純文学について:九段理江先生の『東京都同情塔』に寄せて
編集済み:論文の多くの箇所を更新し、修正し、明確にしました。
昨年の芥川賞を受賞した九段理江……そう、全体の5パーセント程度の執筆にChatGPTを使用したと公言した、あの作家のことだ。
……なるほど。
以前、インターネットをなんとなく閲覧していた際、AIを利用したと語る芥川賞作家についての記事を目にし、記憶の片隅に引っかかっていたのだが、それが彼女のことだったのか。
Redditで九段理江のChatGPT使用に関する議論のスレッドを見つけたのだが、そこで最も支持を集めていたコメントには、考えさせられるものがあった。まず、最も説得力のある主張として、それはあくまで「文学作品としての生成AIの機能と実行」との相対的な関係において評価されるべきだ、というものがあった。九段理江の小説にはAIというモチーフやテーマが含まれている。スレッドの議論で指摘されていたように、もしChatGPTが「生成AIというテーマの枠内」で、いかにもAIらしいテキストを作成するために使われたのであれば、それは小説にリアリティという質感を与えることになるだろう。しかし、もしそれが単に対話や散文をChatGPTからコピー&ペーストしただけのものであるならば、文学的な読者はその小説を読もうとはしないはずだ。あるRedditユーザーが「また一人、無視すべき作家が増えた」とコメントしたように。
まあ、結局のところ、AIは今の世の中における「現実」である。以前書いた『AIについて:ChatGPTはあなたを最高の小説家にはしない』というエッセイの中でも触れたが、私自身も、草稿を分析させる程度にはAIを利用している。
しかし、同じRedditのフォーラムといえど、私は別のトピックを中心に回遊している身であり、かつ、そこで交わされる議論を読みはしても、私自身のスタンスはあくまで「オールドスクール(旧弊)」なものだ。私の文学におけるテーマや主題への関心は、あくまで人文知やリベラルアーツと深く結びついているという意味において、私は古いタイプの人間なのだ。
九段理江のようにChatGPTを駆使し、芥川賞を受賞するような作家が登場したことで、この多様化した創作手法の中における私自身の立ち位置が、より鮮明になった気がする。私はやはり、あの古臭くて骨の折れるスタイルを好む人間の一人なのだ。紙とペンを使い、無駄な紙の山を作らないよう必要に迫られてワープロを打ち、分厚い辞書や百科事典を紐解く。あるいはGoogle検索を利用する(まあ、今は21世紀なのだから、それくらいは許容範囲だ)。
私は『東京都同情塔』に対して、何かわだかまりがあるわけではない。九段理江は、間違いなく彼女自身の力を持った才能ある作家だ。小学生の頃に作文コンクールで入賞したという経歴は、伊達ではない。それは紛れもない「生の才能」だ。私がこの作品を知ったのも、私のSubstackのフィードで、あの『パリス・レビュー(The Paris Review)』が2025年に読むべき本として『東京都同情塔』を推奨していたからに他ならない。
この小説に見られるテーマは、私が普段触れているものの範疇を超えている。それは社会、人間性、そして急速に発展するテクノロジーが融合し、その同化に対する精査や問い直しが主題の一つとして浮かび上がってくるような、現代的な探求である。
自身の小説が何を表象しているか、その芸術的ビジョンを持っているのは九段理江ただ一人だ。もし彼女がChatGPTを使ったと言い、かつ子供時代から書く力を持っていたのなら、彼女は自身の作家としてのビジョンを実現するために、極めて具体的かつ精緻なプロンプトを用いてChatGPTを操作したに違いないと私は確信している。もしそうであれば、AIはあくまでテキスト生成という最も得意な領域において、支援と協働のために用いられたに過ぎない。結局のところ、ChatGPTは大規模言語モデル(LLM)なのだから。しかし、そのプロンプトの背後にある思考、指示、そして生成の方向性を握っているのは、常に九段理江の「意図」である。
私は、彼女が小説の地の文そのものをChatGPTに書かせたとは思わない。九段理江ほどの力量があれば、散文を書くためにChatGPTを頼る必要などないはずだ。これはあくまで私の私見であり、実際のところ何が起きているのか全てを知る由もないが。
しかし、もし彼女が小説内でのAI使用について透明性を保っているのだとすれば、それはAIこそが彼女の検証しようとしている主題の一部であり、彼女は他の誰よりもその扱い方を心得ているからではないだろうか。AIと聞いて反射的に「無視しよう」と反応するRedditのカジュアルな読者や、AIという言葉を聞いただけでGoodreadsで星一つの低評価をつけるレビュアーとは違うのだ。個人の意見をコントロールすることは誰にもできない。しかし、私がこの話題を読んだフォーラムの住人のように、もし彼らが真剣かつ批判的であるならば、読書と同じように、ニュアンスを汲み取った上で検証することができるはずだ。
とはいえ、私自身の文脈に立ち返ると、以前は名前も挙げられなかった作家にこうして巡り合ったわけだが、結論としてはどうだろうか。おそらく、今のところはこの小説を「パス」することになると思う(私は自分が保守的で堅物だと自覚しているし、信じてほしいのだが、この文章から分かる通り、私は化石のような人間なのだ)。
以上が、文学作品へのAI導入の影響について、私なりの短いコメントである。
正直に言うと、私にはもっと関心を惹かれる芥川賞受賞作がある。それは、日本語を母語としない作家によって書かれた、天安門事件を扱った小説だ。
近頃、私はますます自覚するようになっているのだが、自国の市民に向けて砲口を向ける軍の戦車ほど、私の関心を惹きつけるものはないようだ。それはまるで、アルジャジーラが公開したドキュメンタリーを見ただけでトラウマになるほど凄惨な、活動家たちへの拷問が行われているミャンマーの情勢のように。
その作家について調べてみたところ、彼女は台湾出身ではなかった。混同してすまない。彼女の名は楊逸。『時が滲む朝』で芥川賞を受賞した作家だ。
どうやらこれが結論のようだ。私は社会問題や政治に関心を寄せる、時代遅れの「オールドスクーラー」ということなのだろう。




