自己紹介における機密保持義務違反と、発声モジュールへの不法な電波干渉について(3)
「じゃあ席替えするぞー。くじ作るからちょっと待ってろ」
松崎先生は、前の席の二人にくじ作りの手伝いを命じました。
教室の空気が弛みます。
生徒たちが席を立ち、あちこちで会話が始まりました。
出身中学が同じ生徒同士が集まったり、自己紹介で気になった相手に話しかけに行ったり。初日特有の、ぎこちなくも華やいだ空気です。
早瀬くんの周りにはすぐに人が集まりそうでした。
入学式の「事件」の主役であり、腹立たしいほど顔のいい男ですから。質問攻めにされるのは目に見えています。
今しかありません。
……でも。
わたしが立ち上がって、あの男の席まで歩いていく。
それはつまり、教室中のクラスメイトに「橘恋春は早瀬蓮に接触を図る」と宣言するのと同じことです。
昨日の入学式の騒動の後で、それがどう解釈されるかくらい、わたしにだって分かります。
……分かって、いますけど!
情報の欠落を放置することは、管理者としての重大な自己矛盾です。
完璧な橘恋春は、曖昧なデータに基づいて結論を出すような、そんな怠惰な人間ではないのです!
わたしは、誰よりも早く席を立ちました。
迷いはありません。
頭のてっぺんから足の爪先まで知性と論理で構築されたわたしにとって、不完全なデータは判断ミスの元です。
つまり——これは危機管理に基づく真っ当な情報収集活動であり、あの男に「好きだから話しかけに行っている」という不純な解釈は、1バイトたりとも含まれていません。
一切、関係がないのです。本当に!
歩きます。
席が数列離れているせいで、教室を横切らなければなりません。
その間にクラスメイトの何人かが「あ、橘さんが早瀬くんのとこ行った」「やっぱ付き合ってんじゃん」と囁くのが聞こえましたが、シャットアウトです。ノイズキャンセリング機能、最大稼働。
早瀬くんの席の前に立ちます。
彼は椅子に座ったまま、わたしを見上げました。
「早瀬くん」
わたしの声は、完璧に制御されていました。
冷静。
毅然。
純粋な調査員の発声になっているはずです。
昨日のような大失態は、二度と演じません。
あの壇上のわたしは、どうかしていました。不可避の事故とはいえ、取り乱しすぎました。
ですが、もはや同じ轍は踏みません。
なぜなら、わたしはパーフェクトだからです。
今日のわたしは、彼ごときでわずかでもペースを乱されるような脆弱なシステムではありません。
「あなたに、いくつか質問があります」
気品に満ちた、清楚でおしとやかな声で……。
「ん? どうしたの、恋春ちゃん」
「下の名前で馴れ馴れしく呼ばないでっ!」
一瞬で取り乱した声になっていました。
「んで?」
「またクラスのみんなに変な誤解されるじゃないですかっ!」
「誤解?」
「わたしとあなたが付き合ってるとかいう非科学的な話です!」
「全部事実だと思うけど」
「事実無根ですっっっ!!」
深呼吸! 深呼吸です、橘恋春!
ダメです、また声が大きくなっています!
この男のペースに巻き込まれないって、たったいま誓ったばかりでしょう!?
知性! 論理!
わたしを構成する最も美しいソースコードを、今すぐ実行しなさいっ!
すう、はあ。
よし。
「……あなたの自己紹介には、重要な情報の欠落がありました」
早瀬くんが、わずかに目を見開きました。
「あなたは以前、この街に住んでいたのではありませんか?」
一瞬の沈黙。
早瀬くんは、きょとんとした顔をしました。
まるで、予想していなかった角度から質問が飛んできたかのような。
——いえ、それは嘘です。
この男が本当に驚くことなどあるのでしょうか。
あの壇上でマイクの電源管理を怠った時だって、「あ」という顔をした次の瞬間にはもういけしゃあしゃあと笑っていたくせに。
案の定、きょとんとした表情は一瞬で消え、ふっと笑いに変わりました。
しかし——さっきまでの、教壇の上で見せていた営業スマイルとは、少し違う笑い方でした。
声のトーンが、半音下がったような。
クラスメイトの視線を気にしつつ、わたしだけに届く距離まで声を落として。
「まあね。……でもさ、それ言ったら、みんなの前で『幼稚園からの幼馴染です』って自白に繋がるだろ?」
彼は少しだけ身を乗り出して、わたしの目を覗き込みました。
「そしたら恋春ちゃん、また赤くなって殺害予告するんじゃないかと思って。……配慮したんだよ」
配慮。
配慮、と言いましたか。
今、この男は。
「配慮!? いいえ、それは情報の隠蔽によるわたしの優位性の剥奪です!!」
わたしは教卓を——ではありませんが、彼の机をバンッと叩きました。
「誰があなたに情報の開示権限を渡しましたか! 情報を隠すことで『二人だけの共通の秘密』といういかがわしい構図を意図的に作り出し、わたしを心理的にコントロールしようとする、極めて悪質な支配構造の構築です!」
「いや、そこまで考えてないって」
彼の苦笑いなど無視です。
彼の中に潜む傲慢な管理者権限を、一本一本へし折らなければ気が済みません。
「あなたの配慮はいつも過剰で! 恩着せがましくて! 結局わたしを振り回しているだけなのです!」
言い切って、ハッとしました。
危ない。また声の手綱を手放してしまうところでした。
彼の言葉で、もっとも重要な仮説は裏付けられました。
やはり。佐藤蓮で確定です……!




