時効不成立のプロポーズと、マイク越しの殺害予告について(2)
式は粛々と進行しました。
校長の式辞。祝辞。在校生代表の歓迎の言葉。
わたしは自分の席で、それらの言葉を一つも聞いていませんでした。
原稿の文面を脳内で再生しようとすると、なぜか逆光の中の彼の顔が割り込んでくるのです。
「大丈夫?」という声が。
「相変わらず」という囁きが。
腕の中の温もりが。
初対面のはずです。間違いありません。
それなのに、あの目を細めた笑い方や、声の響きに、奇妙な既視感がつきまとうのです。
どこかで会ったことがある気がするのです。
知っている気がするのです。
(——そんなこと、今はどうでもいいでしょう!)
心の底から湧き上がる思考を、力ずくでねじ伏せます。
今はわたしの晴れ舞台です。あんな正体不明の男子生徒への既視感など、スピーチの後にいくらでも検証すればいいのです。
何度追い出しても、彼の残像は消えてくれません。
わたしはこれほど頑固なバグに遭遇したことがありませんでした。
(消えなさい。今すぐわたしの脳内から退去してください。あなたの存在にこれ以上のリソースを割く余裕はありません)
何度追い出しても、彼の残像は消えてくれません。
わたしはこれほど頑固なバグに遭遇したことがありませんでした。
「——続きまして、新入生代表挨拶」
司会の声が、わたしを現実に引き戻しました。
深呼吸。
大丈夫です。原稿は完璧に暗記しています。三十回は音読しました。
たかだか数分前のアクシデント程度で、わたしの知性は揺らぎません。
(集中しなさい、恋春。あんな些末な出来事に動揺しているなんて、完璧主義者の名折れです!)
わたしは席を立ち、壇上へと向かいました。
壇上に上がりました。
マイクの前に立ちました。
会場中の視線が、わたしに集まるのを感じます。
大丈夫。ここからは、わたしの独壇場です。
先ほどの転倒をリカバリーするのです。
むしろ好都合です。一度落ちたところからの華麗な復活ほど、人間の印象に残るドラマはありません。完璧なスピーチを以て、先ほどのマイナスをゼロ、いや——プラス100に書き換えてみせます!
口を、開きます。
「——」
出て、きません。
暗記したはずの文章が、すべて消えています。
いいえ、消えたのではなく、別の何かに上書きされていたのです。
頭の中は、真っ白ではありませんでした。
あの男の顔で、埋め尽くされていたのです。
逆光の中の微笑み。
『相変わらず』という声。
腕の中の温もり。
(どこで? いつ? なぜ「相変わらず」なのですか?)
思考のメインメモリが、その不毛な検索処理に100%持っていかれています。
スピーチの原稿を引き出すためのリソースが、1バイトも残っていません。
(な、なぜ……! なぜ消えないのですか! 消えなさい! わたしの脳内メモリから直ちに出て行きなさい!)
沈黙が、流れました。
1秒。
2秒。
3秒。
会場がざわつき始めます。
「どうしたの?」
「緊張してるのかな……」
ヒソヒソとした囁きが聞こえてきます。
橘恋春は緊張などしません。
わたしは完璧に原稿を暗記しています。
決してわたしが緊張しているわけではありません。これはあの正体不明の男子生徒による精神的テロ行為です!
あの「大丈夫?」と「相変わらず」という不快なノイズが、わたしの頭の中から退去してくれないのです!
——なのに。
指先が震えています。呼吸が浅い。視界がぼやける。
完璧な言葉が出てきません。一文字も。
4秒。
5秒。
(——出なさい。出なさい、橘恋春。あなたは完璧なのですから。ここで黙って立ち尽くすような人間ではないのですよ!)
叱咤しても、声は喉の奥に張り付いたまま動きません。
6秒。
***
壇上の袖から、一人の男子生徒が、スッと歩み出てきました。
長い脚。堂々とした歩幅。前髪を軽く搔き上げながら、まるで自分の部屋に入ってきたかのような自然さ。
もう一人の新入生代表。
男子代表の、早瀬蓮。
あの男でした。
彼は何の躊躇いもなく、わたしの隣に立ちました。
近い。さっきと同じくらい近い。
また、彼の匂いがする。制服の布地の匂いと、微かな石鹸の香り。
そして、マイクに向かって、ゆったりとした、本当によく通る声で語り始めたのです。
「えー、すみません。新入生代表の早瀬です。相方がちょっと緊張してるみたいなので、僭越ながら、僕の方から少しだけご挨拶をさせてください」
会場に、小さな笑いが起きました。
張り詰めていた空気が、ふっと和らぐのが分かりました。
早瀬くんは、用意されていたであろう原稿など持っていないのに、まるで最初からそう話すことが決まっていたかのような自然さで、挨拶を述べていきます。
新しい仲間との出会いへの期待。三年間という時間の大切さ。先生方や先輩方への敬意。
飾らない言葉の一つ一つが、不思議と体育館の空気に溶け込んでいく挨拶でした。
わたしは彼の隣で、必死に呼吸を整えながら、ちらりと彼の横顔を見ました。
堂々としています。
余裕があります。
声が——
(……悔しい)
その感情が、最初に——そして圧倒的な勢いで、わたしを満たしました。
わたしが失敗したところを、この人がフォローしている。
わたしの完璧な計画を台無しにした張本人が(転倒は彼のせいではありませんが、あの腕がわたしの脳を狂わせたのですから!)、今度は英雄のように壇上でスピーチをしているのです。
屈辱です。
完璧主義者のプライドが、ズタズタに切り裂かれていくような感覚です。
誰が代わりに喋れと頼みましたか!
わたしの完璧な原稿——三十回の音読と三重のバックアップ——を披露する機会を奪う権利が、一体どこの誰にあるというのですか!
あなたの即興のスピーチより、わたしの完璧な原稿の方が一万倍素晴らしいに決まっています!
それなのに、なんですかその何の苦労もなく語っている横顔は!
その無駄に通る声は!
その小憎らしい余裕は!
(……許しません。この屈辱は、必ず、返させていただく所存です)
わたしは唇を強く噛み締め、彼の横顔から目を逸らしました。
原稿の冒頭の一文が、ようやく、頭の中に戻ってきていました。
怒りの熱量が、バグを焼き尽くしたのです。




