月下の契約
月明かりが静かに地を照らしていた。
あの裂け目から数日が経ち、一真とレイヴァンは王都から離れ、境界地帯へと潜伏していた。
人の目を避けるように森を進む中で、二人は言葉以上に互いの沈黙を共有していた。
「……変わったな、お前」
焚き火の前で、レイヴァンがぽつりと口にする。
「そうか?」
「最初に出会ったときは、剣を振るのも怖がっていた。今のお前は……何かを覚悟している目をしている」
一真は火の揺らぎを見つめたまま、小さく息を吐く。
「覚悟っていうより、怖がる余裕がなくなっただけだよ。怖がってたら、また誰かが……」
そこで言葉を切る。
「……いや、やめておこう。こういうの、レイヴァンには似合わないよな」
「私にも怖れはある」
「……え?」
レイヴァンはゆっくりと立ち上がり、背後の月を背にして一真を見下ろす。
その紅い瞳が、夜の中で妖しく光っていた。
「私は魔族だ。戦いと死をくぐってきた。けれど……お前と出会って、初めて生きるという感覚を知った」
「……」
「だから私は、お前と共に歩く。この戦を終わらせるために。そして、お前の問いに……誰かを救うとは何か、その答えに辿り着くために」
一真は驚いたように彼女を見つめる。
だがレイヴァンの目は、迷いのない、覚悟の光に満ちていた。
そして次の瞬間。
彼女の左目が、まるで、封印が解かれたかのように紅から金へと変化する。
「これは……」
「創造神の印」
レイヴァンは静かに言った。
「私の中にも、鍵に似た力が眠っていた。それが今、お前の存在に反応したのだろう」
「じゃあ……」
「私は、お前と同じ門を渡る者。あるいは、門を守る者としての末裔……そう、ザルギスはそう言っていた」
「ザルギス……!」
一真はその名を聞いて、思わず声を上げた。
彼もまた、次元の歪みの中で姿を消した賢者。そして、おそらく向こう側にいる。
「……俺たちだけじゃないんだな。選ばれた者は」
「そうだ。だが、選ばれたことに意味があるのではない。どう選ぶかが、すべてを決める」
レイヴァンは一真の前にひざまずき、静かに手を差し出す。
「だから契約しよう。お前が、空の勇者であるなら、私はその刃。お前の意志の先に、私の剣を置こう」
一真はその手を見つめたまま、しばらく動けなかった。
けれど――
「……ありがとう」
そっと、その手を握り返した。
その瞬間、空に浮かぶ月がひときわ強く輝いたように見えた。
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一方その頃、王都では――
「……欠片が動き出しました」
祭壇の前で跪く聖女・エリシアが、静かに目を伏せる。
その背後にあるのは、空間の裂け目の残滓。
閉じきらぬ門の名残が、微かに、だが確かに空気を震わせていた。
「彼は……まだ、私のもとに戻っていない。ならば――」
少女の碧眼が、月に照らされて異様に澄みきっていた。
「……この世界ごと、彼を私のものにすればいい」
その呟きは、祈りというより呪詛だった。