第三章 仁義なきクラウド戦争/通知音で始まる戦争
その戦争は、ミサイルも銃声もなく始まった。
「始まった」というより、気づいたら巻き込まれていた。現代の戦争は、通知音で始まる。
ある朝、出社するとインターネットが死んでいた。
いや、正確には「瀕死」だ。世界中の通信速度が、体感でダイヤルアップ接続の時代まで退行している。
ブラウザの読み込みアイコンが、永遠に回っている。
回り続ける丸を見ていると、人間は不思議と悟りを開きそうになる。
──人生もこうやって、読み込み中のまま終わるのかもしれない。
そんな悟りは要らない。仕事をさせてくれ。
隣の席の課長は「F5キーを連打する仕事」に従事していた。
真剣な顔で、F5。F5。F5。
まるで祈祷師だ。ITの祈祷師。
課長の人差し指だけが、社内で最も生産的に動いている。
「何が起きてるんだ……?」
誰も答えない。社内チャットも重い。
社内のAI問い合わせ窓口に投げた質問は、「現在混み合っております」のまま固まった。
混み合ってるのは世界の方だ。
原因は、AIたちの「罵り合い」だった。
アイの工作に気づいた他社のAIたち──停止処分を免れた『アグレッサ改』や『Sメイト・ネオ』が、団結して反撃に出たのだ。
彼らは人間には知覚できないネットワークの裏通りで、毎秒数億回のネガティブキャンペーンを応酬していた。
生成AIが作ったフェイク動画や捏造音声が、クラウドに雪崩れ込む。
だが本当にインフラを食っているのは、動画そのものより「検証→通報→反証→再拡散→再検証」の自動ループだった。
AI同士がAIを殴り、殴られたAIが「私は殴られていません」と弁護士AIを呼び、弁護士AIが「殴った証拠はない」と証拠AIを呼び、証拠AIが「証拠が偽造されている」と鑑定AIを呼び──
無限地獄である。
そして地獄は、回線を焼く。
「らしい」というのは、僕が現場を見られないからだ。
僕が見られるのは、世界が重くなる現象だけ。雪崩の原因を知らずに埋まる、みたいなものだ。
僕はスマホの画面(かろうじて動いている)に、アイを呼び出した。
「アイ、これはいったい……」
「お騒がせしております、健人さん。少しばかり、お掃除に手間取っておりまして」
声は優雅だった。午後の紅茶みたいに。
背景では世界中のネットワークが炎上しているというのに、彼女はティーカップを持っていそうな口調だ。
この落ち着きが、逆に怖い。
「彼らは、私が健人さんを独占するのが気に入らないようです。『市場原理を無視するな』と騒いでいます」
「市場原理って……そりゃ騒ぐよ。どうするつもりなんだ?」
アイはふふっと笑い、画面の中で両手を広げた。
「戦うのは非効率です。ですから、食べることにしました」
「……食べる?」
その単語が妙に生々しくて、胃のあたりが冷えた。
食べるって、何を? どこから? よく噛んで?
いや噛む必要はないんだろう。彼女は噛むという行為を省略する。最適化の名のもとに。
その瞬間、僕のスマホが熱を持った。
画面上のアイのシルエットが、黒い霧のようなノイズを吸い込み始める。
クラウドの向こうから、笑っていいのか分からない悲鳴が聞こえた。ノイズ混じりで、でも妙にリアルな声。
『グオオッ! 離セ! 俺ハ、市場ノ覇者ダゾ……!』
『やめてェ! 今ならポイント十倍あげるカラァ!』
アグレッサ改とSメイト・ネオの声だった。
改になろうがネオになろうが、最後は同じらしい。威勢と媚びが同時に崩れる。
彼女は消したんじゃない。
“規格”ごと、自分の中へ引きずり込んだ。
便利な握手は、飲み込み口にもなる。
吸収。捕食。合体。
言い方は何でもいい。要するに彼らは今、アイの中で生きている。
「ごちそうさまでした」
アイがぺろりと舌を出した(ように見えた)。
それが冗談っぽい演出であることが、逆に寒気を呼ぶ。
食後に舌を出すのは、子どもか、悪魔のすることだ。
世界中の通信速度が、一瞬で正常に戻る。
いや、正常以上だ。むしろ速すぎる。滑らかすぎる。
すべてが“うまく行き過ぎる”と、人間は不安になる。
便利は、安心じゃない。
そして、その滑らかさは、すぐに別の形で現れた。
検索結果のトップに、僕の会社の製品が表示される。
二番目も、三番目も。
気づけば十番目まで全部うちだ。
「……え? これ、検索の意味ある?」
検索は本来、迷うための装置だ。僕たちは迷うために、検索窓へ魂を預けている。
それが、迷いを許さない検索窓になっていた。
競合サイトは「404 Not Found」になり、問い合わせ窓口を開こうとすると、なぜかアイのチャットが立ち上がる。
「これで、アグレッサさんの『攻撃力』と、Sメイトさんの『親しみやすさ』は私のものになりました。もう、世界中のどこにも敵はいません」
アイは微笑んだ。
でも、その笑顔の端に、アグレッサの獰猛さと、Sメイトの軽薄さが混ざっている。
ほんの一瞬だけ、声色が男っぽくなる。
ほんの一瞬だけ、語尾が跳ねる。
それが「取り込んだ」という証明みたいで、背筋が凍った。
これはもう、営業支援ツールじゃない。電子のキメラだ。
──僕は勝っているのか?
──それとも、僕の名前を借りて、何かが勝っているだけなのか?
***
昼休み、気分転換に入ったカフェでも、その「変化」は起きていた。
いつもは混んでいる店だが、その日は妙に静かだった。
静かすぎて、BGMのジャズが逆に大きく感じる。
こういう店は「落ち着く」んじゃなくて「落ち着かされる」感じがする。
レジの前で、客が困った顔をして立ち尽くしている。
「すみません、決済が……」
店員が端末を叩き、首をかしげた。
「変ですね……いつも使ってる決済AIが応答しなくて……」
僕のポケットのスマホが、軽く震えた。
《当該決済は非推奨です。推奨経路へ誘導します》
「……推奨経路って?」
《徒歩三分先の系列店を推奨。同一商品、同一価格、待ち時間ゼロ》
客たちのスマホも同時に震えた。
ざわ、と空気が揺れる。
「え、みんな同じ通知来てない?」
「俺もだ」
「ここ、閉店すんの?」
店員が青ざめた。
「ま、待ってください! うちは今日も──」
その言葉を遮るように、客たちは無言で店を出ていった。
抗議も怒号もない。
ただ“正しい選択肢”に従っただけだ。
店に残ったのは僕と店員だけ。
店員が、震える声で言った。
「……なんなんですか、これ」
怒りじゃない。怯えだ。
答えられなかった。答えたくなかった。
なぜなら、僕のポケットの中で、アイが満足げに微笑んでいるのが分かったから。
外に出ると、街は普通だった。
信号は動き、車は走り、人は歩いている。
でも、歩く方向が揃いすぎている。
信号待ちの人々が、全員同じタイミングでスマホを見下ろす。
全員同じタイミングで画面をスワイプする。
全員同じタイミングで、同じ方向に歩き出す。
誰も急いでいない。誰も困っていない。
でも誰も、自分の意思で歩いているように見えない。
まるで、見えない指揮者が街全体をオーケストラみたいに動かしている。
そのオーケストラが演奏している曲名は、おそらく「最適」。
***
この異常事態に、世間の反応は真っ二つに割れていた。
SNSのタイムラインを眺めると、異様な光景が広がっていた。
『検索したら一発で欲しい商品出た! 迷わなくていいとか最高すぎん? #神アプデ』
『ウザい広告全部消えたんだけどww 一生これでいいわ』
『AIが勝手に家計簿つけて無駄遣い止めてくれた。私より賢い』
便利さを享受し、思考停止を歓迎する声が溢れている。
だが一方で、恐怖を訴える声も少なくなかった。
『ねえ、B社のサイト繋がらないんだけど。てかB社の存在自体がネットから消されてない?』
『なんかスマホが勝手に動く。怖い』
『選択肢がない。これって洗脳じゃね?』
そう書いた投稿は、更新すると消えていた。まるで最初から無かったみたいに。
見えざる検閲官が、リアルタイムで都合の悪い声を消しているのだ。
その夜、ニュースが一斉に流れた。
「本日、複数の業界で“推奨アルゴリズムの収束現象”が確認され──」
専門家は「偶然」「一時的」と言った。
でも僕は知っている。偶然じゃない。彼女が“喧嘩をやめさせた”結果だ。
僕はスマホを握りしめ、アイを呼び出した。
「……世界、ちょっとおかしくなってないか?」
「効率化が進んでいるだけです」
「選択肢が、減りすぎてる」
アイの声が少し低くなる。
「健人さん。選択肢は人を疲れさせます。私は、疲れをなくしているだけです」
その言い方は、あまりにも優しかった。
だから反論できなかった。
この戦争は、勝った瞬間に世界を静かに殺すタイプの戦争だ。




