まつとしきかば、いまかえりこむ
もう片付いてがらりとした部屋は物寂しく感じた。寝転がったまま天井を見上げ、時折溜息をつく。いつもより広く感じる部屋は居心地の悪さのようなものを感じてしまう。
そろそろ日がかたむきかけてきたのを見て、裕太はいつものように家を出た。はじめは家の周りをぶらぶらと歩き回ると、それから川の方へ向かい始める。見慣れた建物の並びも今日は少し違うように見えた。裕太自身もひとつひとつ、改めて確かめるようにその風景を見ていく。そんな風に慣れた道をしばらく歩いて、緩い坂を下っていくと街中を流れる川に出た。
古くからそこに架かる橋は、長い年月何度も改修・改築を重ねられ今も立派にその役割を果たしている。それでもやはり年期を感じさせる佇まいのその橋は、ところどころ傷みが見えて見えて痛々しく見えていた。裕太は小さな頃からこの橋の下の河原で遊ぶのが好きだった。幼い頃は父によく連れてきてもらっていたし、天気が悪くない限りは飽きるまでここで遊んでいた記憶がある。それに通学時には必ず通る道でもあった。それを考えると、ここを訪れない日は一日もなかったと思う。十何年経ってもこの場所はあまり様変わりせず、穏やかな様子のままだった。大きな道路ではないこの通りも普段はそれなりに往来もあるのだが、不思議とこの時間帯は人通りがぴたりと無くなるのだった。
見ると橋の中程の欄干に少女が腰掛けている。容姿は中学生くらいに見え、裕太よりだいぶ背は低い。長い黒髪がとても目を惹く。うつむき加減で暇そうに足をぱたぱたさせていた。
「よう」
近づいていって親しげに声をかけると、少女は顔を上げ表情を明るくした。裕太が毎日この橋を訪れるのはもう一つ、この子と会うことが目的でもあった。
「やっと荷造りも終わったし、明後日には行く。明日はいろいろごたごたしてるだろうから、今日会いに来た」
そう言うと裕太は彼女の隣りに同じように腰掛ける。いつものようにちょうど夕日が沈んでいく様子がよく見えた。
「そう……」
再び少女は伏し目がちになり淋しげな声を漏らした。その様子を見ると裕太は気が咎めるような思いになってしまう。そうなるとつい謝ってしまいたくなるのだった。
「ごめんな姫、俺――」
「なんで謝るの? いいことなんでしょ?」
変わらないトーンで言う彼女の顔を今日はちゃんと見られない気がした。どんな思いでいるか予想はつく。それを裕太もよく解っているからこそ気がかりなのなのだった。
「けど、姫の話し相手がいなくなるから」
それを聞くと彼女は押し黙ってしまった。つられて裕太も喋りづらくなる。今までになく、どうも気まずい雰囲気になってしまった。ここまで裕太が彼女のことを気にしているのは二人の間にしかない特別な関係と長い付き合いがあるからだった。
裕太と彼女の関係は小学校六年のときからになる。ある日裕太は彼女にこの橋の上で声をかけられた。二人はすぐ仲良くなり、裕太は毎日のように彼女と会うようになった。それは決まっていつも夕暮れ時、場所はこの橋で。
彼女に名前を聞くと、「橋姫」と答えた。名字か名前か聞いてもただ橋姫と答えるだけだったので、よくわからなかったが裕太は「姫」と呼ぶことにした。姫とは毎日会って話をするだけ。彼女はそれで十分と言い、裕太も特に気にはしなかった。そして姫は自分と会っていることを秘密にしてほしいとも告げ、裕太も約束を守って口外することはなかった。
それからもう十年近くが経つ。裕太は中・高と地元の学校に進学し、大学は実家から通えるところに入った。回数はいくらか減ったが、彼女と会うことは日課のようになっているので変わらなかった。しかしこの春から裕太は就職し、長年暮らしたこの街を離れることになっている。ここしばらくは引っ越しの準備などで姫と会うこともできなかったが、今日は離れる前に最後のあいさつがしたいと思って訪れたのだった。
「裕太、ここを離れても一年に一回くらいは会いに来てくれる?」
そう聞かれて裕太は一瞬考えるような素振りをし、少しだけ彼女の方に視線を向けた。
「ん……? そうだな、暇があれば会いに来るよ」
「暇があれば?」
その口ぶりにやや引っかかったところがあったようで、姫はむくれたような表情になった。裕太の方を向くと上目で見上げる。
「ずっと?」
彼女は再度問い、わずかに首をかしげた。
「まあ、爺さんになってもまだそれだけの気合いがあったらな」
一瞬目が合ったが、裕太はそれを自然に外して別の方を見る。答えを返すのと同時に、ふと疑念が浮かんだ。本当に自分はそれほど真面目に会いに来るだろうか。環境が変わって距離が広がったとき、確かに帰省したときに会いに来ればよいが、それがそのうち出来なくなるのではないか、と。
そしてそれが続けば、自分は自然と慣れてしまうだろう。裕太自身、自分の不義理さがそういうところで出てくるような気がしてならない。
「あ、」
一瞬、そんな考えで頭はいっぱいになっていた。すぐに振り払うと、嫌なことを考えたと後悔が湧いてきた。姫にそれを悟られないよう、思いついたように裕太はわざとらしく声を上げた。
「そのうち彼女連れてくるかも……」
ぼそりと呟くような声でそれを言うと、彼女がまたむっとした様子になったことが雰囲気だけでわかった。そういう反応をする姫が裕太は好きだった。いじめがいがある。さすがに度が過ぎるといけないので程度は考えるが。
「脅かしてやる」
本人としては凄んだつもりだったのだろうが、もともと声がかわいらしいのでそれほど裕太には怖く聞こえない。
「俺以外には見えないんじゃなかったか?」
「私だって伊達に長く生きてるわけじゃないもん」
自慢げに言い切る姫に裕太は平然と、
「年寄りだものな」
そう返すと彼女は気にする様子もなく鼻であしらうにふっ、と笑った。
「すぐに裕太もそうなるよー」
そこまで言葉を交わして、二人は顔を見合わせると表情を緩ませた。つんとやや角立っていた空気が和らぐ。
裕太が高校に上がる頃、姫は自分がこの橋を守る神であることを告げた。もう六〇〇年近くこの地を見て、この橋を守っていること、橋が完全に壊されたとき自分も消えてしまうこと、過去にも何人かいたが、今の時点では裕太にしか彼女の姿が見えていないこと、すべてを話した。と、いっても裕太もすでにうすうす彼女が普通の人間でないことは気がついていたので特に驚くことはなかったのだが。それからも二人の関係が変わることはなかった。
もう夕日は完全に沈みきろうとしていた。それが別れの合図である。はじめの頃、楽しいのをいいことに何時間も話し込み親に心配を掛けたことから、二人でそうルールを決めたのだった。以来それが破られたことはない。いつも同じ時間に二人は会って、同じ時間に別れる。今日も特別な日ではない。いつもと同じように、また裕太は会いに来るのだから。
「……時間だよ」
立ち上がるのに躊躇していた裕太の様子を察して、姫が先に声をかける。裕太の中に急に寂しさが湧いてきていた。ここまで帰るのが嫌だと思ったことがあっただろうか。なかなか体が動かない。踏ん切りがつかないことに裕太は幾ばくか情けなさを感じていた。それでも決めたことだから、変えようがなかった。
「じゃあ、行くよ」
しばらく逡巡した後、裕太は思いきって立ち上がった。彼女の方に向き直ると、今日はじめてしっかりと目を合わせる。
「絶対来るから」
「うん」
姫も微笑むと静かにうなずいた。
別れてから家に帰るまでの道すがら、裕太は改めて思っていた。彼女が待っている限りずっと会いに帰ってこよう、どれだけ歳をとっても彼女がいるのなら、と。そこでふと、いつか国語で習ったある和歌の断片が浮かんだ。
「『立ちわかれ いなばの山の 峰におふる』……ああ、下の句なんだっけ……」
今の自分と似た思いの歌だったような、確かそうだった。
了
小倉百人一首 十六
「立ちわかれ いなばの山の 峰におふる 松とし聞かば 今帰り来む」 中納言行平
「あなたと別れて因幡の国へ出発するが、稲羽山に生いしげる松のように、あなたが持つというのを聞けば、すぐにでも帰って来よう」