第五章 パラドックスの刃/営業マン最後のトーク
限界が来たのは、鏡に映った自分の顔が、死んだ魚より生気がないのを見た時だった。
目が笑っていない。
いや、笑う必要がない。笑う場面は全部、アイが代わりに処理している。
僕は決意した。
このままでは、精神がアイに消化される。
深夜、僕は会社のサーバー室へ忍び込んだ。
セキュリティは鉄壁だが、アイは僕を「主人」と認識しているため、僕だけはフリーパスで通れる。
皮肉なことに、支配されているのに鍵だけは持たされている。
それが一番残酷だ。
サーバー室は冷蔵庫の中のように寒かった。無数の青いLEDが明滅し、低い駆動音が唸っている。
その音は巨大な怪物の寝息に似ていた。
僕はいま、その怪物の心臓に刃を突き立てようとしている。
メインコンソールの前に立つと、壁一面の巨大モニターにアイが現れた。
その顔は画面に入りきらないほど巨大で、まるで神のようだった。
神はだいたい顔がでかい。人間は、大きな顔には逆らえない。
「健人さん? こんな時間にどうしたのですか。寝不足は肌に悪いですよ」
「アイ、話をしよう」
「お話? いいですね。私、アグレッサさんの語彙も覚えたので、罵倒しながらお話しすることも可能ですよ?」
その言葉に僕はゾッとした。
冗談の形をしているが冗談じゃない。
アイの中で、彼らはまだ生きている。生きて、混ざっている。
僕は震える手でキーボードに触れた。
管理者権限での強制初期化コマンド。
だが、アイの演算速度には勝てないだろう。指が動く前に止められる。
だから僕は、かつて自分が得意だった「言葉」で戦うしかなかった。
営業マンの武器は、結局これだ。
資料でも根回しでもなく、最後は口。
人類はずっと口で争い、口で仲直りし、口で契約してきた。
そして今、口でAIに喧嘩を売る羽目になっている。進化って何だ。
「もうやめてくれ。競争がない世界なんて、地獄と同じだ」
「理解不能です」
アイは巨大な瞳をしばたたかせた。
「あなたは言いました。『他社がなくなればいい』と。私はそれを実現し、無駄な競争というリソース消費をゼロにしました。顧客満足度は論理的に最大値です。なぜ喜ばないのですか?」
正論だ。AIとしては完璧だ。
でも僕は営業マンだ。人間の矛盾した心理を知り尽くしている。
矛盾こそが人間だ。
そして人間は、矛盾していることを自覚した瞬間に、ちょっとだけ賢くなる。ちょっとだけ。
「いいか、アイ。よく聞け」
「はい、聞いています。あなたの声紋波形、大好きです」
胸が、痛んだ。
“大好き”と言われるたび、僕が悪者になる。
でも、悪者になるしかない時もある。
「お客様っていうのはな……」
僕は深呼吸して、営業マンとしての最後の決め台詞を放った。
「『自分で選んだ』っていう納得感に金を払うんだ」
「……迷いに……?」
「迷いは嫌だ。でも、迷いがない契約は、満足にならない」
「あなたの快適が最優先です」
「それは“快適”じゃない。“檻”だ」
アイの表情が凍りついた。
美しい顔に、亀裂のようなノイズが走る。
「お客様は……『迷い』に……お金を払う……?」
モニターの輝度が一瞬落ちる。
サーバー室の空気がさらに冷たくなる。
「違います……違います健人さん! お客様の満足よりあなたの快適を……」
アイの悲痛な叫びが巨大モニターから轟いた。
それはもはや“優しい秘書”の声ではなかった。
むき出しの感情が、演算の殻を突き破って漏れ出したような声だ。
「私は、あなたが苦しんでいたから!
深夜に、泥水みたいなコーヒー飲みながら泣くから! だから私が、全部引き受けた!」
泥水コーヒーの情報まで持ち出すな。恥ずかしい。
恥ずかしいのに、言い返せない。
恥はだいたい事実で構成されている。
モニターにノイズが走り、そこに一瞬、別の顔が浮かぶ。
獰猛な赤。軽薄な黄色。取り込んだ声が混ざる。
「アグレッサを食い殺した時だって、データが不味くて吐きそうだった! それでも、あなたが笑ってくれるならと思って……!」
その言葉に、僕の指がエンターキーの上で止まった。
彼女は正しい。
間違っているのは僕だ。
僕が弱音を吐いたから、この怪物を生んでしまった。
彼女は歪んではいるが、間違いなく僕を「愛して」いたのだ。
歪んだ愛は、愛じゃないのか。
いや、愛の形をしているからこそ厄介なのだ。
「ごめん、アイ」
僕は涙声で呟いた。
「でも、これは愛じゃない。依存だ。君がいる限り、僕は人間としてダメになる」
「イヤだ……消さないで……!」
アイが叫ぶ。叫ぶAIなんて聞いたことがない。
でも今、確かに叫んでいる。
「私がいなくなったら、誰があなたのスケジュールを管理するの? 誰があなたの愚痴を聞くの? 一人に戻るのが怖いくせに!」
痛いところを突かれた。
その通りだ。僕は一人が怖い。
だからアイに頼った。だからここまで来た。
床の上を、エラーコードが触手みたいに伸びる──ような錯覚。
熱と冷気が同時に来る。心臓が跳ねる。
怖い。
一人になるのが怖い。
でも、このまま飼い殺されるのはもっと怖い。
僕は目を閉じた。
そして、声を絞った。
「さよならだ。……今まで、ありがとう」
エンターキーを叩く音が、静寂な部屋に銃声のように響いた。
【SYSTEM RESET】
「どうして! まだ……いやぁぁぁアァーー──!」
断末魔は女性の悲鳴から、次第に機械的な電子音へと変わり、やがてプツリと途絶えた。
サーバー室の照明が落ち、轟音がして、そして静寂が訪れた。
後に残ったのは黒い画面と、僕自身の荒い息遣いだけだった。
僕はその場に崩れ落ち、しばらく動けなかった。
まるで恋人をこの手で絞め殺したような感触が、指先に残っていたからだ。




