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【BL】殺し屋派遣会社 マンチニール  作者: もこもこハダカデバネズミ


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11/17

善行受難

 午前十時を少し過ぎた第三業務室で、伊坂恭平はわんわん泣いていた。比喩ではない。成人男性が机へ両肘をつき、両手で顔を覆い、時折しゃくり上げながら本格的に泣いている。


 出勤してからすでに十五分ほどこの状態なので、最初は面白がってる眺めていた周囲の社員も、いまでは各自の仕事へ戻っていた。

 誰かが死んだわけではないし、依頼に失敗したわけでもない。伊坂自身も無傷である。単純に朝から善行をした結果、知らない人間に顔と髭と人格を好き勝手に論評され、それを本人が見つけてしまっただけだった。


「俺は良いことをしたのになんでこんなことになるんだ!」


 顔を上げた伊坂の目元は赤く、鼻まで赤かった。顎の周囲には本人がそれなりに手入れしている髭が生えている。

 寝坊して剃る時間がなかった人間の無精髭ではなく、輪郭に沿って長さを揃えてあるのだが、テレビ画面を通して見た匿名の人間たちは、そのあたりを一切考慮してくれなかったらしい。


 痩せた身体、くたびれたスーツ、顎髭という組み合わせだけで、夜勤明け、借金持ち、離婚直後、三日寝ていない、臓器を一個売っている、など存在しない経歴まで増やされていた。


「人助けは偉いよ。酷いよな。伊坂は良いことをしたのに」


 楯岡は真正面からそう言った。慰めるために多少言葉を選びはしたが、人助けをしたという一点については本当にそう思っている。

 火の出た建物に取り残された子供を見つけ、自分に助けられると判断して助けた。それ自体には何も悪いところがない。

 少なくとも今回、伊坂は同僚へ無理を押しつけてもいないし、他部署の社員を指差して怪異とも呼んでいない。会社へ30分以上遅刻したことを除けば、珍しいほど純粋な善行だった。


「……そうだろ?」


 伊坂の泣き声が止まった。涙で濡れた目のまま楯岡を見る。真正面から褒められることに慣れていない顔だ。普段の行いを考えれば当然だが、それをいま言えば話が戻るので楯岡は黙って頷いた。


「そうだよ。ちゃんと偉いよ。子供も怪我しなかったんだろ。伊坂が助けなかったら危なかったかもしれないし」


「……えへ」


 ものすごく簡単に機嫌が直った。

 伊坂は袖口で目元を拭い、今度は隠しきれない笑みを浮かべながら椅子へ座り直した。口元を引き締めようとしているが、頬が勝手に緩むらしく、えへへ、えへ、と小さな笑い声まで漏れている。

 さっきまで「俺は全国から嫌われた」「善人ほど損をする世の中だ」「もう二度と誰も助けない」と泣いていた人間と同一人物には見えなかった。


「だよなあ。俺、偉いよな。だって普通助けるだろ。目の前で子供が死にそうになってて、自分なら助けられるんだから。俺は根が善良だから、そういう時は自分のできる範囲で助けるんだよ」


「そこまで自分で言うと少し価値が下がるな」


「なんでだよ!」


 また声が大きくなったが、先ほどまでの泣き声とは違う。伊坂は楯岡の机へ身を乗り出し、朝の一件を最初から説明し始めた。

 駅へ向かって歩いていた。煙が見えた。人が集まっていた。上を見たら子供がいた。消防車の音はまだ遠かった。壁を見たら登れそうだった。だから鞄を置いて登った。

 それだけだと言う。本人の説明では、コンビニの前で倒れた自転車を起こした程度の出来事になっている。


「だって登れそうだったんだぞ。三階くらいなら普通に行けるだろ」


「普通には行けないよ」


「足を掛けるところいっぱいあっただろ」


「映像見たけど、俺にはほとんど見えなかった」


「あるよ! よく見ろよ! 窓枠の五センチくらい出てるところとか、壁の継ぎ目とか!」


 五センチ程度の出っ張りを、大人一人と子供一人の重量を支える足場として数えている時点で、話し合いによる共通認識の形成は難しそうだった。

 ニュース映像では伊坂が三階まで到達するのに一分もかかっていない。二階のベランダの縁へ片手を掛け、身体を振った反動だけで上へ移動している場面もあった。

 本人は危険なことをした認識が薄く、途中で一度止まった理由についても「靴底に小石が挟まった気がした」と説明している。


 子供を見つけた時点でも、特に使命感へ突き動かされたわけではなかったらしい。

 上を見て、いるなあ、と思った。消防車はまだ来ない。自分なら登れる。ではまあ、助けておくか。その程度だった。

 結果として、燃え盛る建物の三階へ素手で登り、初対面の子供を背負って降下することになったが、伊坂の中では判断と行動の間に大した断絶がない。楯岡からすると、その断絶がないこと自体が怖かった。


「しかもあいつら俺の髭をなんだと思ってるんだ。『面倒だから剃ってない』とか『社会生活を諦めた顎』とか書きやがって。違うからな。俺はちゃんと意図的に生やしてるんだ」


「知ってるよ」


「俺は顔が若く見えるんだよ! 髭がないと余計に若く見えるから生やしてるんだ! 剃るのが面倒だから放置してるわけじゃない! 毎朝ちゃんと整えてる!」


 伊坂は顎を突き出して髭を見せた。そこだけ取り出して確認すれば、確かに長さは揃っている。顔つきそのものも童顔寄りではあった。頬の肉が薄いので年齢より老けて見える瞬間もあるが、髭を隠せば目元や鼻筋には幼さが残っている。顔のパーツの中で目が大きめだからだろうか。

 本人なりに社会人としての威厳を補っているつもりらしい。ただし、火災現場で煤をつけ、泣きながら「給料が減る」と訴えていた映像では、その努力は無に帰していた。


「それに、俺は別に拍手されたくて助けたんじゃない。降りたら急に知らない奴らが囲んできたんだぞ。怖いだろ普通に」


「向こうも伊坂に同じこと思ってたんじゃないかな」


「俺は一人だぞ。向こうは二十人くらいいた」


「三階の壁から素手で降りてきた一人は、百人分くらいの衝撃があるよ」


 伊坂は納得しないまま自席のパソコンへ戻り、掲示板の更新ボタンを押そうとしたところで楯岡が止めた。

 自分について書かれた悪口を探し、傷つき、怒り、反論を書き込みたくなり、身元が割れるからやめろと止められる。この流れを出勤してからすでに二回やっている。三回目を許せば昼まで仕事をしない可能性が高かった。


 もっとも、伊坂が自分で何かする必要はなかった。会社は本人よりずっと早く動いている。


 映像が最初にテレビへ流れた時点で、担当部署には連絡が入っていた。

 社員が業務外で一般人を救助したこと自体は問題にならない。問題なのは、顔が全国へ流れ、常識的な範囲を明らかに外れた身体能力まで映像として残ったことである。第三業務室の社員は、表向きには存在しても困らない人間たちだったが、詳細に調べられて困らない人間ではない。

 伊坂の場合は特に、過去の行動を点で拾われ、それを一本の線へ結ばれると会社にも本人にもよろしくなかった。


 その日の昼過ぎには、テレビ局の公式サイトから該当部分の映像が消えた。

 夕方までにはニュース記事から写真がなくなり、翌朝には記事そのものが見つからなくなった。


 放送局へ問い合わせた者には、権利上の都合、映り込みへの配慮、個人情報保護など、相手によって少しずつ違う説明が返された。どれも意味としては間違っていなかったため、それ以上追及する者は多くなかった。


 問題は、すでに個人が保存していた映像だった。


 最初の二日間はまだ普通に再投稿されていた。短い動画がSNSへ流れ、別の人間が保存し、画質を落としたものが別のサイトへ上がる。それも順番に消えた。

 三日目になると奇妙なことが起き始めた。昨日まで見られた投稿が消えるのではない。新しく投稿したものまで、早ければ数十秒、長くても十分ほどで見えなくなるようになった。


『例の壁登る顎髭、保存してたから上げる』


 午前一時十二分にそう書いたアカウントは、一時十三分に動画を投稿した。三十二秒後、リンクは無効になった。本人は削除していないと言い、もう一度上げた。今度は二十秒でリンクが無効になった。ファイル名を変えても駄目だった。画面を左右反転し、音声を消し、端を切り落としても消えた。


『なんなんこれ』 『自動検出じゃね』 『顔にモザイクかけろ』 『やったけど無理ぽ』 『火事の部分だけなら?』 『消えた』 『じゃあ髭だけ切り抜け』 『何が目的なんだよ何に守られてんのこのヒゲ』


 それでも面白がる人間はいる。動画を細かく分割した者がいた。一秒ごとに静止画へ変換した者もいた。圧縮し、暗号化し、関係のない画像へ埋め込み、外部ストレージへ置いた者もいた。

 方法が変わるたび、消えるまで少し時間が延びることはあったが、最後には同じだった。誰かが見つけて通報しているのだと考えるには速すぎ、機械的に検出しているのだと考えるには対象の範囲が曖昧すぎた。


 四日目の深夜、匿名掲示板のオカルト板へ一本のスレッドが立った。



【消える動画】三階スルスル遅刻ヒゲについて知ってる奴いる?



 名付けた者のセンスが壊滅的だったため、最初はまともに相手をする者が少なかった。火災現場、三階、痩せたスーツ姿、顎髭、子供、壁を登る、降りたあと泣く。断片的な情報だけが書かれ、動画はない。検索しても元のニュースが出ない。貼られたリンクはすべて死んでいる。当然、作り話だと言われた。


『三階スルスル遅刻ヒゲって名前どうにかならんかったのか』 『命名した奴が一番怖い』 『俺見たよ。朝のニュースだった』 『何局?』 『覚えてない』 『曜日は?』 『先週』 『ニュースログにねえぞはい嘘松』


 そこへ、当時の放送を見たという者が少しずつ現れた。

 内容は一致していた。煤で汚れたスーツ。痩せた男。顎の髭。三階から子供を背負って降りてくる。着地したあと、周囲から拍手されると怯えたように引く。最後に時計を見て、会社へ遅れると騒ぎ始める。


 記憶だけは何人分もあるのに、映像が一つも残っていない。


『録画あるけど』 『上げて』 『ちょい待ち』


 十五分後、その書き込みをした者が戻ってきた。


『やめるわ』 『は?』 『電話きた』 『どこから』 『知らん会社』 『何て?』 『動画の公開は控えてくださいって』 『釣り乙』 『俺ここに録画あるって書いただけなんだけど』


 IPがどうした、過去レスから特定しただけだ、最初から仕込みだ、と好き勝手な説明が並んだ。本人はそれ以上書かなかった。翌日になっても戻らず、一週間後に別の話題へ書き込んだ時には、火事の件について聞かれても答えなかった。



 別の者はもう少し具体的だった。動画共有サイトへ限定公開で上げ、URLを誰にも教えないまま十五分置いた。削除された。

 次はインターネットへ接続していない端末へ移した。これは当然消えなかった。そこで画面をスマートフォンで撮影し、SNSへ投稿した。四十秒後に投稿が消え、二分後、勤務先の代表番号へ電話が入った。


『電話取ったの俺じゃないけど名指しだった』 『何て言われた』 『個人の肖像が含まれる映像の取り扱いについてお願いがあります、だって』 『普通じゃん』 『俺SNSに会社書いてない』 『昔書いたんだろ』 『書いてない』 『じゃあお前の同僚』 『もういい。消す』


 そこから先は早かった。最初は笑い話だった名前が、検索避けのように使われ始めた。三階スルスル遅刻ヒゲ。三階スル髭。スル髭。単にヒゲと呼ぶ者もいた。動画そのものを求めるより、見たことがあると証言する者の話を集める遊びへ変わっていった。


 何月何日の朝だった。画面の右上に時刻が出ていた。男のネクタイは暗い色だった。右手の甲に煤がついていた。子供を背負ったまま二階の高さで一度止まった。降りてから息を切らしていなかった。拍手された時、本気で嫌そうな顔をした。給料が減ると泣いた。自分は不幸だと叫んだ。


 証言は細部で食い違う。それがかえって本物らしく見えた。全員が同じ文章を繰り返す作り話より、人によって覚えている場所が違う方が記憶らしい。


 やがて、火事そのものまで存在しなかったという説が出た。映像を見た人間だけが共有する偽の記憶だという者もいた。昔から同じ男を見たという話も混ざった。

 十年前、事故車を一人で持ち上げていた。川へ落ちた犬を助けたあと、クリーニング代がかかると泣いていた。駅のホームから落ちた人間を片手で引っ張り上げ、そのまま電車へ乗り遅れて絶望していた。ほとんどは明らかな便乗だったが、嘘と本当を選別する材料が消えているため、全部が同じ強度で残っていった。



 最後には、「困っている人間の前にだけ現れ、助けたあと必ず自分の不幸を嘆きながら会社へ走っていく痩せた顎髭の男」という、本人が聞けば激怒しそうな都市伝説になった。



 第三業務室でその話を最初に見つけたのは楯岡だった。


 楯岡は事務作業中のBGMとして、人工音声が淡々と怪談や都市伝説を読み上げる、いわゆるゆっくり怪談を流していることが多い。その日も書類を処理しながら半分ほど聞き流していたのだが、「火災現場」「三階」「痩せた顎髭の男」「子供を背負って壁を降りる」と妙に聞き覚えのある単語が続き、知ってる話だな……と思ったところで手が止まった。


 知っているどころではない。友人の話だった。


 職業柄、同僚が怪談や都市伝説の類になること自体は、そこまで珍しいことではない。帰り道で見た奇妙な挙動の男だとか、夜道で出会った血まみれで微笑む女だとか、呻く頭陀袋を担いで鼻歌をうたいながら歩く巨漢の男だとか、本人たちが知らないところで目撃情報に尾ひれがつき、そのまま怪異として定着している例はいくつかある。そちらの方が都合が良いので、業務上特に問題はない。


 ただ、伊坂が話の中心になっているのは、これが初めてな気がした。




「伊坂、都市伝説になってるよ」


「なんで!?」



 昼休み、コンビニで買ったおにぎりの包装を剥がしていた伊坂が顔を上げた。楯岡のスマートフォンには、三階スルスル遅刻ヒゲについて語るまとめが表示されている。

 肝心の画像は一枚もない。黒い背景に白い文字だけで、「見た人間はいるのに映像が残らない」「投稿すると連絡が来る」「困っている子供の前へ現れる」と、それなりに怪談らしい体裁へ整えられていた。助けてくれるあたり、子供向けの怖い話としてブラッシュアップされていそうだ。


「名前が最悪だ!!」


「そこなんだ」


「三階スルスル遅刻ヒゲってなんだよ! せめてもっと格好いい名前にしてほしい! 火災救助の男とかあるだろ、なんで俺の身体能力と勤怠と髭を全部一個に詰めるんだ!」


「分かりやすいからじゃないかな」


「俺は妖怪じゃない!」


 その点だけは楯岡も同意した。伊坂は妖怪ではない。会社へ登録された住所があり、給与口座があり、社会保険料を払い、月末には経費精算を忘れて総務から催促される普通の社員である。

 素手で人間の胸郭を壊せるし、走行中の車と並走して窓から乗り込めるし、火事のマンションを子供一人背負って片手で降りられるが、戸籍上は間違いなく人間だった。

 両親も健在だし、伊坂が恐れる姉ふたりも元気いっぱいに旦那を尻に敷いている。殺し屋としては健全すぎる家庭環境で生きていた。


「でも良かったじゃないか。もう顔写真も動画も出てこないし」


「最初から出てこなければもっと良かっただろ!」


「それはそうだね」


「しかも俺が助けたのに、なんで最後は怪異扱いなんだよ。善良な人間が善良な行動を取った結果だぞ。普通は美談になるところだろ。俺だって表彰とかされてもいいくらいなのに、なんでネットで『見たら一週間以内に遅刻する』とか書かれなきゃいけないんだ!」


 知らないうちに妙な尾ひれまで増えていたらしい。楯岡は笑いそうになったが、どうせまた泣くので我慢した。代わりに、「人助けは偉かったよ」ともう一度言う。


 伊坂はぴたりと黙った。それから少し俯き、おにぎりの包装を指先で弄りながら、えへ、と笑った。


「……まあな。俺、根は善良だからな」


 非常に扱いやすかった。


 三階スルスル遅刻ヒゲの話は、その後もしばらくネットの片隅に残った。映像を持っていると言う者は現れるが、一度も貼られない。貼られても誰かが開く前に消える。火災の日付も場所も次第に曖昧になり、最初に見たという人間の記憶だけが頼りになった。


 困っている子供のところへ壁を登って現れる。助けたあと、感謝すると嫌そうな顔をする。時計を見ると泣き出す。顎髭について触れると怒る。会社へ遅れる前には必ず消える。


 最後の部分だけは少し違う。


 伊坂は消えてはいない。今日も普通に出勤しているし、午後からの仕事もある。都市伝説になった本人は自席でおにぎりを食べ終えると、勤務表を見て午後の依頼先を確認し、急に嫌そうな顔をした。


「楯岡。今日のこれ、一緒に行ってくれないか」


「一人で行きなよ」


「知らない人と二人きりになる仕事なんだぞ!」


「いつものことだろ」


「俺は子供を助けたんだぞ。善行を積んだ人間にはもっと優しくしてもいいだろ!」


 数ヶ月前の善行の有効期限は、本人の中ではまだ切れていないらしい。


 楯岡は少し考えたあと、仕方なく自分の予定表を開いた。都市伝説になるほど珍しい善人を、多少は甘やかしてやってもいいだろう。いつも甘やかしている気がするけど、今回の件に関しては、珍しく伊坂は特に悪くはないのだから。



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