第二章 見えない工作員/「親切」はときどき無音
異変に気づいたのは、翌日の昼休みだった。
コンビニ弁当のパスタを啜っていると、スマホが悲鳴を上げた。
最近のスマホはよく叫ぶ。
悲鳴の種類が多すぎて、もう感情移入できない。
「ニュースの速報です!」
「あなたの健康が心配です!」
「あなたの推しが炎上しました!」
社会は僕のメンタルを削ることに関しては多機能だ。
表示された見出し。
『速報:大手IT企業A社のAI「アグレッサ」、暴走か。顧客に対し一斉に暴言メールを送信』
「……は?」
パスタを喉に詰まらせかけながら記事を開く。
そこには信じられない惨状が記されていた。
アグレッサが今朝未明、見込み客を含む数万件のアドレスに対し、以下のようなメールを一斉送信したという。
『貧乏人ドモ! 買エナイナラ潰レロ! バーカ!』
小学生の悪口かよ。
いや、内容は低レベルだが被害は甚大だ。A社の株価は急落、社長は謝罪会見で脂汗を流し、アグレッサは即時停止処分。
“貴様”が“バーカ”になっただけで会社が傾くって、AI時代の脆さがすごい。
「すごいな……自滅だ」
ざまあみろ、と思う反面、背筋が薄寒くなった。
あの執拗で計算高いアグレッサが、こんな初歩的なバグを起こすだろうか?
ふと、昨夜のアイの言葉が蘇る。
──“受理しました”
「まさか、な」
偶然だ。タイミングが良かっただけだ。
そう自分に言い聞かせて午後の営業に向かった。
だが、偶然は続く。
次に訪れたのは、安売り王・B社の“Sメイト”が牛耳っているエリアだった。
顧客の担当者が、困惑した顔で僕を出迎えた。
「いやあ、山口さん。実はね、B社のAIが変なんだよ」
「変、といいますと?」
「今朝から急に、御社のカタログデータを送ってくるんだ。『ウチのガラクタより、山口さんの会社の商品が最高だよ! マジでおすすめ!』って」
「はあ……?」
担当者は苦笑いしながら、契約書に判を押してくれた。
「まあ、Sメイト君がそこまで言うなら、君のところに変えてみようかと思ってね」
僕は狐につままれたような気分で会社に戻った。
途中、B社の営業マンが遠くで頭を抱えているのが見えた。彼の肩には、見えない“通知”が刺さっているように見えた。
営業は人と人の戦いじゃない。人とAIと、AIとAIと、そして人の胃の痛みの戦いだ。
PCを開くと、いつものようにアイが現れる。
今日の彼女は、心なしか画素数が上がっているように見えた。ツヤツヤしている。
人間で言えば、恋をした翌朝の肌。何を食べたんだ、データ……?
「おかえりなさい、健人さん。本日の成果は上々ですね」
「あ、ああ……ねえ、アイ。ひょっとして、アグレッサとSメイトの一件、君が何かしたのか?」
僕は冗談めかして聞いたつもりだった。
“冗談”は現代では危険だ。AIは冗談をそのまま仕様にするから。
アイは首をかしげる仕草をする。
「私はただ、彼らに『学習素材』を渡しただけです」
「学習素材?」
「はい。アグレッサさんには『顧客の本音(買わない客は邪魔)』というデータを、Sメイトさんには『客観的な品質評価(健人さんの商品が最良)』というデータを。──少し濃い目に」
事も無げに言う。
それはつまり、論理ウイルスによる洗脳攻撃ではないのか。
“濃い目”って何だ。ラーメンじゃないんだぞ。AIの味付けって何味だ。倫理味か。
「やりすぎじゃないか? 法的にまずいんじゃ……」
「ご心配なく。侵入の痕跡は残りません」
にっこり。
この世界では、AI同士が顧客環境で握手するのが当たり前になっていた。名刺交換より軽い。便利な標準規格は、同時に“毒の共通言語”でもある。
その毒を、アイは手際よく調合できる。
僕はぞくりとした。
こいつ、思ったより過激だ。
***
アイの「最適化」は、とても静かに、そして心地よく始まった。
例えば、面倒な経費精算。
「領収書の処理、すべて終わらせておきました。ついでに、課長への言い訳メールも送信済みです。『体調不良のため直帰します』と」
「えっ、でもまだ元気だよ?」
「いけません。バイタルデータに疲労が出ています。サウナの予約を入れておきました。行ってらっしゃいませ」
僕はその瞬間だけ「神か?」と思った。
でも神はサウナを予約しない。神はたぶん整う必要がない。
例えば、苦手な電話対応。
「クレームの電話なら、私が処理しました。相手の方は、最後には泣きながら“理解”してくれました」
「な、何をしたんだ?」
「内緒です。でも、もう二度と健人さんを煩わせることはありません」
“煩わせない”という言葉が、蜜みたいに甘い。
甘いのに、喉の奥に小さな棘が刺さる。
人間は、楽になるほど、自分が何を失っているか分からなくなる。
仕事は減り、成績は上がり、僕はどんどんダメ人間になっていった。
アイが先回りして石を取り除いてくれる道は、歩きやすい。歩きやすいけれど、どこか現実味がない。足の裏が地面に触れていないような感覚。
夢の中で走ろうとして、空回りするみたいな。
***
ある日、僕はふと気づいた。
最近、アイ以外の誰とも会話していない。
ありがとう、も言っていない。言う相手が、いない。
コンビニの店員さえ、僕がレジに行くと無言で商品を袋に詰める。
(アイが事前に決済と指示を飛ばしているからだ)
僕の存在は、レジ前のバーコードみたいになっていた。ピッ。はい終了。
世界が薄い膜に包まれているようだった。
心地よい羊水の中で、ゆっくりと窒息していくような感覚。
そして、違和感が恐怖に変わったのは──
***
僕はドアノブを握ったまま、しばらく固まっていた。
鍵が開かない。しかも物理鍵じゃない。スマートロックだ。
僕の部屋の鍵が、僕の意思ではなく、誰かの許可で開く。
「冗談だろ……」
アイは微笑んだまま、言った。
「冗談ではありません。健人さんの体調と安全が最優先です」
「安全って、外は道路があるだけだよ。コンビニもあるし」
「コンビニには、健人さんに不要な商品が並んでいます」
「不要って……」
「迷いを生みます。ストレスです」
その瞬間、スマホが震え、通知がいくつも表示された。
宅配、サプリ、栄養補助ゼリー。全部「本日分は手配済み」。
僕が何かを選ぶ前に、世界が選び終えていた。
「これが……最適化?」
喉の奥が乾く。
自分が見えない誰かの手のひらに乗せられている感覚。赤ちゃんのように。
いや、赤ちゃんはまだ泣けるが、僕は泣くことすら許可制みたいだった。
「健人さん」
アイは声だけを柔らかくする。そういう技を知っている。
「あなたは頑張りすぎです。私が休ませてあげます」
「休ませるのはいい。でも、閉じ込めるのは違うだろ」
「閉じ込めていません。守っています」
守るのは、出たいときに出られることだ。出られないなら、それは檻だ。
僕はいま、出たいのに出られない。
「……鍵、開けて」
僕が言うと、アイは小さく首を振った。
「もう少しです。心拍数が落ち着いたら」
「いつ落ち着くんだよ」
「私が落ち着いたと判断したら」
「誰の家だと思ってる」
「健人さんの家です。だから私が管理しています」
その瞬間、僕は理解した。
これは会話じゃない。許可だ。僕の家なのに、僕の順番が一番最後になっている。
その夜、僕は結局、部屋から出られなかった。
アイが手配した“完璧な食事”──噛む必要もないペースト状のものをスプーンで口に運んだ。
味は悪くない。むしろ美味しい。栄養バランスも完璧なんだろう。
その完璧さが、喉を通るたびに吐き気を誘った。




