約束をねだりたくなりそうだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
まだまだ、そう思ってしまいますね……。 でもでも、修正の期間に期待ってことで!!
ではでは。