どうやら号外が出るそうですよ。あなたの醜聞で
19世紀を意識して書きました。
「婚約を破棄して欲しい」
石畳の道を馬車が絶え間なく行き交い、レンガ造りの建物が立ち並ぶ街並みを白い霧がゆっくりと流れていく。煙突から立ち上る石炭の煙は灰色の空へ溶け込み、ガス灯は昼なお淡い光を残していた。遠くでは時計塔が静かに時を告げ、河を渡る汽笛がかすかに街へ響く。
そんな霧の都グレイフォードで、その言葉は静かな応接室に落とされた。
向かいに座るエミリアは、紅茶のカップを静かにソーサーへ戻した。
「……理由を、お聞きしてもよろしいですか?」
婚約者であるエドワード・アシュクロフトは、困ったように微笑む。
「理由はいろいろあるさ。互いのためにも、この話は受け入れてくれ」
その笑みは、社交界で誰もが知るものである。
彼は紳士だった。少なくとも、人前では。
社交界では礼儀正しく、誰にでも穏やかで、慈善活動にも熱心な理想の青年として知られている。婦人には花を贈り、子どもには優しく微笑み、新聞では「名士」と称えられることすらあった。
彼の悪評を耳にした者など、ほとんどいない。
だが、それは人前でだけの話だった。
誰も見ていないところでのエドワードは、まるで別人だった。
彼は、女癖が悪かったのである。
一度や二度ではない。
劇場の女優、上流階級の未亡人、若い令嬢、果ては既婚者にまで手を伸ばし、そのたびに甘い言葉を囁いては関係を築き、飽きれば何事もなかったかのように去っていく。
そして相手が騒ぎ立てそうになれば、金を渡し、口止めをし、それでも収まらなければ「勘違いをした女性」として周囲へ噂を流す。
そうして今日まで一度も表沙汰になることなく生きてきた仮面の下には、女性を都合よく利用する卑劣な男が隠れていたのである。
そんな男であると知っていながら、なぜエミリアは婚約を解消しなかったのか。
答えは単純だった。
不運にも、その事実を知るのがあまりにも遅すぎたのである。
エドワードは外面を取り繕うことに関しては天才的だった。エミリアと会う日には必ず他の女性との約束を入れず、婚約者としての務めも完璧に果たしていたため、彼女が疑いを抱く余地はほとんどなかった。そうして婚約は順調に進み、両家の結び付きも深まってしまった頃になって、ようやく彼の裏の顔が明らかになったのである。
◇
それは、ある日のことだった。
親友であるクララ・ウェストンと出会った冒頭に言われた事だった。
「エミリア、ちょっとこれ……エドワードじゃない?」
そう言って差し出されたのは、一枚の写真だった。
エミリアは何気なく受け取ったが、写っている人物を見た瞬間、その表情が凍りつく。
そこには、婚約者であるエドワードが見知らぬ若い女性と腕を組み、まるで恋人同士のように微笑み合う姿が鮮明に写っていたのである。
「やっぱり似ているだけじゃないわよね?知り合いから譲ってもらったの。街角の様子を撮影していたら、偶然写っていたらしいのだけれど……」
近年、この国では文明が目覚ましい発展を遂げていた。蒸気機関車は国内各地を結び、新聞は毎日のように新しい出来事を街へ届け、写真という新たな技術まで急速に普及し始めていたのである。
便利になった時代は人々の暮らしを豊かにした一方で、これまで人目を避ければ隠し通せた秘密までも残してしまうようになった。ましてエドワードのように街中で堂々と女性と逢瀬を重ねていれば、偶然写真に収められることも、新聞記者の目に留まることも、決して珍しいことではなかった。これまで運良く隠し通せていただけで、彼の不貞は少しずつ暴かれる時代になっていたのである。
白い蒸気を勢いよく吐き出した機関車が駅へ滑り込み、ホームは煤の匂いと人々の話し声で満ちていた。帽子を被った紳士が新聞を脇に抱えて足早に改札を抜け、黒いドレス姿の婦人が使用人を従えて馬車へ向かう。荷物運びの少年たちは声を張り上げ、駅舎の大時計は正午を知らせていた。
人々が絶え間なく行き交うその喧騒の中、エミリアだけは手元の写真から目を離さなかった。
写真の中のエドワードは、婚約者である自分には一度も見せたことのない親しげな笑みを浮かべている。
しばらく無言の時間が流れた後、エミリアは静かに口を開いた。
「ねぇ、その写真……私に頂けないかしら?」
「えっ……ええ。もちろん良いけど。もともと貴方にあげるつもりで持ってきたものだもの」
クララは少し戸惑いながらも、写真をエミリアへ手渡した。
その日からエミリアは、誰にも気づかれることなく、長い年月をかけたある計画を立て始めたのだった。
◇
――そして、現在。
応接室には、先ほどまでと変わらぬ空気が流れていた。
婚約破棄を切り出したエドワードは、エミリアから返事を待っている。
やがてエミリアは静かに目を伏せ、小さく息をついた。
「……そうでしたか。婚約破棄、ですか」
どこか納得したように呟くと、ゆっくりとエドワードを見つめ返す。
「分かっていましたよ、私は。全て」
その一言に、エドワードの心臓が大きく跳ねた。
一瞬にして、これまで関係を持ってきた女性たちの顔が脳裏をよぎる。
「……な、何のことだい?」
「いえいえ。お気になさらないでください。これからのご活躍を、期待していますよ」
その笑みの意味を、エドワードはまだ知らなかった。
◇
それから数日後の事だった。
霧の都には、まだ朝の冷気が残っていた。石炭の煙が白い霧へ溶け込み、河沿いには汽船の汽笛が低く響く。石畳には昨夜の雨がわずかに残り、二階建ての乗合馬車が水たまりを跳ね上げながら街を走り抜けていく。
パン屋からは焼き立ての香りが漂い、煙突掃除夫の少年が屋根の上を歩き、紳士たちは黒い帽子を被って新聞を片手に駅へ急ぐ。そんないつもと変わらぬ朝だった。
その中へ、新聞売りの少年たちの声が響き渡った。
「号外!号外だ!」
普段とは違う威勢のよい声に、道行く人々が次々と足を止めた。新聞は瞬く間に売れていき、やがて街角の至るところで、同じ紙面を覗き込む人々の姿が見られるようになった。
その一面を大きく飾っていたのは、エドワード・アシュクロフトである。
見出しには、太い文字でこう記されていた。
『あのエドワードに不貞疑惑――婚約者を欺き、複数の女性と関係か』
記事の隣には、一枚の写真が掲載されていた。
そこに写っているのは、見知らぬ若い女性と腕を組み、親しげに微笑み合うエドワードの姿だった。顔立ちも服装も鮮明で、似ている別人だと言い逃れることは難しい。
しかも、新聞社が掴んでいた証拠はそれだけではなかった。
記事には、エドワードと関係を持ったという複数の女性の証言が載せられていた。劇場に勤める女優、夫を亡くした未亡人、地方から社交界へ出てきた若い令嬢。その中には、将来を約束されたと信じていた者や、関係を終わらせる代わりに口止め料を渡された者までいた。
どの証言にも日付や場所が添えられ、エドワードが婚約中でありながら、長きにわたって不貞を繰り返していたことが詳しく記されている。
そう、記事に掲載された写真を新聞社へ譲渡したのは、エミリアだった。
あの日、クララから写真を受け取った後、彼女はすぐに行動したわけではない。写真一枚だけでは、エドワードに言い逃れを許してしまう。だからこそ時間をかけて新聞社へ情報を渡し、過去に彼と関係を持った女性たちの証言を集めてもらったのである。
エミリアが望んでいたのは、ただ彼に恥をかかせることだけではなかった。
今後エドワードが誰かへ近づいた時、その女性が彼の過去を知り、自分を守れるようにするためにという願いも込められている。
なお、今回の記事によって新聞社から支払われることになった金銭は、すべてクララへ渡すよう手配していた。
もともと写真はクララから譲り受けたものである。たとえ記事にする決断を下したのがエミリアだったとしても、その写真によって得られる利益まで自分が受け取るのは違うように思えたのだ。
クララは何度も遠慮したが、エミリアは首を横に振った。
「これは元々、あなたが見つけてくれたもので私が勝手に送ってしまった事です。どうか受け取ってください」
その一言で、クララもようやく折れた。
こうして記事は都中へ広まり、理想の紳士と称えられていたエドワード・アシュクロフトの名声は、一夜にして崩れ去った。
行く先々では人々に指を差され、社交クラブの扉は彼のために開かれず、高級ホテルでは囁き声が背中を追い、劇場街を歩けば婦人たちは扇で口元を隠して目を逸らした。
ガス灯が灯る夕暮れの石畳を歩いても、以前のように帽子を取って挨拶する者は、もう誰一人としていなかった。
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