37. アメリカの覚醒者ジョン・ブラウン
氷の精霊事件以降の東京は、まるで何事もなかったかのように再び平穏な姿を取り戻したように見えた……と言っても、それは本当に安全になったからではない。
単にこの時代を生きる人々の感覚が麻痺しただけだ。
人間は適応の生き物だと言うではないか。
モンスターがいなかったかつての平和な日々は、友と酒を飲み交わしながら子供時代の話をする時に思い出す思い出のように、二度と戻れない昔話になってしまったのだ。
だからと言って、完全に手放してしまったわけではない。
危険に慣れて警戒心が薄れただけであり。
覚醒していない一般人は、大都市で暮らすというだけで、やれることは全てやったと言える。
東京だからと言ってモンスターが現れないわけではないが。
都市の規模に比べて毎日出没するわけでもないから、目に見えさえしなければ、人々は『昔と変わらない』と思って生きているのだ。
しかも大都市には防衛隊が常駐しているため、中小都市より覚醒者の数も多い。
危険が感知されれば迅速に対応するため、まだ『公権力が崩壊したわけじゃない、まだ暮らしていける』と思っているのだろう。
実際そうだから間違った話ではない。
反面、地方の中小都市は事情が異なる。
覚醒者が常駐していない場所では出動が遅れるため、被害が拡大しやすい。
そうなればなるほど、人々の心には『大都市の方が安全だ』という認識がより強固なものとなった。
その反動で、問題は予想外の場所で現れた。
まさに不動産市場の地殻変動。
中小都市の需要は大きく減り、取引が止まったも同然となり。
東京も事情が良いわけではなかったが、中小都市とは動きの様相が違った。
大都市が安全だから価格が上昇するのは当然じゃないかと言われるかもしれないが。
一戸建ての価値は底を打ち、大型マンションは庶民には手の届かないほど価格が高騰した。
一戸建ての価格がマンションに比べて相対的に低いというだけで、決して安いというわけではない。
モンスターがいなかった時代と比べれば、大都市にあるという理由だけで何倍にも跳ね上がっているのだから、想像がつくだろうか。
それほどマンションの地位は、どんなに古い建物であっても一般住宅とは天と地ほどの差が開き、金があるからといって誰でも入居できるわけではない、そんな状況になった。
こうなった理由は少し考えてみれば分かる。
モンスターが壊しやすいのは? マンションより小さな一戸建てだ。
マンションは一戸建てより構造的に遥かに堅固で防御力が高い。
その結果、大都市にあるマンションは、モンスターが現れる前から所有していたものでなければ、企業の持ち物だと言われるようになった。
私がなぜこんな考えを巡らせているのか?
そうだ。つい先日引っ越してきたマンションを出て、防衛隊へ向かっている最中だったからだ。
防衛隊がマンションに住めるよう支援してくれたのだが……これからは寝る前に防衛隊のある方向へお辞儀でもしてから寝なければならないな。
誰かは覚醒者に対する特権ではないかと言うかもしれない。
その通り、特権だ。危険な仕事をしているのだから、これぐらいの小さな特権は享受してもいいじゃないか?
それに、防衛隊の覚醒者が隣人であれば、マンションの住人たちも喜ぶ。
覚醒者が自分たちの建物に住んでいるから少しは安全だろうという安心感と、覚醒者がそのマンションに住んでいることで上昇する地価を無視できないからだ。
久しぶりに平和な朝を迎えながら防衛隊に到着したが、正門で意外な人物と鉢合わせしてしまった。
「ジョンさん、お久しぶりです。」
アメリカの覚醒者、ジョン・ブラウン。
世界防衛評議会で会った。
雪女を阻止するために同行した人物。
だが私の挨拶にも、私が誰なのか分からないのか眉をひそめてこちらを見つめた。
「雪女と戦った時に一緒だった。」
「あ! あの時のチビか! 会えて嬉しいぞ。」
ヒントを与えると、ようやく分かったふりをする。
いっそ知らないふりをして通り過ぎればよかったかと思った。
「無視しようとしたわけじゃないんだ、悪かったな。ハハ! 俺の目には東洋人はみんな似たように見えてしまってね。」
「そういうこともありますよ。私も西洋人の顔はよく区別できませんから。」
「ハハ。理解してくれて助かるよ。」
「ところで、ここにはどういったご用件で?」
「それがな、マサヒロさんが俺に会いたいって言うもんだから。俺があまりにも人気者だからな? 遠い異国に来ても衰えない人気とは……ふぅ、少年は俺みたいになるなよ! 人気がありすぎると疲れるからな。」
そう冗談を言ったかと思うと、急に片腕を私の肩に回してくるではないか。
「ここは慣れてないんでね、案内してくれないか?」
外国人はジョンのように積極的なのか?
人によって性格も千差万別だからそうとは限らないだろうが……
「いいですよ。初めてなら道に迷うかもしれませんし、私が案内します。」
知らない人でもないし、助けてもらったこともあるから、道案内くらいお安い御用だった。
「オウ! じゃあ行こうか!!」
ジョンの力強い叫びに、周りの人々の視線が一斉に私たちの方へ注がれる。
私がやったわけでもないのに、隣にいるというだけで顔がカッと熱くなった。
早く送り届けて彼と別れようと思い、急いで足を運んだ。
「ジョンだけ呼んだはずだが、ユウマ、君はなぜここにいるんだ?」
「部下の顔を見ればいいことあるだろ。道案内を頼んだついでに、俺がお前んとこの隊長の顔を見せてやるって言ったんだ。気が利くだろ?」
ジョンの言葉に、マサヒロ隊長がそれが本当かというような顔でこちらを見る。
それはそうだが……私は案内だけして戻ろうとしたのだ。
マサヒロ隊長なんて申請さえすればいつでも会えるのに、彼が招待した客と一緒に会うのもおかしな話ではないか。
そう、ドアの前で帰ろうとしたのだが……力が本当に強かった。
アメリカ人らしく背も高く体格もいい上に覚醒までしているのだから、どれほど力が強いことか。
もちろん本気を出せば彼の腕を強く振り払えただろうが、そこまですることでもないので力を使わなかっただけだ。
「そうか……お前もここまで来たんだ、前に座れ。」
その言葉に、ジョンが得意げな顔で私を見る。
一体これはどういうことなのか……まあいい、話でも聞いてみるか。
そう軽い気持ちで席に着いたが、しばらくして『私がここにいてもいいのか』と思うような話が飛び交い始めた。
「……最近になって、沖縄にいる米軍を東京へ呼び寄せているようだが。」
「ああ、そのことですか。アメリカに戻る前に、派兵先の国の首都くらい見物して行くべきでしょう。ハハ。」
どうりで最近、道で短髪の男をよく見かけると思ったが、あの人たちは軍人っぽいのではなく、本当に軍人だったとは。
ジョンの言う通り、自国に戻る前に観光ぐらいはしてもいいのではないかと思ったその時。
「複数人で徒党を組んで歩き回っているそうだが。」
「知り合いといえば一緒にいた同僚たちだけでしょうから、そうなったんでしょう。」
「何かを探しているようだと聞くが。」
「なにせ血気盛んな年頃の連中ですから、帰る前に女性の手でも握ってみたかったんでしょう。もう少し気をつけるよう連絡しておきますよ。ハハ。」
まるで矛と盾の争いを見ているようだった。
なんでここまで来て、いい歳した男同士の幼稚な口喧嘩なんか見なきゃならないんだ。
「もう少し気をつけるよう伝えてくれ。覚醒が貴重な経験であることは確かだが、珍しいからといって所構わず能力を使っていいわけがあるまい。」
「!!」
「……ギリリ。アメリカでは覚醒すればすぐヒーローになるかのように思われているので、あいつらも無駄に興奮していたんでしょう。気をつけるよう言っておきます。」
怒りで歯を軋らせる音。
まずは軍人の友人たちに注意する以前に、本人から落ち着くべきだと思うが……
その後、二人がしばらく話し込んだ後、ジョンが席を立った。
「有意義な時間でした。またお会いしましょう。」
私も彼に続いて静かに出て行こうとしたのだが。
マサヒロ隊長が話があると言って、私を再び座らせた。




