自己紹介における機密保持義務違反と、発声モジュールへの不法な電波干渉について(5)
視界の端で、あの長身が動き始めました。
鞄を軽々と片手で持ち上げ、教室を横切って歩いてきます。
こちらへ。
まっすぐに。
教室の対角線を、一歩一歩、確実に詰めてくるその足取りは、まるで最初からこの結末を知っていたみたいに、迷いがありませんでした。
偶然?
偶然ですか?
39人の中から、たまたま自分の隣の席が空いていて、たまたまそこに、彼が来る?
そんなことって——!
いえ、低い確率でもありえないことではありません。ゼロでないなら起きる時は起きます。
これはただの、アンラッキーな偶然!
全部、黒田くんのメガネの度が合っていなかったせいです!
早瀬くんが、わたしの隣の席の前に立ちました。
鞄をそこに置きます。
椅子を引きます。
そして、わたし——防御姿勢に入っているわたしの方を見下ろして、微笑みました。
「やあ。また会ったな、恋春ちゃん」
一拍の、間。
「今度こそ、正真正銘のお隣さんだ」
わたしの思考が、完全に停止しました。
頭の中を駆け巡っていた確率計算も、現状分析も、必死の自己正当化も、すべてが一斉にフリーズ。画面が真っ白です。ブルースクリーンです。再起動の目処が立ちません! おのれ、マイクロソフト!
「な……! あ、あなた……!」
声が出ました。
ひそひそと——、ひそひそ声にしようとしたのに、声が震えてうまく制御できません。
「今の、絶対わざとですよね……!?」
早瀬くんは悪戯っぽく目を細めました。
「まさか。困ってる黒田くんを助けた、純粋な善意だよ。俺がどの席に座るかは先生が決めたことだし」
白々しい。
白々しいにもほどがあります!
「ただの偶然……。運命、かもしれないけどね」
運命なんて非科学的な言葉を使わないでください! あなたの口から出ると余計にタチが悪いんです!
——と、叫びたかった。
しかし口を開く前に、早瀬くんの態度が変わりました。
ふっと、いつもの笑みが消えたのです。
悪戯っぽい目でもなく。
無駄に整った営業スマイルでもなく。
少し温度の下がった、静かな——心の中まで見透かすような観察者の目。
彼は身を僅かに傾け、わたしだけに聞こえる距離まで声を落としました。
「……っていうのは半分冗談で」
声が、低くなりました。
さっきまでの軽快さが消えている。
「さっき俺の席が対角線の真逆に決まった時、あからさまに溜息、吐いてたでしょ」
——ッ。
「でもその後」
早瀬くんの瞳が、わたしの目を正面から捉えました。
逃げ道を、完全にふさぐように。
「こっち見て、ちょっとだけがっかりした顔したの。……気付いてないと思った?」
ッ——————!!!!!!!!!!!!!
全身の血液が、顔面に殺到しました。
がっかり。
がっかりした顔。
あの一瞬——あの、ほんの一瞬だけ——教室の対角線の向こうに彼の姿が遠くなった時に、わたしの観測システムの遅れによって生じた顔の筋肉の強張りを、あの——
見・て・い・た・ん・で・す・か!!!!
「し、してません!!!! がっかりした顔なんて、一瞬たりともしてません!!!!」
声が、出てしまいました。
しかも、かなりの大声で。
教室中がしん、と静まり返り、クラスメイト全員の視線が、一斉にこちらを向きました。
あ。
やって、しまいました。
早瀬くんは——わたしの大声を浴びて——悪戯っぽい笑みに戻りました。
温度の低い観察者の顔から、一瞬で。まるでスイッチを切り替えたように。
「お、図星?」
「図星じゃありません!!!」
「やっぱり見てたんだ、俺のこと。嬉しいなあ」
「見てません!!! 『情報収集対象が物理的に遠ざかったことによる観測効率の低下』を懸念していただけです!! あなたの存在を視界に入れる余裕なんて、わたしには1バイトもありません!!!」
完全に教室の注目を集めてしまっています。
全方位から視線が突き刺さります。
「またあの二人……」
「昨日の続きじゃん……」
「もう付き合えよ」
最後の囁きが、はっきりと、わたしの耳に届きました。
す、す、す、好き……!?
誰がですか!?
この男のどこを好きになるっていうんですか!?
「付き合ってません! いいえ、未来永劫付き合いません! わたしはこの男を心底嫌悪しております! 対象として認識しているのは好意ではなく明確な殺意です!!」
わたしはキッパリと宣言しました。
見当違いもはなはだしい憶測と妄想を繰り広げるクラスメイトの皆さんに向けた、公式な見解の表明でした。
論理と事実に基づいた、至極真っ当な訂正です。
なのに。
「へえ」
隣の席で、早瀬くんが頬杖をつきました。
楽しそうに、唇の端を吊り上げて。
「殺意ねえ。……じゃあなんで昨日の入学式、俺が耳元で名前呼んだ時、あんな顔真っ赤にして固まってたのさ」
ドクン。
心臓が、跳ねました。
「心底嫌悪してる相手に声かけられただけで、あんな反応する?」
「ち……っ、違います! あれは物理的に近接した距離から突然声をかけられたことによる、一時的な混乱です!」
「ふーん。昔から、強がってそういう理屈こねるよな」
「違います違います!! あなたは都合よく事実を曲解しています! だいたい昨日はっ……あの時は、あなたがっ……!」
「俺が?」
「あなたが壇上で突然、過去のありもしない約束なんか持ち出してわたしのペースを乱すから! わたしはパニックを起こして……!」
「へえ。じゃあ、今日は?」
「きょ、今日はっ……! この席順という不条理に対する、純然たる怒りです! 全部、無駄に整った顔面を持つあなたがいけしゃあしゃあとわたしのパーソナルスペースを侵犯してくる、その支配欲こそが不快なんです!!」
「そっか。やっぱ俺のこと、本気で怒るくらい気にしてくれてるんじゃん」
頭の中のメモリが、致死量を超えた熱暴走を起こしました。
羞恥と、混乱と。
そして、この男にはどんな論理的な反論も全て『好意』として自動変換されてしまうという、途方もないバグの壁。
「——っっっ!!」
わたしは完全に理性のヒューズを吹き飛ばし、彼に向かって最大の音量で叫んでいました。
「あなたのその無神経さと図々しさと自己満足的な解釈回路は万死に値します!!!! こ……殺っ、殺しますよっっっっっ!!!!!」
なのに、早瀬くんと来たら。
「おー、本日も殺害予告いただきました。ありがとうございます」
むしろ楽しげに拍手をしたのです。
拍手!? 殺害予告で拍手するんですかこの人は!? 信じられません!
担任が、大きな咳払いをしました。
「はいはい、そこ、夫婦喧嘩は後にして静かにしろー。席も決まったし、一年間仲良くやれよ」
夫婦喧嘩。
『夫婦』
その二文字が、わたしの心臓に致命傷を与えました。
ふうふ。教師公認。担任のお墨付き。「橘と早瀬は夫婦も同然の仲」という不名誉な認定が、みんなの前で、公式に下されてしまいました。
慰謝料を請求したいレベルの名誉毀損です!
わたしは崩れ落ちるように自席に座り、机に突っ伏しました。
……もう。もう最悪です。
昨日の夜、もう二度と大声を出さないって誓ったのに。
もう二度とクラスメイトの前で醜態を晒さないって誓ったのに。
あの完璧な誓いの何がいけなかったんですか。あれだけ固い決意を持って今朝ここに来たはずなのに! なのに、また! また、あの男のせいで! 全部、全部あの男の——!!
隣の席から。
声が、降ってきました。
「恋春ちゃん」
低く、穏やかな声。
さっきまでの——からかいの温度も、観察者の冷ややかさも、ぜんぶ消えた。
まっすぐで、静かで、どこか腹立たしいほど耳に心地よい声。
「……よろしくな、お隣さん」
わたしは、机に伏せたまま、返事をしませんでした。
返事をしたら、負けを認めることになるからです。
この男のペースにこれ以上巻き込まれるのは、わたしのセキュリティポリシーに反するからです。
決して、顔が赤くなっているのを隠すためではありません。
断じて、それ以外の理由ではないのです。




