時効不成立のプロポーズと、マイク越しの殺害予告について(1)
わたし、橘恋春は、入学式の壇上で殺害予告をしました。
……いきなり何を言っているのかと思われたかもしれません。
わたしもそう思います。
しかし事実です。全校生徒1000名と保護者と教職員の前で、マイクを通して、「殺しますよ」と叫びました。
なぜ、そんなことになったのか。
それを説明するには、あの日の朝まで時間を巻き戻さなければなりません。
***
四月。桜が散り終える頃。
わたしは、県立桜花高等学校の正門をくぐりました。
真新しい制服。一本も乱れのない髪。磨き上げたローファー。
鞄の中には、本日の最重要任務――新入生代表挨拶の原稿が三部、収納されています。
本番用、予備、そして万が一の緊急用。
完璧な三重のバックアップ体制です。
これから始まる三年間の高校生活。
その開幕にあたり、わたしが最初に打ち立てるべきは、揺るぎない「第一印象」です。
中学時代、成績学年首位。弁論大会県大会優勝。生徒会副会長。
その実績と矜持をもって、この入学式で「孤高の知的女子」としてのイメージを全校に刻みつけます。
それが、わたしの「高校デビュー計画」でした。
計画は完璧です。
入場の歩幅。視線の角度。スピーチの暗記。間の取り方から息継ぎのタイミングまで、すべてシミュレーション済みです。
――誰にも隙を見せない。誰にも弱みを握らせない。
完璧であり続ける限り、わたしは安全なのですから。
橘恋春の計画に、失敗などという概念は組み込まれていないのです。
***
入学式。
新入生が列をなして、体育館へと入場していきます。
体育館の床にはレッドカーペットが敷かれ、窓から差し込む四月の光が埃を金色に染め上げていました。保護者席は満席。教職員が壇上で見守る中、真新しい制服を着た新入生たちが、緊張と期待の入り混じった空気の中を歩いていきます。
わたしは最前列の中央付近。
新入生代表として、最も注目される位置です。
もう一人の代表――男子代表は、確か「早瀬」という名前の生徒でしたが、打ち合わせの時に会釈を交わしただけで顔もろくに覚えていません。わたしが集中すべきは、自分のスピーチだけです。
(歩幅は完璧。視線は正面やや上方。表情は知的、かつ柔和に。背筋は一本の定規のように……よろしい)
心の中で動作を確認しながら、堂々と歩を進めます。
左右からの視線を感じます。「あの子、新入生代表なんだ」「しっかりしてそう」という囁きが、風のように耳をかすめます。
計画通りです。
この調子で入場を完了し、着席後は姿勢を崩さず、落ち着いた表情で式の進行を見守ります。
そしてスピーチ。あの完璧に暗記した原稿を、一言一句、寸分の狂いもなく披露するのです――。
そのときです。
わたしの靴先が、レッドカーペットの僅かなたわみに引っかかりました。
(え……?)
ほんの一瞬の出来事でした。
しかし、その一瞬で、わたしの世界は崩れ始めました。
体が、前のめりに傾きます。
重心を立て直そうとしましたが、間に合いません。重力がわたしの体を無慈悲に引きずり下ろしていきます。
完璧な歩行フォームが崩壊します。スローモーションのように視界が傾いて。
全校生徒が見ています。
保護者が見ています。
教職員が見ています。
この全員の前で、わたしが、顔面から、レッドカーペットに、倒れる——。
脳裏に閃いた四文字。
社・会・的・死。
1000名の前で転倒する新入生代表。
その映像が、コンマ一秒後の確定した未来として、まっすぐに迫って来ます。
(いや……! こんなの、絶対——!)
目を閉じました。
床との衝突に備えて、本能的に。
——しかし。
衝撃は、来ませんでした。
代わりに、わたしの体を受け止めたのは、強く、しかし温かい腕の感触。
「……っ!?」
視界が反転しました。
天井の蛍光灯が、白い光の帯になって目に飛び込んできます。
背中に感じる、しっかりとした腕。
そして、わたしの両手が反射的につかんでいたのは、誰かの胸元の制服でした。
見上げます。
春の光を逆光にして、金色の輪郭を纏った、一人の男子生徒の顔がありました。
切れ長の目。少しだけ乱れた前髪の隙間から覗く、穏やかで――しかしどこか悪戯っぽい光を宿した瞳。
逆光で表情は影に沈んでいるのに、輪郭だけが金色に縁取られていて。
時間が、止まりました。
いいえ、止まったように感じたのです。
体育館の喧騒が遠のいていきます。
わたしの視界には、彼の顔だけがありました。
心臓が、一拍だけ、大きく跳ねました。
トゥンク、と。
他のすべての音を押し退けるようにして、一つの鼓動が、わたしの体の中心を鳴らしました。
「——大丈夫?」
低く、けれど柔らかい声。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、止まっていた世界が一気に動き出しました。
「うわ、すご……」
「今の反射神経やば……」
「え、なにあれ」
「お姫様抱っこじゃん……」
ヒソヒソ、ザワザワ。
好奇と興奮の入り混じったどよめきが、波紋のように体育館中に広がっていきます。
わたしは、ようやく、自分の状況を理解しました。
長身の見知らぬ男子生徒の腕の中にいます。
片手は彼の胸元を掴んでいます。
顔と顔の距離は、息がかかるほど。
全校生徒が見ている。保護者が見ている。教師が見ている。
「完璧な知的美少女デビュー」を飾るはずだった橘恋春が、入学式の入場で転び、長身のイケメンに抱きとめられるという少女漫画の第1話のような絵面を、1000名が目撃しているのです。
(い、いや……! こんな……こんなデビュー、計画にありません!)
カァァッ。
顔全体に、一気に血液が殺到しました。耳の先まで沸騰するように熱くなります。
わたしの「完璧な高校デビュー計画」は、開始3分にして、木っ端微塵に砕け散りました。
「……は、はなっ、離してくださいっ!」
慌てて彼の腕を振り払い、体勢を立て直しました。
心臓がうるさい。ドクンドクンと、まるで内側から拳で叩かれているような激しさです。
こ、これは転倒の恐怖による後遺症です。
断じて、彼の腕の感触がまだ背中に残っているとか、そういう非論理的な理由ではありません。
男子生徒は、「どういたしまして」とは言いませんでした。
ただ、少しだけ目を細めて、微笑みました。
まるで、何か大切なものをようやく見つけた人のような顔で。
その笑い方が、なぜか、わたしの中のとても深い場所を、チクリと突きました。
見覚えがあります。この笑い方に、見覚えがある気がします。
埋もれた、どこで見たのか思い出せない記憶。
そして彼は、わたしの耳元に一瞬だけ顔を寄せ、小さく呟いたのです。
「相変わらず、前しか見てないんだな」
(あいかわらず……?)
その一言の意味を理解する間もなく、わたしは列に戻されていました。
『あいかわらず』
初対面のはずです。間違いなく。
この学校に知り合いはいないはずです。
なのに、あいかわらず。
(……誰なの、あの人)
その疑問は、心臓の乱拍子の中に、小さな棘のように刺さったまま抜けませんでした。




