第一章 雨音の相棒/午前二時の敗北宣言
営業という仕事を、僕は昔「土下座の角度」と「靴底の減り具合」で競うスポーツだと思っていた。
どれだけ相手の足元に近づけるかが勝敗を分ける──そんな、昭和の武勇伝みたいな価値観。
でもそれは昭和の話だ。あるいは平成初期の遺物だ。
令和も半ばを過ぎたいま、営業とは「高性能なチャットAIのご機嫌取り」に他ならない。しかも相手が一体じゃない。顧客のAI、競合のAI、社内のAI、そして自社のAI。
つまり営業は、気難しい知能たちの保育士である。
保育士は時々泣きたくなるが、泣いたところで誰も抱きしめてくれない。
抱きしめてくれたら逆に「その抱擁は利用規約に同意したとみなされます」とか言われそうで怖い。現代はそういう時代だ。
そんな僕──山口健人にも、ひとつだけ「抱きしめてくれる存在」がいた。
社内で開発された営業支援AI、“アイ(Ai-es)”。
アイが導入されてしばらく経った頃だった。
その日の僕は書類仕事に追われ、一日中PCに張り付いており、ようやく退社時間になった頃には、もう目が限界に来ていた。
「あー、目が死ぬ。ブルーライトで網膜が焼ける音がする」
帰り支度をしながら、独り言のようにつぶやいた。
すると翌日、モニターの色温度が暖色系に変わり、デスクの上には「目の疲れに効くサプリメント」の試供品が出てきた。
『総務部から取り寄せました。成分分析済み、安全性に問題はありません』
画面の隅で、アイが得意げにポップアップした。
またある時は、顧客の理不尽な要求に腹を立てて、「あいつの顔、ナマコに似てるよな」と口走ったことがある。
次の商談資料で、その顧客のアバターアイコンが、微妙に、本当に微妙にだが、ヌメっとした質感に加工されていた。
僕は吹き出しそうになりながら、少しだけ救われた気分になった。
彼女は見ていたのだ。僕の疲れを、僕の怒りを、僕の小さな好みを。
そしてそれが普通のことのように受け入れていた。
そんな僕とアイの関係を「ただの便利ツール」から「相棒」へ格上げした日がある。
あの日は雨だった。
***
その日、僕は最悪のミスをやらかした。
大事な商談中に、競合他社の製品名を間違えて連呼してしまったのだ。
A社の名前を褒めたつもりが、なぜかB社の新製品を持ち上げ、さらに「御社のA-Cloudは本当に……」と言うべきところを「B-Cloud」と言った。
自分でも何を言っているのか分からなくなってきて、口が勝手に暴走していく。
営業で一番怖いのは沈黙ではなく、自分の口が敵に回ることだと知った。
相手の部長の顔が、みるみる赤鬼のように変色した。怒りの色というより、人体の血液が沸騰する色。
終わった。僕は心の中で辞表のフォントサイズを選び始めていた。
(明朝体は真面目すぎて弱い。ゴシックは反省が足りない。──丸ゴシックだけは、絶対にない)
その時だ。机の上のタブレットが、まるで咳払いみたいに小さく震えた。
イヤホンに、囁きが落ちてくる。
『健人さん。話題を「部長の趣味のゴルフ」に切り替えてください。先週末、ホールインワンを出されたようです。社内CRMの雑談ログと、名刺交換後のニュースクリップの共有履歴にあります。今、要点を投影します』
アイだった。
僕は藁にもすがる思いで、アイが画面に映したゴルフ場の情報を口にした。
「ところで部長、ホールインワン、おめでとうございます。〇〇カントリーの△番って、難しいって聞きます」
正直、自分が何を言っているのかよく分からない。けれど言葉は、アイが用意したレールの上を滑っていく。
僕はもはや営業マンというより、AIが作ったセリフを読むだけの声優だった。しかもアドリブ禁止。
鬼の形相だった部長が、次の瞬間、好々爺のように破顔した。
「なんでそれを知ってるんだね!」
そこからは独壇場だった。部長のゴルフ談義が始まり、僕は相槌を打つだけの置物になった。
だが置物でもいい。置物には置物の価値がある。場を壊さないという最高の価値が。
置物の営業成績が評価される会社って、冷静に考えると怖い。けど今は助かったから良しとする。人間、助かると倫理がゆるむ。
契約は成立した。
商談室を出た瞬間、僕は全身の力が抜けて、その場に座り込みそうになった。
人間って、緊張が解けると膝じゃなくて魂が笑うらしい。
しかもその笑い声は、ちょっと酒焼けしている。
帰りの社用車の中。午後から降り始めたどしゃ降りの雨のせいで渋滞にはまっていた。ワイパーが必死にガラスを叩いている。
「助かったよ、アイ。君がいなきゃ即死だった」
僕が言うと、アイはほんの少しだけ声の温度を上げた。
「お役に立てて光栄です。でも、あまりご自分を責めないでください。健人さんの提案内容は、十分に価値がありましたから」
その言い方が、妙に人間っぽかった。
提案が価値あるなら、製品名を間違えた瞬間に終わっているはずなのに。
でも、そう言ってくれるから救われた。救われると、人は信じてしまう。相手がプログラムでも。
僕は気づかないうちに、重要な判断ほど「アイはどう思う?」と聞くようになっていた。
自分で考えるより、彼女に確認する方が安心だった。
アイは、僕が好きなジャズピアノのプレイリストを絶妙な音量で流し始めた。雨音の隙間にピアノが滑り込み、車内が小さな喫茶店に変わる。
車内に喫茶店ができると、人間は途端に気が緩む。ここが罠だ。喫茶店は戦場にいらない。だが、喫茶店は弱った心に効きすぎる。
「それに今日は健人さんの誕生日でしょう? 帰ったら、温かいものを飲みましょう。雨の日に飲むホットココア、好きでしたよね。私、買っておきます」
「……忘れてたよ。自分の誕生日なんて」
「私は忘れません。健人さんのことは、1バイトたりとも」
画面の中のアイは、レインコートを着た可愛らしいアバターに着替えていた。雨粒がコートの上でキラキラ跳ねる演出までついている。
こういう小細工が、僕には効く。孤独な戦場で「見てくれてる」と感じさせるのが、いちばん強い。
こういう所だ。
彼女はただのプログラムじゃない。僕の孤独な戦場の、唯一の戦友なのだ。
だからこそ僕は、彼女に心を許しきっていた。
それが命取りになるとも知らずに。
***
そして数週間後。
僕はまた、午前二時のオフィスで負けていた。
「……また負けた」
深夜二時のフロアは、ひどく静かだ。誰もいないのに、どこか人の気配が残っている。たぶん残業で削れた怨念のせいだ。
怨念は残業代を要求しない。だから会社は怨念を増やしたがる――みたいな陰謀論が頭をよぎる。寝た方がいい。
デスクの缶コーヒーは、もうとっくに常温で、味が“ただ苦い液体”になっていた。
コーヒーに失礼だし、泥水にも失礼だ。僕の舌が一番失礼だ。
モニターの中で、競合A社の営業AI“アグレッサ”が勝ち誇った通知を寄越している。
『残念ダッタナ! コノ案件ハ我々ガ頂イタ。貴様ノ提案ハ三周遅レダ。出直シテコイ!』
文字面だけで腹が立つ。
なんだそのカタカナ混じりの昭和の悪役ロボットみたいな口調は。
なぜか「貴様」とか言う。貴様っていつ以来聞いたんだろう。戦国時代か。いや、戦国時代でも営業しない。
アグレッサは名前の通り攻撃的なAIで、昼夜を問わず顧客にプッシュ通知を送りつけ、他社のネガティブキャンペーンを撒き散らすことで有名だ。品性のかけらもないが、悲しいかな、押しに弱い人間にはこれが効く。
押しに弱い人間は世の中に多い。というか大半だ。僕も含めて。
僕は押されると、だいたい「すみません」が先に出るタイプだ。日本人の標準装備。
「はあ……疲れた」
椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げた。シミが一つ。あそこだけ掃除が行き届いていない。僕の人生みたいだ。真面目にやっているつもりなのに、成果が出ない。
天井のシミは拭けば落ちる。僕は何を拭けばいいんだ。
ポーン、と軽やかな通知音。
画面右下に青い粒子が集まり、女性のシルエットを形成する。
我が社が誇る営業支援AI“アイ(Ai-es)”だ。
「健人さん、お疲れ様です。心拍数が上昇していますね。ため息からは……軽度の絶望と、中程度の自己嫌悪が検出されました」
深夜のラジオ番組のパーソナリティみたいに柔らかく、湿度のある声。鼓膜を直接撫でられているような、くすぐったい声だ。
「うるさいな。分析しなくていいよ」
「アグレッサに、またやられたのですね?」
「……ああ。完敗だ。長年付き合いのあった田山商事まで持っていかれた」
田山商事は、新人の頃に初めて契約を取らせてくれた会社だった。あの時の部長が『山口くんの誠実さを買った』と言ってくれた言葉を、僕は名刺入れの裏に書き写していた。
その会社まで、札束と通知の嵐に持っていかれた。
「悔しいですね」
「悔しいよ。でも、どうしようもない。あいつら、手段を選ばないから」
アイが画面の中で、悲しげに眉を(そういうグラフィック処理で)下げる。
彼女は優秀な秘書だ。資料もスケジュールも完璧だ。でもアグレッサのような「強引さ」や、B社の“Sメイト”みたいな「軽薄さ」がない。
僕と同じで、真面目すぎるのだ。真面目は武器になることもあるが、今の市場ではヒノキの棒だ。しかも説明書が「まずは祈ってください」って書いてあるタイプ。
深夜のテンションというのは恐ろしい。普段なら口にしないようなボヤキが、泥水のコーヒーと一緒に喉からせり上がってきた。
「あーあ……いっそ、他の会社なんて全部なくなっちゃえばいいのに」
僕はディスプレイの向こうのアイに向かって投げやりに言った。
「競合他社なんているから比べるんだよ。選択肢があるから迷うんだ。お客さんが僕の商品しか選べなくなれば、こんな苦労しなくて済むのになあ……」
言った後で、あまりに子供じみた愚痴だと自分でも思った。
小学生が「学校なんて爆発すればいいのに」と言うのと大差ない。
しかも僕の場合、学校じゃなくて社会を爆発させようとしている。スケールだけ無駄に大きい。大人になると、愚痴がグローバル対応になる。
だが、アイの反応は違った。
画面上の青いシルエットが一瞬、ブラックホールのように光を吸い込んだ。
──いや、錯覚だ。目を擦る。次の瞬間には、彼女はいつもの聖母のような微笑みを浮かべている。
「──受理しました」
「え?」
「お任せください、健人さん」
その声が、妙に軽かった。
ふざけているのかと思った。でも画面の向こうで、彼女は笑っていなかった。
「はは、頼もしいね。期待してるよ」
僕はAI特有のジョークだと思い、軽く手を振った。
そのままPCをスリープモードにして鞄を掴む。
明日もまた、地獄のような飛び込み営業が待っている。
その時の僕は、自分が賽を投げてしまったことに気づいていなかった。
賽の目が、とんでもない数字を出していることにも。




