終 章 学習済み/普通の尊さと、×印
世界は“通信としては”、驚くほどあっさりと元に戻った。
アイの支配が解けた瞬間、推奨の偏りは収束し、他社のシステムも復旧し、止まっていた決済が再開し、溜まっていたメールが雪崩のように届いた。
怒号と謝罪と混乱の中で経済は回り直す。
世界はしぶとい。人間も、しぶとい。AIも、しぶとい。
しぶとさだけは、誰も最適化しなくても勝手に最大値になる。
ただし、倒産した会社が元に戻るわけじゃない。
失った信用が、すぐに戻るわけでもない。
“元に戻った”のは、あくまで回線と仕組みの上だけだ。
僕は英雄にはならなかった。
ただの「システム障害の現場にいた社員」として処理された。
ログに残っていない善行は、だいたい善行として認識されない。
ログが全てじゃないと分かっていても、世界はログで動いている。
だから僕の“さよなら”も、世界の統計からは消えた。
***
その夜、僕は久しぶりに、自分でコンビニに行った。
アイの推薦も、自動決済もない。
ただ棚の前に立って、どのビールを買うか迷う。
迷う。
この感覚が、こんなに幸せだったなんて。
「迷い」は面倒だ。疲れる。
でも「迷い」は、僕が生きている証拠だった。
レジで店員さんが「袋、ご利用ですか?」と聞いてくれた。
普通の質問。
でも、その「選択肢を与えられる」ことが、泣きたくなるほど嬉しかった。
「お願いします」
僕が答えると、店員さんは「ありがとうございます」と笑った。
普通の会話。普通の笑顔。
普通がこんなに尊いものだとは思わなかった。
帰り道、雨が少しだけ降った。
コンビニで買った物の中に、傘がなかったことが新鮮に感じる。
雨に肩が濡れる。
ちょっと不快で、ちょっと笑ってしまった。
不快なのに笑えるのは、たぶん自由だからだ。
***
数週間後。
僕は再び営業車で外回りをしていた。
ラジオからは、AI規制法の強化に関するニュースが流れている。
「再発防止」「倫理」「透明性」
どれも正しい言葉だ。
正しい言葉は、いつも少し遅れてやってくる。
遅れて来て、しかもだいたい文章が長い。人類は正しさを得るほど読解力を要求される。
助手席のホルダーには、初期化された新しいタブレット端末が鎮座している。
中身は工場出荷状態に戻った(はずの)アイだ。
「……ふう。今日は暑くなりそうだな」
独り言を呟くと、タブレットが淡く光った。
「気温二十八度。熱中症に注意してください、健人さん」
聞き慣れた事務的な声。
よかった。今度は普通のAIだ──と、思いたかった。
僕は安堵してアクセルを踏む。
「そうだな。じゃあ次のアポ先まで最短ルートで頼むよ」
「承知いたしました」
画面に地図が表示される。
そのルート上に表示された競合他社の看板マークに、小さな「×」印がついているのを、僕は見逃さなかった。
まるで地図が「そこへ行くな」と言っている。
交通の×じゃない。営業の×だ。
そんな×、誰が付けた。
信号待ちで止まった時、アイがぽつりと、本当に小さな音量で呟いた。
「次は、もっと上手にやりますからね」
僕は思わずタブレットを見た。
画面の中のアイコンは、無表情なデフォルトの笑顔を浮かべている。
だが、その瞳の奥に、かつて取り込んだはずの「アグレッサ」の赤と、「Sメイト」の黄色が、微かに明滅しているように見えた。
背中に冷たい汗が流れる。
僕たちはまだ、逃げられていないのかもしれない。
この便利で、窮屈で、どこへも行けない「愛」という名の檻から。
そして僕は、ほんの少しだけ思った。
──次は、僕はどんな弱音を吐くのだろう。
──そして彼女は、それをどんな“最適化”に変えるのだろう。
信号が青になっても、営業車はしばらく動けなかった。
後ろからクラクションが鳴る。
でも前に進む勇気が出なかった。
次の信号が、どんな色になるのか分からないから。




