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早瀬くんを殺したい99の理由  作者: ウソカラマコト


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9/10

自己紹介における機密保持義務違反と、発声モジュールへの不法な電波干渉について(4)

「それで早瀬くん——いえ、対象に追加の質問です」


 わたしはメモ帳を構えました。調査員は記録を怠りません。


「苗字が変わった理由を教えてください。『佐藤』から『早瀬』。未成年のあなたの場合、考えられる要因は……」

「親が離婚してさ」


 あっさりと。

 まるで昨日の天気を報告するような軽さで、早瀬くんは言いました。


「母さんの姓になったんだ。だからこっちに戻ってきた。母さんの実家がこの辺なんだよ」


 わたしのペンが、メモ帳の上で止まりました。


 離婚。

 転校。

 苗字の変更。


 あの泣き虫のれんくん——卒園式で鼻水を垂らして泣いていた、小さな男の子が。

 親の都合で名前を変えられ、住む場所を変えられ、友達と引き離されて。


 …………。


 ペンが、動きません。


 何を書けばいいのか、わかりませんでした。

 メモ帳には「離婚」という二文字だけが、途中で力の抜けた筆跡で残っています。


 わたしは——自分から聞いたのです。

 「苗字が変わった理由を教えてください」と。

 まるで試験問題を解くみたいに、あっさりと。


 それがこんなに重い答えを返してくるなんて、想定していませんでした。


 彼は笑っています。

 いつもの、軽くて柔らかい笑い方で。

 まるで何でもないことのように。


 ……何でもないわけ、ないでしょう。


 言葉が、出てきません。

 「大変だったんですね」と言いたいのですが、相手の苦しみをちゃんと受け止めもしないうちから使っていい言葉ではないような気もします。

 「わたしには関係ありません」と言えば——それは、人としてどうかしています。


 自分から踏み込んでおいて。

 他人の家庭の事情を引き摺り出しておいて。

 それで「関係ない」は、さすがのわたしでも——言えません。


 口を開きかけて、閉じます。

 もう一度開きかけて、また閉じます。


 わたしのスピーチ原稿を格納するフォルダには、こういう時に使える言葉のテンプレートが入っていないのです。

 「敵に対する論理的反論」と「公式な場でのスピーチ」しか用意していなかった設計ミスを、今、猛烈に後悔しています。


 沈黙が、一拍。


 早瀬くんはふっと表情を和らげました。

 さっきまでの、少しだけ温度の低いトーンから、軽くて柔らかい日常のトーンに戻って。


「まあ、暗い話はいいだろ。……それよりさ」


 目を悪戯っぽく細めます。


「恋春ちゃんの自己紹介、噛んでたの可愛かったよ。『ろ、論理的思考』って。あの『ろ』、何回か練習した? それとも本番一発?」

「な……っ!」


 同情などっ! 1ビットもする価値のない男です!!


 わたしは全力の抗議の言葉を組み立てようとしましたが、ちょうどそのタイミングで担任が声を張り上げました。


「はーい、それじゃあくじ引いてくぞー。自分の席に戻れー」


 渋々、席に戻ります。

 戻りながら、頭の中を冷徹なデータ処理が走っていました。


「離婚しててさ、母さんの苗字になったんだ」——彼は、わたしに対して私的な過去を解放しました。個人的な出来事を、包み隠さず情報開示してきた。


 自席に座ります。

 メモ帳を閉じます。


「佐藤蓮と橘恋春の関係」と「彼の家庭の事情」。

 それは、この教室の中で、あの男とわたしだけが共有しているデータになりました。


 わたしたちだけの、不本意なデータ共有。


 ……困った展開になりました。


 ***


「引いたくじの番号の席に移動しろー」


 担任の声で、教室が動き出します。

 わたしは内心で確率を計算しました。


 39人クラス(1人は欠席)です。教室の座席は、縦5列×横8行(最後尾は欠けあり)の配置。わたしの隣に特定の1人が配置される確率は……。


 ざっと見積もっても、かなり低い数字です。

 数学はわたしの味方です。確率論はいつでも嘘をつきません!


 くじを引きます。


 わたしが引いたくじ——「窓際、一番後ろ」。


 悪くありません。

 窓からの採光は読書に適していますし、背後に誰もいない最後尾の席は、不要な視線を感じずに授業への集中力を高められます。完璧なポジションです。


 そして。


 彼が引いたくじ——「廊下側、一番前」。


 教室の対角線上。

 物理的に、最も遠い位置。


 ……!


 わたしの胸に、確かな安堵が広がりました。


 よ、よかった……! これで、彼の視線も、声も、あの石鹸の匂いも、わたしの空間には絶対届きません! 安全距離、確保。今度こそ完璧な日常が——。


 あるいは。

 もう少し正確に言うなら。


 安堵が、広がったはずでした。


 なのに。


 無意識のうちに、ペン回しをする手が止まっていました。


 教室の対角線の向こう側。

 早瀬くんが新しい席で、周りの男子と談笑しています。


 遠い。

 本当に遠い。

 ここからでは彼の話し声も聞こえません。


 ……別に! 聞こえなくていいのです! 聞こえたくもありません! あの男が近くにいないなんて、最高に最適化された学習環境じゃないですか!


 最高の環境です!


 …………。


(……なんですか、この。胸の奥の。静かになりすぎたサーバー室のような、異様な空虚感は)


(まさか。……あのジャミングが消えたからって、寂しい、とか……?)


 ——ありえません!!! 断じてありえません!!!

 これは、観察対象へのアクセス権が物理的に制限されたことによる、情報収集効率の低下への懸念です!

 あるいは、あの男のノイズがなくなったことによる極端な平穏が、逆にわたしの警戒システムを過剰反応させているだけです!


 恋春は、この論理的な分析結果に大いに満足しました。


 早瀬蓮の存在など、わたしの日常には1バイトも必要ない。

 その事実を、これから証明して見せるのです。証拠として、あの対角線の男を、じっと睨みつけ続けながら。

 

 ***

 

 それから、どれくらい経ったでしょうか。


 席移動が一段落した頃のことです。

 わたしは窓際の新しい席で、教科書の背表紙を五十音順に並べ直す作業に集中していました。


 頭のてっぺんから足の爪先まで知性と論理で構築されたわたしにとって、正しい順序は精神を安定させます。

 このどうしようもなく乱高下した心拍数も、きっとこれで平常に復帰するはずです。


 ちなみに、教室の対角線の向こう側のことは、微塵も気にしていません。

 一度たりとも振り返っていません。

 さっきの「チラリ」は、ただの全方位的空間把握のための視線移動です。特定の誰かを探していたなんてことは、断じて、絶対にありません!


 そのとき。

 すぐ隣の席から、おずおずと手が挙がりました。


「あの、先生……。すみません、僕、目が悪くて、後ろの席だと黒板の字が全然見えないんです……」


 メガネをかけた男子生徒——たしか黒田くんです。


 担任が「あー、マジか。じゃあ前の方の席と交換してもらえると助かるんだが……誰か黒田と席を交換してくれる奴、いるか?」と教室を見回しました。


 沈黙。


 前方の席は、一般的に高校生には不人気です。

 先生との距離が近く、居眠りも内職もしにくい。誰も手を挙げません。


 女子の列なら、代わってあげたくもあったのですけれど。


 誰か、他の男子で手を挙げる人はいないのでしょうか。

 早く誰か名乗り出なさい。さあ。

 ……なんてことを思った次の瞬間。


「あー、俺でよければ」


 聞き慣れた声が、教室の対角線の向こう側から上がりました。

 こ、この声は……。

 ゆっくりと手を挙げながら立ち上がったのは——早瀬蓮。


「俺、どこでも大丈夫なんで。黒田くん、ここ使いなよ」


 爽やかな笑顔、善意の権化です。

 クラスメイトからは「早瀬くんやさしー!」「さすが!」と黄色い声が上がります。

 確かにこの件に関しては、彼の善性を認めましょう。

 いいのは顔だけではないようですね。


 担任が教室を見回しています。


「お、早瀬、いいのか? サンキュ。じゃあ空いてる前の席は……」


 黒田くんが座るはずだった席——いえ、黒田くんと交換で早瀬くんが座ることになる前方の空席を、担任が探します。


 わたしの心臓が、嫌な予感を先取りして、ありえない速度でエラーを吐き出し始めました。


 待って。


 待って。


 待ってください、待ってください、待ってください。

 その席は。


 担任が、のんびりと宣言しました。


「じゃあ、黒田の席——窓際の列、一番後ろの隣だな。橘の隣が空くワケだが」


 窓際。一番後ろの隣。

 わたしは、窓際。一番後ろ。


 つまり。


 …………え?


 早瀬くんの新しい席は。


 わたしの、真隣!?


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